【ある魔女の追想】⑨

 また、過去へと巻き戻る。神に殺された、その次の世界。

 いつかと同じく咲子は両肘をつき、店のカウンターの内側に座って外の景色をぼんやり眺めていた。

 店の窓から見える外の景色が、今日は騒がしい。止まっていた路面電車には客がぎゅうぎゅう詰めになっており、いつもは止まっている車たちも動いている。

「ね、帰りに踊りに行こうよ」

「明日はどこに行く?」

 流行りの格好をしたカップルが店の前を通り過ぎていく。今日はあの気まぐれの神が、気まぐれに人や物を動かしている日だ。それに飽きたら今動いている人間たちは消え去り、路面電車や車も動きを止める。

「……」

 咲子は、ぼうっとそれらを見つめる。

 今は何月だったのか。どんな日だったのか。それももう、どうでもいい。なんだかもう、疲れてしまった。自分はなぜここにいるのか、最近はそう思ってしまう日が増えた。

 咲子はぼんやりと思い返す。

 この小さな店で注文書やトレーを手に慌ただしく動き回った。「ごめんなさい。席が空くまでお待ちくださいね」と並ぶ客たちに声をかけた。料理を作る彼の姿。彼と一緒にここから外を眺めた時のこと。

 あのアパートでの思い出。彼と共に逝く選択を選んだこと。一人だけ死ねなかったこと。刑事に言われた言葉。死のうとしたがその一歩が踏み出せなかったこと。自分に残った命を賭けると言ったこと。この世界に来た一番最初の時。

「……ふ」

 そこで咲子はかすかに笑った。口角と顔の筋肉を動かしただけの、機械的な笑みだった。

 と、その時。がちゃりと店の扉が開いた。

「あ、ほんとにあった」

 扉の向こうに立っていたのは、一人の男性だった。咲子はカウンターから横目を向けて、その男性を見る。男性の後ろには高級ホテルのような壁が見えた。

 店の扉が開くのは、本当に久しぶりだった。そう思うが、とうに心が死んでしまった咲子の表情は、一ミリも動かない。

「うわ、まじで店があんじゃん。あの神が言ってたこと、嘘じゃなかったんすねえ」

 と、男性の横から、新たな人物が店を覗いた。

 ちらちらと見える男の格好は燕尾服のようなものだろうか。手には白手袋もはめている。だがそれらのきっちりとした服装が、男の派手なオレンジ色の髪とへらへらした表情と合致していない。

 よく見ると、店の中を覗いているのはそのへらへらした男の他にもう一人いる。メイド服を着た女の子だ。

「……本当に一人で行く気ですか? 死にますよ」

 男性の横に立つ、その女の子が言った。

「そうっすよご主人。あんたが死んだら、おれの給料、誰が払ってくれるんすか」

「そう言うなら一緒に行く? 与儀よぎ君」

「おことわりっすねえ。男と喫茶店デートなんて笑えねえっすう。それも仕事内容って契約書作ってくれてその分の金をくれるんなら、ニコニコしながらデートしてやりますけどねえ」

 与儀よぎと呼ばれた男の声は、そのまま遠ざかっていった。

「やはり私も一緒に行ったほうがよろしいのでは」

「大丈夫だって。何かあったらすぐ呼ぶからさ」

「何かあってからでは遅いのですが……」

「そんなに心配しなくても大丈夫だって。そんなに言うなら賭けてみる?」

「……笑えないですよ。ご主人様」

 女の子はため息をつく。二人のやりとりを、咲子は横目で見ながら聞いている。

「……私はここで待機しておりますので、何かが起きそうになったらすぐに呼んでください」

「はいはい。分かったよ」

 男性は女の子に笑いかけ、ようやく咲子のほうを見て自分の真下を指さした。

「一人なんだけど。入ってもいいかな?」

「……お好きなお席にどうぞ」

 そう返すと、男性は中に入って扉を閉めた。一直線に席に向かう。咲子はその間に椅子から立ち上がり、髪を結んで一人分のグラスを用意する。

「ご注文はお決まりですか?」

 慣れた様子でトレーから水の入ったグラスを男性の前に置く。そう客に聞くのも、こうして水の入ったグラスを客の前に置くのも、本当に久しぶりだった。

「ちょっと待ってね。うーん、どれにしようかなぁ」

 男性は開いたメニュー表を見つめ、悩んでいる。

 男性の歳は四十代ぐらいに見える。上半身は黒っぽい服とデニムのジャケット。ジャケットの襟元には風車かざぐるましたようなエンブレムがけられている。下半身はすっきりした白のズボンで、軽く流した黒髪の中にちらほらと白髪しらがが混じっている。

 外見は相応の歳を感じさせるが、その表情は明るい。はつらつとした若さを持った人だった。特に二つの黒い目が、まるで宝石のように生き生きと輝いている。

「あー……おすすめを聞いてもいいですか」

 どれにしようか決められなかったのだろう。メニュー表から顔を上げ、男性が聞いてきた。

「おすすめは全部ですが、よく出るのはサンドイッチやオムライスなどの軽食ですね」

 よく出るのは……「その時」は、もうどれぐらい前のことだろう。そう思いながらも、無意識に答えていた。どうやら染みついた接客は、まだ消えていなかったらしい。

「うーん、じゃ、オムライスで。コーヒーもお願いします」

「かしこまりました。コーヒーはいつお持ちしましょうか」

「食事と一緒でお願いします」

「かしこまりました」

 慣れた様子で咲子は注文を取っていく。体に染みついたその動きを忘れていないことが嬉しく、同時にどこか悲しかった。

「では、用意いたしますので少々お待ちください」

「あ、そうだ。その前にちょっと」

 カウンターに戻ろうとした咲子は、引き止められて振り返る。男性は首を少し後ろに向けて、店の扉を見て言った。

「あのドアさ、前はベルがついてなかったっけ」

「……つけていても鳴ることがないので、外しました」

「あ、そうなんだ。ふぅん」

 そう言うと、男性は首を前に戻した。次に、黒い宝石のような目で咲子を見てこう聞く。

「君さ、ここにずっといるんだってね」

「……そうですが」

「あの神様となんか、勝負をしてるとか?」

「……そうですが」

 何が言いたいのかと思いながらも、咲子は正直に答える。嘘をつく理由も誤魔化す理由もない。

「あのさ、君が本気でここから出たいなら手伝ってあげるけど、どうする?」

 男性の言い方は軽い。だがその黒い目の奥に、冗談みは感じられない。

 その問いに咲子は、すぐにこう答えた。

「お言葉だけ貰っておきます。私、ここから出る気はありませんので」

「そっか。じゃ、この話はもうおしまいね」

 そう言って男性は笑いかける。男性に軽く頭を下げ、咲子はカウンターに戻った。

 慣れた手つきでフライパンに油を引き、火をつける。コーヒーの豆を棚から出し、フライパンがあたたまっている間に飲み物の準備をする。カウンターでこうやって動くのは、本当に久方ひさかたぶりだった。

「……」

 しかし、手際よく料理を作っていく咲子の顔は、どこか暗い。

 本当に久しぶりに、ここに客が来て、注文を取って料理を作る。嬉しいはずのことなのに、心の中は沈み切っていた。この店はこんなに静かだっただろうか。この店はこんなに広かっただろうか。そんなことを、料理を作りながらふと考えてしまう。考えても、どうにもならないのに。

 咲子は男性に気づかれないようにため息をつく。頭の中に浮かぶのは、やはりこの店に彼がいた時のこと。彼はもう、ここにはいないのに。そのことを思い出しても、しょうがないのに。

 咲子はどこか沈みきった表情で料理を作っていく。いつの間にか外に大勢いた人たちは消え去り、路面電車も車たちも動きを止めていた。


「ご馳走様でした。おいしかったよ」

 男性が席を立つ。

「まさか、十年も前に来た店がそのまま残ってたなんてねぇ。グラウもまた変な気まぐれを起こしたもんだ」

 と、男性は店を見回しながら言う。咲子はそれを聞きながら、空いた食器をトレーに置いていく。

「あ、そうだ。ここさ、僕が作ってる施設から出入でいりできるようにしてもいいかな。今は僕の家の物置に繋げてるんだけど、僕の家、島にあるからここに通うのはちょっと遠いんだよね。どうかな」

「……お好きにどうぞ」

 咲子は平坦な声で答える。『ここから出られない』対価を持つ自分には、この店がどこに繋がろうがどうでもいい。

「そっかそっか。ありがとう。じゃあそうするね。ちなみに僕がどんな施設を作っているのかって、興味ある?」

「ありません」

「そっかぁ……」

 咲子がぴしゃりと言うと、男性は明らかにしょんぼりしてぽりぽり頬を掻いた。

「ま、いいか。次に来た時はそこらへんのことを説明するね。じゃ」

 そう言うと、男性は店の扉を開けて出て行った。

 一人になった咲子はカウンターに戻り、蛇口を開けて皿を洗っていく。その時ふと、声を漏らした。

「……あ」

 咲子は泡まみれの手を一旦止め、

「……お金、貰ってないわ」

 と呟いた。

 そして小さくため息をつく。まさか何年も接客業をしてきて、客から代金を貰い忘れるとは。自分が思っていた以上に、「久しぶりに客が来た」ということに目がいっていたようだ。

「仕方ないか。私のミスだもの。次に来た時、前来た分のお金も払ってください、なんて言えないし」

 一人で呟き、洗い物を再開する。誰もいない店の中に、水が流れる音と、皿がこすれる音だけが響く。

 咲子は洗い物をしながら、窓の外に目を向けた。

 誰もいない大通り。止まった路面電車。止まった車たち。かつて自分が働いていた百貨店。この景色を見るのは何度目だろうか。無意味なことを考えたと、咲子は思う。

 自分が死ねばいつかの日まで戻り、そこからまた始まる。いくら店の中が汚れようが食事の代金を貰おうが、自分が死ねばレジの中も「その日」の状態まで戻るのだ。そのため、せっかく新しい客が来て食事の代金を貰っても意味がない。

「……」

 咲子はもう一度、ため息をついた。

 洗い物を終え、蛇口を閉めて手を拭く。

 今日は確か、六月の何日か。まだ最初のほうだった気がする。彼が死んでしまうまで、まだ時間がある。

「……」

 咲子は少し考えるように黙ったあと、ホールに戻って、ひっくり返した椅子をテーブルの上に置き始めた。

 これは単に、彼が死ぬまで時間があるだけ。その間、やることがないだけ。

 咲子は心の中でそう繰り返しながら、掃除用具入れからモップとバケツを用意する。バケツに水を入れ、濡らしたモップで床を拭いていく。掃除をしているとあっという間に時間が過ぎて夕方になり、夜が来た。


 それから六月十五日を四十回ほど繰り返した頃。突然店の扉がノックされた。

「……はい」

「こんにちは。今いいかな。ちょっと扉、開けてみて」

 そこに立っていたのは、いつぞやの男性だった。

「……」

 咲子は言われるままに扉の隙間を広げる。見てみるとこの前の廊下ではなく、無機質な壁に変わっていた。左右に通路が伸びている。

 男性は見せるように両手を広げ、説明する。

「君がいる店を、異能力者登録組合の隔離棟に繋げたよ。部屋番号は303号室。どう?」

 どうと言われても、興味もないのだが。

「……ありがとうございます」

 咲子はひとまず、礼を言った。割り当てられた部屋番号が303なのは偶然だろう。その部屋番号は、彼と住んでいたアパートの部屋番号と同じだった。彼との思い出が詰まった場所。もう今では、あまり近付くことさえしなくなった場所だ。

「そうそう。昨日ね、君のお墓をみんなで作ったよ。ここでは入った人のお墓を作る決まりなんだ。居住棟と隔離棟、わずね」

 男性は写真を見せてきた。そこには盛った土に木の十字架を立てただけの簡素な墓が写っている。墓の上には小さな花束が置かれている。

「こっちはみんなと撮った写真だよ」

 二枚目を見せられる。簡素な墓の前に三人が立っている。この男性と、シャベルを持った海賊の格好をした女性と、カーキ色の軍服を着た男性だ。全員がどこかしらにつちよごれをつけている。

「久しぶりに運動したら筋肉痛になっちゃったよ。もうすぐ五十歳だから、あんまり無理しないほうがいいのかな。あなりだけでクタクタだ」

 写真をしまいながら、男性は笑う。

「この二人は隔離棟の責任者っていうやつだから、今度連れてくるね。まあ、その話はひとまず置いといて、」

 男性は、自分の真下を指さした。

「入っていいかな? アイスコーヒーを一杯お願いします」

「……お好きなお席にどうぞ」

 案内すると、男性は店の中に入ってカウンター席についた。咲子もグラスやらを準備し始める。

 のちに知ったことなのだが、この男性の名前を、かざかなめというらしい。


「……ふふふ。今日も負けてしまった。『死ぬと時間を巻き戻す』能力者とはな。それには確率など足元にも及ばない。さながら永遠を操る魔女か」

「隔離棟の能力者」という肩書かたがきがついてから、六月十五日を何度か繰り返してきたある日のこと。咲子は目の前に座る老人と、二十三回目の勝負を終えたところであった。

久方ひさかたぶりにい勝負ができてこのいぼれの心もはしゃいだよ。ここにいる他の若造共わかぞうどもほねがなく、勝負をしても非常につまらん。新入りの貴様を見習ってほしいものだがな」

 と、老人がテーブルに立てかけてあったステッキに手を伸ばす。老人の年のころは八十ぐらいに見える。整えられた口ひげと、くらい楽しみをたたえた目が特徴的な人物だ。両手の指にはめた宝石が、これでもかとぎらぎら輝いている。

 この老人の名はエドワード・ウィルソン。《確率を操る》能力者である。二人の間にあるテーブルの上には、黒光りするリボルバー銃が置かれていた。

「ふふふ。今日は気分がいい。これならばぐっすり眠れそうだ。退屈に満ちた二度目の人生と思っていたが、案外あんがいこれからかもしれぬな」

 エドワードは立ち去ろうとする空気を出すが、なかなか席を立たない。この世界から出るのが名残惜なごりおしいというように、咲子に言葉を投げかける。

「貴様も案外、この生活を楽しんでおるのではないか? この世界から出られぬという対価を持ちながらも、時間を操るなどという能力は文句なしに強い。私の《死を引き寄せる》対価が可愛く見える。どうなんだ? 『永遠の魔女』よ」

「……別に何とも思いません」

 コーヒーの入ったカップを口元に持っていきながら、平坦な声で咲子は答えた。勝手に変なあだ名をつけられたことも、どうでもいいし興味もない。

「ふふふ、なるほど、何とも思わんか。恐ろしく冷徹れいてつな『魔女』よ。まるでこおりはしらのようだな」

 そう言うとエドワードはまた、ふふふ、と肩を揺らして笑った。勝手にそんなたとえをされても、咲子の表情は動かない。

すべてはあのお方の気まぐれだが、その気まぐれもまた、確率の一つ。あのお方が我々を一気に死体へ戻そうが、ランダムに誰か一人を選んでおもちゃにしようが、私にとってはそれもまた賭けの一つにすぎん。あのお方がさずけてくれたこの力が、あのお方の気まぐれに勝てるかどうか。それもまた、この老いぼれの心を震わせる賭けの一つよ」

 エドワードはにやりと笑みを浮かべた。

「……ずいぶんと、賭けがお好きなようですね」

「かかか、二度目のせいだぞ。楽しまねばそんだぞ、『魔女』よ」

 咲子が言うと、エドワードは口を開けて笑った。

「我々は生者せいじゃ死者ししゃの間にいる存在。動く死体、体温のあるしかばね。ひとことではれぬ存在よ。

 だがその前に、我々はあのお方に選ばれた。死の瞬間に願い、呪い、結果、あのお方の気まぐれに見事みごと引っかかった。だから貴様も私も、今ここにこうして生きている。そうだろう? 『魔女』よ」

「……」

 咲子は答えない。黙ったまま、カップの底に残ったコーヒーを見つめている。

「全ては決まっていることであり、選ぶことで未来は変わる。それだけのことだ。いくら確率を操作しようが未来は見えぬ。だからこそ、私は賭けが大好きなのだよ」

 エドワードはふところから懐中時計を取り出し、それをひらいて時間を見る。

「……おっと、そろそろベッドに入る時間ではないか。では、また来るぞ」

 エドワードはようやく席を立ち、テーブルに出していた銃を掴む。

「……お待ちしております」

 咲子は座ったまま、エドワードの背中を見送った。出入り口の扉が静かに閉まる。

「……」

 咲子は一息つく。コーヒーの二杯目を入れようかと思った時、閉まった扉が二回ノックされた。

「はい」

 座ったままで言うと、扉が開いて一人の女性が顔を覗かせた。

「おや、さっきのおじいちゃんはどこへ行ったのかな」

 海賊の格好をした女性が、店の中を見回す。この女性は隔離棟の責任者を任されている一人である。去って行ったエドワードを探しに来たのだ。

「エドワードさんなら、自分のお部屋へおかえりになりましたよ」

「そうかそうか。じじいは寝るのが早くて助かる。ボケていないからいちいち探す手間てまもないしな。一応、部屋に戻ったか確認してくる。では、邪魔したな」

 女性はそう言うと、開けていた扉を閉めた。

 咲子はまた、一人残される。

「……」

 この店に人が来てくれることが嬉しくないわけではない。けれど最近は、食事より「賭け」をしに来る客のほうが多くなった。二度目の命を生きている自分を含め、能力者と呼ばれている人たちはなぜか「賭け」を断れないらしい。そのためどんな勝負であろうが、自分は賭けに誘われたら頷くしかない。

 勝負を受けるのは別にいい。だがふと、たまにはと思う時もある。注文を書きとめることや料理を作っていたこと。それが無性むしょうに懐かしくなる時はある。

 咲子はこの前店に顔を出してくれた男性……五十代後半になった風見萃の姿を頭に浮かべる。

 彼はまばらだった白髪が増え、顔や手にも年齢が表れ始めていた。それでもなお、若者のように生き生きとした目は変わっていなかった。

 実業家や風見家当主、息子たちの会社の取締役など表の顔がたくさんある彼は、最近そちらの仕事が忙しくなったのか、この店にはぱったりと来なくなった。先日、さっきの女性になんとなく聞いてみたが、ここ数日、組合でも姿を見ていないと言っていた。

 居住棟の離れに住む能力者……東條さんとは連絡を取り合っているようだが、やはりどうにも、東條さんに最近の彼のこと聞くのはどこか遠慮えんりょしてしまう。萃さんのことは心配だが、どうしているか聞いたところで自分はこの店から外に出られない。だったら最初から、何も聞かないほうがいいのだろう。

 咲子は一人、そんなことを思う。

 と、突然。店の扉が乱暴に蹴破けやぶられた。

夜喰よるばみレイジだ。あんたが『魔女』か?」

 言いながら入ってきたのは、手や首にじゃらじゃらとアクセサリーをつけた男だった。歳は三十ぐらいに見える。

「……いらっしゃいませ」

 咲子は座ったままで、一応、店員として声をかけた。

「『確率』のじじいが負けたって言うからどんな奴かと思ったが……ただの女じゃねえか」

 レイジは咲子のいるテーブルへとずかずか歩み寄り、咲子の向かいの椅子にどかっと腰を下ろした。

「ご注文は?」

「そんなもんねえ。賭けだ。賭けをしようぜ」

「ええ。いいわよ」

 その提案に、賭けを断れない死人である咲子は当然頷く。

「勝負はブラックジャックだ。ルールは分かるな?」

 レイジはテーブルの上にトランプの箱を置いた。

「ええ。その前に一つ聞いてもいいかしら」

「なんだよ」

 レイジが睨み返してくる。いくら自分が死ぬと店の中が元通りになるとはいえ、思い出の残るこの店を乱暴に扱われて、咲子は心の中でかなりムカついていた。

「あなたの名字、『夜喰』って言ったかしら。もしかして『夜』に難しいほうの『食べる』っていう字じゃないでしょうね」

「だったらなんだよ」

「その名前、もしかして自分でつけたのかしら。私たちの間で偽名を名乗る人は珍しくもないけど、そんな、中学生が一生懸命考えてつけましたっていう名前……恥ずかしくないのかしらって思っただけよ」

「……っ!」

 咲子の挑発に、レイジの顔がかあっと真っ赤に染まった。

「上等だクソ女、ぶっ殺してやる!」

 レイジは折り畳みナイフを取り出し、わなわなと怒りに震えている。

「いいわよ。殺してみなさい。私を殺したらあなたはこの『今日』に取り残されるわよ。それでもいいなら、私を殺してみなさい」

 咲子は微笑みかける。

「殺すなんて簡単よ。そのナイフを私の心臓に向けるだけ。そして思いっきり……ブスリ! これだけじゃない」

 と、咲子は言った。それはいつか、あの気まぐれな神に言われたことと同じ言葉だった。


「また他の能力者をいじめただろう? サキコ」

 と、海賊の格好をした女性が言った。

「私は勝負を受けただけです。いじめたなんて、誤解を生むような言い方はやめてほしいですわ。メアリさん」

 カウンターの椅子に座る咲子は、その女性……メアリにそう返す。レイジが来た日から六月十五日を十回ほど繰り返した、ある日のことだった。

「この前は『確率』のエドワードさん。そしてその次は居住棟のレイジさん。その次は萃さんの付き添いで来ていた与儀さん。挑戦者がえないですね」

 と、メアリの向かいに座る軍服を着た男が言った。

「名が知られるということはそれほど知名度も上がっているということだがな。それなりの馬鹿も寄ってくる。挑発をけるアホとかな」

 メアリはそう言うと、フォークに差したハンバーグのかけらを口に入れた。

「そもそも、頭のいい奴は新入りに勝負などふっかけん。あのじじいと萃の側近は例外だが」

「それもそうですがね」

 メアリがもにゅもにゅと口を動かしながら言うと、軍服の男は頷いてコーヒーの入ったカップを口に運ぶ。

「そういえば、萃が来週に来るとか言っていたぞ。本当かは分からんがな」

 口の中に入っている物を飲み込んだメアリが、ふと言った。

「どうせまた、仕事が入ったとか言って来なくなる。二か月もここに顔すら出してこん奴だぞ。また嘘だ。あいつは嘘つきだからな」

「萃さんは忙しい方ですから、仕方がないですよ。待つのは慣れていますから」

 と、咲子はここにいない萃をフォローする。その言葉は本音であり、嘘だった。待つのは慣れたがそれで心が疲れてしまったのも、また事実。

「ほう。ならば賭けてみるかい? 『永遠の魔女』」

「ご冗談を。笑えませんよ」

 咲子は苦笑しながら返す。この二人に教えてもらったことだが、どうやら自分たちが断れない「賭け」は、相手からの勝負の提案でなければ回避できるらしい。そのあたりはよく分からんが結構ゆるいんだと、メアリさんは言っていた。

 食事を終えた二人が席を立つ。

「ご馳走様。今日もおいしかったよ」

「ありがとうございました。またどうぞ」

 二人を見送り、隔離棟、三号棟の廊下と繋がった扉が閉まる。咲子はまた、一人になる。

 咲子はかちゃかちゃと空いた皿をトレーに乗せていく。その時手が滑って皿が落ちた。大きな音を立て、五つほどになった破片が床に散らばる。

「も、申し訳ございません!」

 しゃがみながら慌てて声を上げる。

「失礼いたしました。すぐに掃除をいたします。秋仁さん、ほうきとちりとりを……」

 と、顔を上げた咲子の言葉が途中で小さくなった。

 店の中には皿を割ったことに騒ぐ客も、皿が割れたことに驚く客も、一人もいない。

 そして名前を呼んだ、彼の姿もどこにもない。店はただしんとしていて、ここにいるのは自分だけ。店の中でこうして動いているのは、自分一人だけ。

「……」

 咲子は手を伸ばし、落ちたかけらを一つ取った。それを握りこみ、自分の喉へと向ける。かけらの尖った先が皮膚に刺さり、血が滲む。

 咲子は無表情のままそのかけらを、ぐっと喉に押し込んだ。


 それからも変わらず、時間は過ぎていく。

 彼の死を見て、そのあとを追いかける。その繰り返し。六月十五日が来て、そこで死んで、過去に戻ってまた同じ日々を見る。そしてまたあの日が来て、彼のあとを追いかけるように自分も死ぬ。そのことの繰り返し。

「……」

 目を開ける。かつての家の中だった。自分の前にはぐつぐつと煮立つ手鍋。自分の右手にはお玉。自分の格好はワンピースとエプロン。髪もポニーテールに結ばれている。この光景を見るのは、久しぶりだった。

「でも、咲ちゃんは死んじゃだめだよ。うれしいけど、僕がいなくなったからって僕を追いかけるのは……すごく悲しい」

 声が聞こえたほうを見る。横には彼が立っていた。変わらぬ姿で、変わらぬ声で自分の名前を呼んでくれている。この光景を見るのは、何度目だろう。もう何も感じない。

「そ、それは今関係ないじゃないか!」

 彼が顔を真っ赤にさせて言った。最近は萃さんや他の人たちのことで忘れかけていたが、そうだ、こんなこともあった。不思議だ。彼の台詞せりふを聞いただけで、すぐに当時のことを思い出せるなんて。咲子は暗い顔でそんなことを思う。

「とにかく、その……うまく言えないけど、僕が死んでも、死なないでねってこと。生きてる限り、きっとうまくいくからさ。きっと神様は見ていてくれてるんだ。いつかきっと、絶対僕らを助けてくれるよ」

 そんな神様はいないのよ。咲子は心の中で秋仁に向けて言う。彼にはもう二度と、この言葉は届かないと知りながら。そんな神がいたとしても、気まぐれで私たちをもてあそんでいたのよ。咲子は心の中で彼に語りかける。

「あ、ほんとだ! そろそろ出なくちゃ電車に乗れなくなっちゃう! 遅くなる時は駅の掲示板に書くからね」

 彼がばたばたと家を出て行く。咲子はまた、一人になる。暗い表情のまま、居間に顔を向ける。

 この部屋はこんなに広かっただろうか。この部屋はこんなにも寒かっただろうか。彼との思い出が詰まった場所なのに、ひどく寂しく感じる。

「……」

 咲子は棚を開け、そこから包丁を抜いた。その刃先を、まっすぐに自分の喉へと向ける。そしてすぐに、刃先を喉へと押し込んだ。


「最近は来られなかったからねぇ。ごめんね咲子さん」

 と、テーブル席にいる萃がカウンターにいる咲子に話しかける。皿を割った日からさらに六月十五日を四十回ほど迎えた、ある日のこと。

「メアリさんには『なんだ来たのか』って言われちゃったけど、なんでだろうねぇ。僕、何か悪いことでもしたかなぁ」

 萃は苦笑しながら言う。目の前にあるオムライスの乗った皿に、スプーンを入れて口に運ぶ。一口食べると、にこにこしながら向かいに座る少女に言った。

「相変わらずここのオムライスはおいしいね。ね、りんちゃん」

「……まさか、ここのオムライスを食べさせるためだけに私を呼んだのですか」

 と、向かいに座る少女が憮然としながら返した。少女の前にもオムライスの乗った皿が置いてある。

 この少女の名は、風見りん。《向かってくる物の軌道きどうらす》能力者であり、萃の側近の一人である。

「急いで来いと言うからプロペラ機を飛ばして来たものの……ランチに呼んだだけですか。六十代のいたずらにしては笑えませんよ。死にかけているのかと焦りました」

「やだなぁ。僕はまだ死なないよ。あと十年は生きるからよろしくね」

「つまり七十七で死ぬということですか。笑えませんよ、ご主人様」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないよねぇ。僕が嘘ついたことある?」

「……たくさんあるじゃないですか」

「あ、そうだっけ?」

 二人の会話を、咲子はカウンターの内側に座って聞いている。

 しばらくして二人が食事を終え、席を立つ。

「いくらかな?」

 萃が咲子に聞く。

「代金は結構ですわ。いただいても意味がないので」

「そっか。ご馳走様」

 萃はあっさりと言い、杖をつきながら出入り口に向かう。その後ろにりんがついていく。

 と、咲子はりんが自分をじっと見つめていることに気がついた。

「あの、何か?」

 りんは目を離しながら言う。

「……いいえ。なんでもありません。あなた、イライラするような目をしていますね」

「え?」

「本当は諦めきれないのに、見えている現実から目をそむけているような感じです。『もう無理だ』と諦めているのにわずかな期待をする人間は、そういう目をします」

「……」

「分かっているのならば、認めるのがいのではないのでしょうか。それでもとすがつづけたいのならば、いっそ壊れてしまうのを選んでみては。それもできないならば……先へ進むしかないわけですが」

「……」

「あれ、りんちゃん何してんの? もう行くよ」

 と、隔離棟の廊下に立つ萃がりんを呼ぶ。

「……失礼。言葉が過ぎましたね。忘れてください。食事も飲み物もおいしかったです。それでは」

 りんは軽く会釈えしゃくをして、店を出た。

 彼女に言われたことを頭の中で反芻はんすうしながら、しばし咲子は扉の前に立っていた。


 それからまた何回か、六月十五日を繰り返してきた、ある日のこと。

「また間違ってるわよアカリくん。『ま』が左右逆になってるわ」

 咲子は店の一角いっかくで、向かいに座る少年にひらがなを教えていた。

「……あああイライラする! なんでこの国の言葉はこんなに面倒くせえんだ、クソボケが!」

 咲子の向かいに座る少年が、苛ついた様子で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。銀色のような灰色のような珍しい色の髪が、店の照明を反射してきらめいている。

「はいはい。イライラしないの。ほら、もう一回やってみましょうね」

 眼鏡をかけた咲子が赤色のペンの先で、ま行を指す。黒いシャツと黒のズボンを履いた少年は、渋々しぶしぶ鉛筆を握り直して子供用のひらがなドリルに向き直る。

 この少年の名はアカリ。本名は別にあるというが、その名前で呼ぶと怒るので「アカリ」が通称になっている。彼は萃がとある国から連れてきた能力者だ。隔離棟の二号棟に双子の弟も住んでいる。

「『な』……『に』、『ぬ』……? 『め』、『ね』……あああ、また間違えたクソボケが! “なんだよこりゃ。ムカつくぜくそったれ。呪文じゅもんかよ!”」

「アカリくん、中国語で言われても分からないわ。ちゃんと日本語で言いなさい。教えたでしょう?」

「……クソババア」

「こら」

 咲子はぺしん、とアカリの頭を軽く叩く。

「そんな汚い言葉を使わないの。まったく……誰にそんな言葉を教わったのかしら。きっと室長さんね。あの人はいろいろと暴力的だから」

 咲子はため息交じりにそう言う。アカリは叩かれたところをさすりながら、上目遣いで咲子を睨む。

「そういや、ババア。いいニュースと悪いニュースがあるぜ」

 ふとアカリが言った。背もたれに体重を預け、鉛筆を指で回して遊び始める。完全に集中力が切れていた。

「私のことは、『お姉さん』か『お姉ちゃん』って呼びなさいって教えたはずよ」

 咲子は眼鏡をかけ直しながら言った。アカリはそれを無視し、こう言う。

「萃さん、入院したってよ」

「そう」

 アカリの報告に対し、咲子は変わらず平坦な声で返した。

「ま、もう七十五だもんな。ガタが来ちまってるってことだ。オレらと違って、あの人は普通の人間だしな」

「そうね」

 咲子の声色は変わらない。彼はこの前七十五歳の誕生日を迎えた。つまり彼が初めてこの店に来てくれた時から、いつの間にか三十年も時が経っていたのだ。三十代の時に一度この店に来たと行っていたので、それを合わせると彼との付き合いは四十年になる。

 咲子は、この前店に来てくれた萃の姿を頭に浮かべた。白髪交じりの髪が薄くなり、顔や手にもしわが刻まれ、杖を支えにゆっくり歩いていた。体力もおとろえ、ちょっと散歩しただけで息が上がると言っていた。「すっかりおじいちゃんになっちゃったよ」と彼は笑っていたが、やはりどこか、したい動きに体が追い付いていないように見えた。

 一度死んでいる能力者たちは死んだ時の姿や歳で止まっているが、当然ながら普通の人間はそうではない。返しきれない恩がある彼も当たり前に歳を取り、当たり前に老いていく。そして当たり前に、普通の人間は死んでいく。

がんだとよ。なんでか本人は爆笑してたぜ。『そりゃそうか』ってな」

「……そう」

 彼が死の間際、あの気まぐれな神に願って自分たちと同じ死人になるかは別の話だが、世話になった人が大きな病気になったと聞くのは嬉しい報告ではない。

「まさか、それがいいニュースじゃないでしょうね」

「んなわけねえよ。そっちは悪いニュースだ」

「じゃあ、いいニュースっていうのは?」

「明日、メアリと一緒に見舞いに行くんだ。なんかあるなら伝えとくぜ」

 と、アカリは頭の後ろで両手を組み、椅子を揺らしながら言った。この時の組合にはまだ「タグ」と呼ばれる物も外出許可証もなく、特別捜査官一名の付き添いだけで能力者の外出が認められていた。

 アカリの言葉に咲子は少し悩んで、こう返した。

「私の分の花も持って行ってくれる? お駄賃だちんはちゃんとあげるから。そうね……三百円ぐらいで買えると思うけど……」

「いらねえよ」

「え?」

 立ち上がってレジを開けた咲子が、一瞬止まる。目を見開いて驚き、アカリを見る。アカリはひらがなのドリルを閉じて、鉛筆を筆箱の中にしまっている。

「金はいらねえ。アンタの分の花も買ってから行くつもりだ」

「……驚いた。何よりもお金が大好きなアカリくんが、まさか無料で動くなんて。私の教え方がよっぽどよかったのかしら」

「うるせえな。アンタにゃ、その……“世話になってるしな”」

「アカリくん、日本語で言われないと分からないわ」

 咲子はくすくす笑いながら言う。かっさらうように自分の荷物を持ったアカリは、

「うるせえな、なんでもねえよ!」

 顔を赤くさせて、乱暴に店の扉を閉めて出て行った。


 アカリと別れ、家に帰った咲子は玄関の扉を開ける。

「ただいま」

 返ってくる「おかえり」はない。代わりに居間から聞こえてくるのは、

「お店を立て直すにしても、僕の保険のお金で借金も全部なくなるし、生活もしばらくは大丈夫なはずだ。それで君は新しい人を見つけて、その人と幸せになるんだ。僕のことなんか忘れて……」

 そんな、いつか聞いた言葉だけ。

「ごめんね。でも、もう……決めたんだ」

 靴を脱ぎ、咲子は部屋の中に上がる。彼は机の前に座って、誰もいない空間に向かってしゃべり続けている。

「……それはだめだよ。君には、生きていてほしい」

「それはだめだよ。死んだあとの君の人生も貰えない。僕のことは忘れるんだ。それで君は、僕とは違う人と幸せになるんだ。それで幸せのまま、君は君の人生を終えてくれ」

 これも同じ。かつての会話。また、何も変わらなかった。そう思うのは、何度目だろう。また同じ。またこれかと思ってしまうのは、何度目のことだろう。

「僕だってこの先もずっと、咲ちゃんと一緒にいたいよ。でも、お店の借金ができてから……咲ちゃんの疲れた笑顔を見るだけで……僕は死にたくなるんだ。僕はなんてことをしてしまったんだろうって。だったらこの人はこの先、僕と一緒にいるべきじゃないと思ってしまうんだ……」

 これも同じ。もう何も感じない。これは何百回と繰り返した、在りし日の会話なのだから。

「……」

 咲子は部屋を見つめる。大切な人がそこにいる。けれど、そこにはいない。そこにいるのは、かつて「そこ」にいた過去の彼だけ。「今」の彼はもう、どこにもいない。彼はあの日に、死んでしまったのだから。

 彼を見て心の中に感じるのは、圧倒的な不在ふざい。どのように奇跡を願っても、何度過去を繰り返しても手に入らない、大切な人の不在。

 分かっている。ここは彼がいる地獄でもなく、ただ、あの気まぐれな神が作り出した世界。かつてあった過去を繰り返し続ける、それだけの場所。


「萃さんが、亡くなったよ」

 と、店の前の廊下で、東條が言った。アカリに勉強を教えた日から、店の外の世界で数えて、二年ほどが経った日のことだった。

 喪服を着た東條の後ろには髪を黒く染めたアカリがいる。ここまで車椅子を押してきたのだろう。アカリもきっちりと葬式に出る正装をしており、いつも人を見下しているような顔の少年も、今はどことなく暗い表情をしている。

「さっきお葬式が終わってね。式も内々ないないでやったから、風見家の皆さんと限られた人たちしか来ていなかったけどね。火葬は明日やるとりんちゃんが言ったから、明日もアカリ君と行ってくるよ。お葬式には、君の分の花も手向たむけてきた」

「そう。ありがとうございます」

 カウンターの椅子に座っている咲子は、変わらず平坦な声でそう返す。『繰り返す世界から抜け出せない』という対価を持つ咲子は外部から来た人間と違って店から出ると、繋がっている隔離棟の廊下ではなくそのまま店の外に出てしまう。

 咲子がこの時代から外に出る方法はただ一つ。それはここに来た初め、あの気まぐれな神グラウとした賭けを終わらせることしかない。その方法は、この世界で動くもう一人を自分の手で殺すこと。

 東條が言う。

「今日の朝、病院のベッドの上で亡くなっていたそうだ。そして今日は七十七歳の誕生日だったそうだよ。なんて日だろうね。

 萃さんがいなくなった途端とたん好機こうきとばかりに脱走している人たちがいるみたいだ。照良君やメアリさんが対応しているが……組合は軽いパニック状態だよ。まあ、無理もないか……」

 咲子は、かつて萃が言っていたことを思い返す。

 萃さんは今まで数々の能力者たちと賭けをして、彼らの弱点である本名や能力と対価の情報を勝ち取ってきたと言っていた。時にはそれを人質のようにしてこの組合に入らせた人もいるという。ともあれば彼がこの世からいなくなると、なかば強制的に入らされた能力者たちがこの施設に居続いつづける理由は完全になくなる。脱走者が相次あいつぎ、パニックになるのは当然だろう。

 それにもともと、ここに入る能力者は軽く個人情報を書くだけで、ここでの行動の制限は一切されない。せいぜい居住棟と隔離棟の行き来が難しいぐらいだ。脱走しようと思えば誰でも、いつでもできる。それをしないのは、生きている人間と同じ扱いをしてくれた萃さんに恩を感じているからだ。

「萃さん、君のことを本当に心配していたようでね。亡くなる直前、あの神様と君の話をしていたらしい。『本当にその世界から出たいなら出す』とあの神様は言っていたが、君はどうする?」

 咲子は萃に答えた時と同じように、すぐに言った。

「私、ここから出る気はないわ」

「……そうか」

 東條は少し間を空けて、頷いた。

「分かった。この会話も神様は聞いていることだろう。僕はあの家にいるよ。何かあったら電話してくれ」

 東條は両端の駆動くどうりんに取り付けられたを持って、器用に車椅子の向きを変える。

「またね、咲子さん」

 東條の姿が、視界の左側へと消えていく。

「オレも部屋に戻るぞ。萃さんが死んだって聞いてから、ベニがずっと泣いてるんでな」

 ネクタイをゆるめながらアカリが言う。ベニというのは、彼の弟の通称だ。

「そう」

 とだけ咲子は返す。

 彼の弟は萃さんによくなついていた。一緒に遊んでもらったりいろいろなことを教えてもらったり、豪華客船に乗って四か月ほどの旅行にも連れて行ってもらったとアカリくんから聞いたことがある。

 優しい祖父のような存在が突然いなくなったのだ。この子もつらいだろうに、自分より弟を優先してなぐさめようとしている。そういうところを見ると、やはりこの子はお兄ちゃんなんだなと改めて思う。

「アカリくんも、泣きたかったら泣いていいのよ?」

「うるせえ。アンタにゃ言われたくねえよ」

「涙なんてとっくにれちゃったから、もう出ないわ」

「そうかよ。じゃあな」

 真っ赤になった目をごしごしと服の袖でぬぐい、アカリも背を向ける。そのまま足音は遠ざかっていった。


「ねえ神様。この服をずっと着られるようにしてほしいんだけど」

 萃が死んで数日経ったある日。咲子は両手で黒いセーラー服を広げていた。テーブルの上には、黒いスカートとリボンタイまで置かれている。

「ああ、別にいいですよ。それぐらい」

 声と共にグラウが空中に現れる。

「……というか、なんですかそれは」

 グラウは、咲子が広げている制服を指さす。

 この制服一式いっしきは居住棟に住む能力者に頼んで持ってきてもらった物だ。時間が巻き戻るこの世界では、服や髪形を変えても、死んで過去に行くと当時その時にしていた格好に戻ってしまう。そうならないようにするためには、ここを作った神に頼むしかない。

「これはね、学生の女の子が着る制服よ」

 制服を丁寧に畳みながら、咲子が答える。

「ふうん。どうしてそんな物を? たかが布切れでしょう? 今着ている物と別に変わらないと思いますが」

「どうしてかしらね。ただこれを見ると……なんだか昔を思い出すからよ。懐かしくなるわ」

 スカートもしわにならないよう丁寧に畳む。その上に、リボンタイを置く。

「懐かしい……? よく分かんないんですけど」

 グラウは本当に分からないという顔で腕を組み、首を傾げた。

「過去は過去であり、結局は記憶の集合体でしょう? 人間は忘れてしまう生き物です。いくら大事な記憶とはいえ、懐かしいなどと過去にひたっても意味がないと思いますが」

「そうかもしれないわね。でも、過去があって今があるのよ。嫌なこともいいことも、全部合わせて思い出なのよ」

「ふうん。よく分かんないですけど」

 グラウは興味なさそうに言い、話を終わらせた。

「あ、そうそう。一応言っておきますけど、僕との勝負はまだ続いていますからね。覚えていますか?」

「……」

「最近のあなたは同じことの繰り返し。もう一人の人間が死んで、自分も死んでそのあとを追いかけ続ける。まあつまらない。このままじゃ、ちょっと退屈すぎてどうにかなってしまいそうですよ」

「……」

「ま、別にいいですけどね。どうやらこの先あなたに注目しても意味がなさそうですし。今まで通り好きなようにしてください。あなたが飽きるまで。それこそ永遠でも、この世界にいればいいですよ。それじゃ」

 そう言い残して、グラウは消えた。


「それが愛なのですか」

 また違う日。向かいに座る透明な髪の女の子が聞いてきた。

「そうよ。これが愛なのよ」

 黒いセーラー服を着た咲子はそう答え、コーヒーの入ったカップを口元に持っていく。

「よく分からないのですけれど。理解ができないのですけれど」

「分かるものじゃないのよ、愛は」

 咲子はカップを置いて、誰もいない外の景色を見つめる。

「たとえ必ず同じ日に死んでしまうとしても、その前の一瞬でいいの。

 声が聞けるのなら。体に触れられるのなら、姿が見られるなら……それだけでいいのよ。

 たとえ『おかえり』と言われなくても、私にはただ……それだけでいいのよ。そのためには……何もかも賭けられるの」


 それからも咲子は一人、かつてあった出来事をなぞりながら、同じ日々を繰り返していく。

 一度見た光景。いつか交わした会話。過去にあった出来事。愛した人が死ぬ日。のがすまいと耳を澄ました彼の最期の言葉。それを何度も繰り返し続け、ぐるぐると同じ日々を回り続ける。


「……もう一度、あなたの名前を聞いてもいいかしら」

 その日は表の世界で数えると、組合とそこに住む能力者たちに多大な影響を与えた人物、風見萃が死んで、二週間ほどが経った時のことだった。

 咲子が聞くと向かいに座る人物は、はっきりとこう答えた。

京谷きょうやかなめです。京都きょうとの『きょう』に『たに』、要注意ようちゅういようで『かなめ』。名前で呼んでください」

 少年が名乗った名前に、咲子の眉が一瞬動く。その「かなめ」という名は四十年前にこの店へ来てくれた、彼と同じ名前だった。

「その名前は偶然かしら。挑戦的な名前ね」

 咲子は向かいに座る挑戦者を見やる。癖毛のような黒髪に学生服と黒縁の眼鏡。無理やり勇気を振り絞ったような表情。幼さが残ったような少し高い声。中学生に見えなくもないが、高校生だろうか。東條さんもまた変な子を紹介したわね、と咲子は心の中でため息をつく。

 人の賭けが好きな東條は、組合に新たな能力者が来るたびにこうして咲子の元へ送り込むのだ。そして自分は居住棟にある家から能力を使ってその様子を観察し、楽しんでいる。新しい能力者を勝手にここへ送り込まれることは少し迷惑だが、やめてくださいと言ってものらりくらりとかわされるので、咲子はもう諦めている。

「まあいいわ。それで、あなたが負けたら何をくれるの?」

 咲子は聞く。少年はテーブルの上に、青色のUSBメモリを置いた。

「この中には……風見萃が勝負してきた能力者全員の情報が詰まっています。僕が負けたらこれと……僕の全てを教えます。僕が勝ったら、この世界から出してください」

「あら。東條さんから聞いていたの。ここがどういう場所か」

 少年は頷く。その姿が一瞬、ジジ、とぶれる。何の能力かしら、と咲子は思った。

「そう。ならそれでいいわ。じゃ、賭けをしましょうか」

「はい。お願いします」

 少年は、こくりと頷いた。


 少年との勝負を終え、家に帰る。

「ありがとう咲ちゃん。すごく嬉しいよ」

「でも、咲ちゃんは死んじゃだめだよ。嬉しいけど、僕がいなくなったからって僕を追いかけるのは……すごく悲しい」

 聞こえてくるのは、もう何度目か分からない言葉。

「……」

 靴を脱いだ咲子は、台所に行って棚から包丁を抜く。その切っ先を、いつものように自分の喉へ向ける。

「とにかく、その……うまく言えないけど、僕が死んでも、死なないでねってこと。生きてる限り、きっとうまくいくからさ。きっと神様は見ていてくれてるんだ。いつかきっと、絶対僕らを助けてくれるよ」

 そう言った彼は、まるでそこにいる透明人間を抱きしめた。こちらには見向きもしない。

「……」

 分かっている。彼が抱きしめているのは。彼が言っている相手は。彼が笑顔を向けている相手は……。

 けれど、それで構わない。向けられたその笑顔が、今ここにいる自分へのものではないとしても。彼の言葉が、当時の会話をなぞっているだけだとしても。自分が死にさえすれば会えるのだ。生きていた頃と同じ彼に。動き、しゃべり、体温のある彼に。

 それでいい。自分さえ死に続ければ、何度でも彼の声が聞ける。彼の笑顔が見られる。温度のある彼の体に触れられる。必ず同じ日に死んでしまうとしても、過去をなぞっているだけだとしても、それでいい。

 彼がいない人生などいらない。彼がいない世界などいらないと、自分はここで生き続けているのだから。それだけを思い、自分はこの世界を繰り返し続けているのだから。

「明日は……どんな日になるかしら」

 自虐的な冗談を言ってみる。ここでの「明日」など、もう二度と来ないと知りながら。

 気まぐれな神との賭けを終わらせない限り。最愛の人をこの手で殺さない限り。ここにとどまるという選択をし続ける限り。かつてあった思い出と共に、この世界はずっと続いていくのだ。自分が進むかやめるか、その選択のどちらかを、選ばない限り。

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