【ある魔女の追想】⑦

「さて。どこへたどり着いたでしょう」

「……っ!」

 聞こえてきた声に、咲子ははっと目を開けた。目の前にあるのは、ぐつぐつと音を立てている手鍋。沸騰する味噌汁の中には、一口大に刻まれた大根が浮かんでいる。

 自分の右手にはお玉が握られていた。着ているのも入院着ではない。可愛らしいがらのエプロンをつけ、その下には半袖のワンピース。髪もポニーテールに結ばれている。着替えた覚えも、髪を結んだ覚えもない。

「おめでとうございます。ひとまず、あなたは一つの賭けに勝ちました。自らの命をしなにして、素敵な世界に来ましたよ」

 と、左から声が聞こえた。咲子はそこに顔を向ける。居間の机の横……そこに先程の男の子が座って、ペン立てにさしているハサミの頭をつついていた。

「あなたが求めていたものも、ここにはあるかもしれませんねえ」

 男の子が言う。咲子は背後で感じる人の気配に、ばっ、と後ろを振り返った。

「あ……」

 そこには見間違えるはずもない、ずっと望んでいた彼が立っていた。アイロンがけしたシャツと少し曲がったネクタイ。仕事着の黒いズボン。手には小皿を持っている。

「あ、あ……」

 咲子は目に涙を浮かばせ、両手で口を押さえる。泣きだしそうになるのを、必死にこらえる。腰が抜けそうになるのを、足に力を入れて何とか耐える。視界が水浸しになり、彼の姿が涙で滲む。

 彼がそこにいる。ということは、ここは地獄か。咲子は思う。自分は賭けに勝ったのだ。死んだ意味があったのだ。中途半端に残った命も、賭ける価値があったのだ。

「秋仁さん……!」

 咲子はお玉を放り投げ、秋仁の胸に飛び込む。

「よかった、よかった! やっと会えた! 私……私ね、ずっと、ずっと会いたかったのよ! 私……あなたに、ずっと……!」

 彼のぬくもりを感じる。彼の心臓の鼓動を感じる。確かに彼がここにいる。死んでまで会いたいと思った彼が。自分の命を賭けてまで会いたいと願った彼が。

 しかし、頭の上から返ってきた言葉は、どこかで聞いたようなものだった。

早死はやじになんて大げさだなあ。僕、まだ二十九歳だよ。まだ死なないよ」

「……え?」

 咲子の顔が凍り付く。顔を上げ、目を見開いて秋仁を見上げる。

「だって僕、どこも悪いところなんてないし……」

 彼は、目を泳がせながら後頭部を掻く。

「な、何を言ってるの? ねえ……」

 心臓がどくどくと暴れる。これではまるで。

「ご、ごめん……。でもほら、ちゃんと来週、残りの検査を受けることにしたから……」

 脳内に残っている記憶と、目の前の光景が合致する。信じたくない、この視感しかん

「君も仕事があるだろう? 病院ぐらい僕一人で行けるよ。子供じゃないんだし」

 うそだ、うそだ、と思う。信じたくない。ここは彼がいる地獄のはずなのに。

「そんなに僕のことが心配なら、来月、動物園行くのやめる?」

 この一言も同じ。

「そんなになったら動物園どころじゃないと思うんだけど……」

 彼は頬を掻きながら苦笑する。その仕草しぐさもその困った笑顔も、あの時見たものと同じ。

「ありがとう咲ちゃん。すごく嬉しいよ」

 彼が優しく抱きしめ返してくれる。

 咲子はそんな秋仁の腕の中で、ただ茫然としていた。目の前の光景が信じられなかった。信じたくなかった。

「咲ちゃんは死んじゃだめだよ。嬉しいけど、僕がいなくなったからって僕を追いかけるのは……すごく悲しい」

 これも同じ。あの日の、あの時の会話とまったく同じ。咲子は口を半開きにさせたまま固まる。涙などとうに止まっていた。

「僕も、僕より先に咲ちゃんがいなくなったらって考えると夜も眠れないほどつらいよ」

 これも同じ。

「そ、それは今関係ないじゃないか!」

 これも同じ。彼は一人でしゃべり続けている。こちらが何も言わずとも、彼は一人でしゃべり続ける。

「とにかく、その……うまく言えないけど、僕が死んでも、死なないでねってこと。生きてる限り、きっとうまくいくからさ。きっと神様は見ていてくれてるんだ。いつかきっと、絶対僕らを助けてくれるよ」

 これも同じ。

「あ、あ、まずい! うっかりしてた! 電車に乗れなくなっちゃう! 遅くなる時は駅の掲示板に書くからね!」

 そして彼はばたばたと居間に行き、上着と鞄を持って玄関に戻ってくる。空中に浮く風呂敷ふろしきの包みを受け取ると、

「ありがとう。助かるよ。うん、咲ちゃんも。行ってきます」

 家を出て行った。

「……」

 咲子は落ちるように、その場にへたり込む。

「……なに、これ……」

 閉まる玄関の扉を呆然と見つめたまま、呟く。

「なによ、これ……」

 咲子はよたよたと、這うように居間へ向かう。机の上に置いてある新聞を掴み、床に広げる。

「……うそ」

 今日の日付を見て思わず、そう漏らす。

 新聞に印字されている年号は、『1981年(昭和56年)』。そして今日の日付は『5月10日』

 ここは地獄などではなく、一度目の人生で彼と自分が生きた時代。そして「今日」は、彼が死ぬ一月前ひとつきまえの日だった。


「……ねえ」

 そしてわけも分からぬままあの日が来て、今、終わった。

 スライドドアが開けられた白い車の中には、二人の人間がいた。一人は青白い顔をしている男と、もう一人は髪の長い女性。女性は男の頭を膝の上に乗せている。

 あたりはとっくに明るく、木々の隙間から太陽の陽ざしが差し込んでいる。六月十五日が過ぎ、二度目の六月十六日が来た。

「ねえ、なんなの……。あなた一体、何者なの……?」

 と、女性のほう……咲子が顔を上げて問いかける。彼女の視線の先には、いつぞやの男の子が、前と同じく体の輪郭を淡く光らせて空中に浮いている。

「何者と言われましてもねえ。どこから話すべきか」

 男の子は、ぽりぽりと鼻を掻く。そして、咲子の問いにこう答えた。

「うーん。では、あなた方が一番分かりやすい言葉で言いましょう。僕は神様の一人です。困っているあなたを助けてここに連れて来てあげたんですよ」

「神様……本当に……? これは、夢じゃ……」

「おやおや、まだそんなことを言っているんですか。夢ならばこれは、とんだ悪夢あくむじゃないですか」

 神を名乗った男の子は、この光景を見せびらかすように両手を広げる。

「……」

 咲子は周りを見渡しながら、ここに来る前のことを思い返す。透明な髪の女の子と、偽物の彼のこと。この男の子が現れたあとのこと。病室の扉についている小窓を必死に叩いたこと。近づいてくる煙で逃げ惑う人々の叫び声。そのあとに、自分は……。

「……」

 咲子は自分の心臓を服の上からぎゅっと掴み、そこで思い出すのをやめた。

 どくん、どくん、と服の上から自分の鼓動と体温を感じる。鼓動ははっきり聞こえ、自分の手も温かい。

 どうやらここは本当に夢ではなく現実らしい。咲子はひとまず混乱しながらも、ここが夢ではないことを理解し、受け入れた。

「……ここが夢じゃないってことは分かったわ。でもあなた、神様って言ったわよね」

「ええ。言いましたね」

「それならどうして、今さら出てきたの? どうして、私たちが生きている間に助けてくれなかったのよ……」

 咲子は「神」を名乗る男の子を見上げて問いかける。咲子の膝の上には、冷たくなった秋仁の頭が乗っている。

「秋仁さんはずっと言っていたわ。きっと神様が見てくれているって。きっと神様が助けてくれるって。あなた、神様ならその声が聞こえていたでしょう? どうしてよ……」

 咲子は、声を絞り出すようにして問いかけた。神を名乗った男の子は、ぽりぽりと頬を掻きながらその言葉を聞いている。

「生きている間に助けてくれていたら、私たちは……」

「死ぬこともなかったと? それは違いますね。あなた方の『死』は決まっていました。

 ときに人間の強固きょうこな意思はあり得ない未来も引き寄せ、その通りの運命を決定づける。そこの人間の決意はそれほどまでに固かったということです。その結果あなたも『死』を選び、あなた方の人生は終わった。

 僕がいっとき手を貸したところで、あなた方が二人一緒に人生を終える可能性は限りなく低かったです。だったら僕があなたたちに手を貸す意味なんて、ないと思いません? どうせ一緒に死ねもしないんだから」

「そんな、そんな理由で……私たちを助けなかったの? それだけの理由で……?」

「おっと。誤解しないでくださいね。理由はそれだけじゃありませんよ。では、たとえばの話をしましょう。

 僕があなた方に手を差し伸べたとします。あなた方は愛と幸せの日々を取り戻し、ゆるやかにおだやかに歳を取っていったことでしょう。そして死の運命を回避したあなた方は、二人一緒に寿命で死んでいったことでしょうねえ。人間としては素晴らしい人生です。

 ですがね、たったそれだけでしょう? それじゃあだめです。そんなのはつまらない。それならば、あなた方に手を差し伸べた意味がない」

「助けても面白くないから、つまらないから……そんな理由で、私たちを見捨てたの?」

「見捨てたなんて人聞きの悪い。

 僕があなた方を助けたところで、あなた方は僕に何を見せてくれましたか? どうやって僕を楽しませてくれましたか? 何もないでしょう? あなた方はせいぜい幸せの中、二人で手を取って寿命まで生きていっただけでしょう? それだけじゃないですか。ああ! なんてつまらない!」

「そんな、そんな理由で……」

 咲子は下を向き、小さく唇を震わせる。言葉を失っていた。

「ええ。そうですよ。僕があなたに手を差し伸べなかった理由、納得なっとくいただけました?」

 呆然とする咲子に、男の子はにっこりと見た目相応の笑みを浮かべた。

「そんな、理由で……」

 咲子は口からその言葉を漏らす。

 たったそれだけの理由で、自分たちはこの神に見捨てられていたのだ。自分たちがどんなに苦しんでいたかを知っていながら、この神はにやにやと私たちをあざ笑っていたのだ。助けてもつまらないからという、それだけの理由で。

「さて。ではそろそろいいですか? 本題にいきましょう。ここまでお膳立ぜんだてしたんです。次は僕の番でもいいと思いません?」

 と、男の子は指を一本立てて話し始める。

「まずはこの世界のことです。あなたは自分の命をチップとして投げ、本当にあるとも知れぬ場所へ行けるか賭けた。これがその結果です。

 僕はおめでとうと言いましたね。あなた方人間が言う天国や地獄などの死後の世界ではなく、あなたは誰も知らぬ場所へとたどり着きました。求めていたもう一人の人間がいる、この世界に。それが、ここ。

 あなたは自分の命を捨ててまでその人間に会いたかった。死者に会うため、地獄に行くため、あなたは死にたかった。そして、この世界でその死人とあなたは再会できた。実にシンプルな話です。感動の再会ってやつですねえ」

「……」

 その言葉に、咲子は下を向いて青白くなった愛人の顔を見つめる。確かに、彼には会えた。でも、違う。これは。この世界は……。

「言ったでしょう? 全ては賭けなんです。とりあえず、あなたは『ここに来る』という勝負に勝ちました。わーお! おめでとうございますぅ」

 男の子は適当に拍手をして、一人で盛り上がっている。

「あ、そうそう。ここへ来る前……あなたがどうやって死んだのか知りたいですか?」

 男の子はズボンのポケットに手を入れ、がさがさとあさる。

「あなたの直接の死因は煙を吸い込んだことですが……あなたが死亡したあとに火が病棟全体を包みましてね。あなたを含んだ十八名が死にました。病棟は木造だったので火はあっという間に広がりましてね、その上、窓も病室も鍵がないとかないという特殊な病棟でしたからねえ。施錠された非常口に死体が集中していましたよ。あ、これこれ」

 男の子はポケットから一枚の写真を取り出し、咲子の前に吊り下げて見せた。

「……っひ!」

 そこに写っていたものに、思わずのけぞる。

 黒焦げになった病室の真ん中に、同じく黒焦げになった人形がうつぶせになって転がっていた。服も頭髪も燃え、全身の皮膚もすみのようになっている。黒くなった人形の顔の、歯だけがくっきりと残っていた。

「ちなみに、あなたが死んだのは一九八一年の六月十八日です。時間は午後一時七分ごろ。出火場所は一階のトイレでしたけど……誰がやったんでしょうかねえ」

 男の子は何が面白いのか、にっこりと笑った。そして、持っていた写真を乱暴にポケットへ突っ込んだ。

「あなたは死んでしまいましたが、ここでは二度目の人生を生きる不思議な存在です。そんなあなたに、僕からちょっとしたプレゼントをあげました。

『死ぬたびに時間を巻き戻す』ことと、『繰り返す世界から抜け出せない』ことです。よかったですねえ。自分が死にさえすれば、死んでまで会いたかったそこの人間に何度でも会えますよ。自分が死にさえすれば。それこそ永遠に。

 その人間が死んだ世界など、あなたにはいらないのでしょう? その人間がいないそのの人生など、あなたにはいらないのでしょう? いいじゃないですか。嬉しすぎて言葉も出ませんか?」

「……」

 咲子は、青白くなった彼の頬を撫でる。死体と成り果てた彼は冷たく、彼の死に顔を見るのは、これで二度目だった。青白くなった秋仁の顔に、咲子の涙が一粒落ちてこぼれる。

「僕らはね、退屈で退屈でたまらないんですよ。だからこうして僕らはたまに、あなた方人間に手を貸したりしているわけです。

 それぞれが一人の人間につき、愛とか心を知りたいだとかくだらない理由で手を貸す時もあれば、歴史にしるされた戦争などで退屈をいやしたり……ああ、僕は、そんな僕らを殺すため、この世界を壊そうとした人間についていましたねえ。その人間は死にましたが」

 咲子には、男の子が何のことを言っているのか分からない。

「……おっと、話がれましたね。どうにもおしゃべりが過ぎるのは僕の悪いくせです」

 男の子は、脱線しかけた話を戻す。そして突然、言った。

「トロッコ問題って知ってます?」

 咲子の返事や相槌あいづちも待たずに、男の子は話し始める。

「二つの線路の先に五人の人間と一人の人間がいて、分岐器を動かしてどちらの人間を殺すかっていうやつです。ようは命の選択問題ですね。これを元に、僕とあなたでちょっとした勝負をしましょう」

「……勝負?」

 咲子は聞き返した。男の子は頷き、死体となった秋仁を指さす。そして男の子は、さらりと言った。

「そこの人間を死ぬ運命ではなくあなたの手で殺せたら、あなたをこの世界から出してあげてもいいですよ」

 その言葉に、冷たくなった秋仁の頬を撫でる咲子の手が止まった。

「つまり、死んでまで会いたかった人間の命を犠牲にここから出るか。それとも、過去の思い出と共にこの世界にとどまり続けるか。こういうことですね。

 あなたが見事その人間を殺すことができれば、あなたにあげたプレゼントの一つ……『繰り返す世界から抜け出せない』という対価も消してあげましょう。そうしたらあなたは、死ぬだけで時間を巻き戻せる存在になるってことですね。わあすごい」

「……」

「どうします? やります? その勝負。別にやめてもいいですけどね。ここでやめたら、あなたは何のために残った命をチップとして投げたのでしょう。あなたは自分の人生をみずからで否定するというわけですが」

 にやりとして、男の子は言う。咲子は、人形のように冷たくなった秋仁の顔を見つめる。

 自分は中途半端に残った命を賭けてまでこの人に会いたかった。彼がいない世界など生きていくつもりもなかった。彼がいない人生など、自分は歩んでいくつもりもなかった。だから今、自分はこうしてここにいる。

「……」

 けれど、ここは天国でも地獄でもないという。ならばどこなのか。いや、そんなことはもうどうでもいい。

 咲子は秋仁の頬にそっと手を置く。氷よりもぞっとする冷たさの奥に、確かにまだぬくもりが残っている。集中しないと分からないそのぬくもりを、手の平に感じる。

「……」

 自分の命を捨ててまでずっと求めていた人に会えた嬉しさと、それがすぐに消えてしまった悲しさ。二度目の同じ日と同じ光景、同じ彼の最期。目を閉じなくても思い出せる。彼との思い出。彼の笑顔。彼がどんな声で自分を呼んでくれたのか。

 男の子が言う。

「あなたが自らの意思でどのような選択をするか。それを観察するのが僕にとっては楽しみなんです。

 他の分身体はやれ退屈だから何かしろだの、やれ愛だの恋だのまあくだらない。せっかく虫がたくさんいるんです。そいつらを使って何かするほうが、よっぽど面白いと思いますけどねえ」

 男の子は一人でしゃべり続ける。

「同じことを繰り返し続けたらその夢が叶うかもしれないし、いだき続けた夢は永遠に叶わないかもしれない。はたまた、あと一歩でその夢を諦めることになるかもしれない。自分の意思で何を捨てるか選ばなければならない時が来るかもしれない。その選択の結果を背負って前に進むと、新たな世界が見えるようになるかもしれない。悩みぬいて選んだ結果に自分が潰されてしまうかもしれない。同じことですよ。これも一種の賭けです。

 もしもあなたが僕との勝負の途中で嫌になったのなら、その人間のことなど忘れて日々を過ごせばいいだけです。あなたが望んだこの世界に一人きりで、あなたが満足するまでね。

 たまに他の人間や他の物は動かしてあげますよ。それなら寂しくないでしょう? ま、あなたは僕との勝負を途中でやめるなんてこと、しないと思いますけどねえ」

「……」

「まあまあ。次は違うことになっているかもしれませんし。次がだめでもその次こそは、その人間が死なない未来になるかもしれませんよ。ほら、何十回か繰り返していれば、いつか何かが変わって、違う展開が起きるかもしれませんよ。その時は何も変わらなくても、その次は何かが変わるかもしれません。ああそうそう、あなた方はそれを『奇跡』とかって言うのでしょう? いいじゃないですか。

 ああ、『奇跡』! なんて素敵な響きなんでしょうねえ。それに賭ける価値は十分じゃないですか」

「……奇跡なんて、そんなこと、本当に……」

「起こるかもしれませんよ? それは、やってみなければ分かりませんけどねえ。奇跡が『起こらない』なんて、あなたの決めつけでしょう? ほんの小さなきっかけで全ては変わるんです。あなたの選択で、行動で、運命さえもくつがえせる奇跡を起こせるかもしれませんよ」

「……」

 そうだ。自分は彼に会いたくて残った全てを賭けてここへ来た。もう一度生きている彼に会えるのなら。それで彼の死に顔を、彼の最期を消してしまえるのなら。彼の運命を変えられるのならば。

 冷たくなった秋仁の体を、咲子はぎゅっと抱きしめる。

「もう一度聞きましょう。

 やりますか? 僕との勝負。いつ起きるか分からない奇跡に、賭けてみますか?」

 咲子は男の子を見上げる。そして強く頷き、こう答えた。

「やるわ。この人が死なない未来になるのなら、私の全部でも、何だって賭けるわ」

「よろしい。いい返事です」

 咲子の答えに、男の子は笑みを浮かべた。予想通りの言葉を聞けたような、そんな笑みだった。

「あなたは自分の意思で選択しました。その結果がどう転がるか。楽しみですねえ」

 男の子は、人差し指を立てて軽く回した。すると男の子の横、空中にナイフが出現する。

「ではさっそく二回目の世界に行ってみましょう。初回はサービスしてあげますよ。僕は優しい神様ですからね」

 男の子が言う。空中に出現したナイフは生きているかのようにひとりでに動き、切っ先を咲子の頭へと向ける。

「あ、そういえば。僕の名前をまだ言ってなかったですね」

 と、男の子は思い出したように言った。

「僕はグラウ。気まぐれで退屈な神様の一人です。どうぞよろしく」

 男の子が言い終わったと同時、空中に浮いたナイフははじかれたように咲子の頭へと直進する。

 脳にナイフの先が突き刺さる。刃先がさらに深くまで差し込まれたと同時、意識がぶつりと切断された。


 ガタガタと音がする。体に振動を感じる。

「……」

 咲子はゆっくりと目を開けた。自分は路面電車の座席に座っていた。

「楽しみだね、動物園」

 目の前で吊革を掴む彼が言う。他に乗っている客は自分たち以外誰もいない。

「今日がオープン初日だから、きっと動物の檻の前も、園内のレストランも人がいっぱいだろうね」 

 彼の格好は背中に野球チームの名前が印刷されたジャンパーとジーンズ。自分が着ているのは腰のベルトで締められた半袖のワンピースだった。

「これ……あの日じゃない……」

 咲子は腰を浮かして立ち上がる。窓から外を見るが、道路にいる車は全て動きを止めている。止まった世界で動いているのは、自分たちだけが乗ったこの路面電車だけだった。道路にも歩道にも、他に動いている人間は一人もいない。

「うん、そうだね。パンダも楽しみだ。そのあとは、ゾウを見に行こうね」

 彼は誰も座っていない座席を見ながら、一人で話しかけている。

 この会話を覚えている。この、電車の中で見た光景を知っている。これはあの日、新しくオープンした動物園に行った日の出来事。

「ほら、もうすぐつくよ。電車が停まってから立つんだよ」

 彼は誰もいない正面の座席に向かって言っている。この時何を言われたのか、はっきりと覚えている。彼とどんなやり取りをしたか、はっきり思い出せる。

 路面電車が、誰もいない駅に到着する。

「やっぱり人がいっぱいだね。はぐれないように手を繋ごうか。運転手さん、お世話になりました」

 誰も乗っていない運転席にそう言って、彼が電車から降りる。

「ま、待って……!」

 咲子も慌ててその背中を追う。

「咲ちゃん、もっと僕の近くにいないと危ないよ」

 歩いていく彼が、誰もいない自分の右側に向かって話しかけている。

「ほら、こけそうになった。咲ちゃんはちょっと抜けてる部分もあるんだから、気をつけないと迷子になるよ」

 彼が、誰もいない空間に向かって笑っている。この会話を覚えている。この時繋いだ彼の手の温度も、はっきりと自分の手に残っている。

 咲子の後ろで、電車の扉が音を立てて閉まった。運転手も客も乗っていない電車は、次の駅へと進んでいく。

「……」

 その場に立ち尽くす咲子の脳裏に、この時に彼と交わした会話が思い起こされた。


『楽しみだね、動物園。今日がオープン初日だから、きっと動物の檻の前も、園内のレストランも人がいっぱいだろうね』

『そうね。まだお昼まで時間があるし……先にレストランを見に行ってみましょ。いていたら先にごはんを食べてからパンダを見に行きましょうか』

『うん、そうだね。パンダも楽しみだ。そのあとは、ゾウを見に行こうね』


『ほら、もうすぐつくよ。電車が停まってから立つんだよ』

『言われなくても分かるわ。子供じゃないんだから』

『やっぱり人がいっぱいだね。はぐれないように手を繋ごうか。運転手さん、お世話になりました』

『お世話になりました。そちらもお気をつけて』


『咲ちゃん、もっと僕の近くにいないと危ないよ』

『大丈夫よ。車も自転車も通ってないんだし……きゃ!』

『ほら、こけそうになった。咲ちゃんはちょっと抜けてる部分もあるんだから、気をつけないと迷子になるよ』

『……迷子にはならないわよ』

『でも、こけそうにはなったよ。本当に気をつけてね。迷子になったら僕の名前を言うんだよ。すぐに迎えに行くからね』


 この日あったことをはっきりと覚えている。

 周りの人込み。電車の座席から見た風景。彼とどんな会話をしたか。彼がどんなタイミングで笑ってくれたか。彼が、どんなに優しく手を繋いでいてくれたか。

「……待って、待ってよ。お願い、待って……」

 咲子は遠ざかる秋仁の背中に、手を伸ばす。今にも崩れ落ち、泣き出しそうな表情で秋仁の背中を見つめる。

 誰もいない自分の右側に話しかける秋仁は、一度たりとも、振り向くことさえしなかった。


 そして月日は流れ、また、あの日がやってくる。

「どうして、どうしてなの……⁉」

 咲子は髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる。彼女の周りには空になったボストンバッグと、ライターや薬の瓶が転がっている。

「どうして……! どうして何も変わらないの⁉」

 咲子は頭を掻きむしる。彼女の視線は、机の前に座り込んでいる秋仁に向けられている。

「僕がいなくなっても、君は大丈夫だよ。僕のことは忘れて、君の人生を歩んでほしい」

 彼は誰もいない空間を見つめて一人で言っている。準備されていたバッグは中身を全部出した。それでも彼は止まらない。それでも、あの日と同じ光景のまま。

「お店を立て直すにしても、僕の保険のお金で借金も全部なくなるし、生活もしばらくは大丈夫なはずだ。それで君は新しい人を見つけて、その人と幸せになるんだ。僕のことなんか忘れて」

 彼は一人でしゃべり続けている。

 どうしたら止まるのかと、咲子はあたりを見回す。

 彼から目を離したその一瞬。自分の足元に視線を戻すと、中身を出したはずのボストンバッグがものがおで元の位置に居座っている。出したはずの中身もそのままだ。

「僕だってこの先もずっと、咲ちゃんと一緒にいたいよ。でも、お店の借金ができてから……咲ちゃんの疲れた笑顔を見るだけで……僕は死にたくなるんだ……」

 咲子はその場にしゃがみ、その言葉を聞きながら、もう一度バッグの中身を外に出す。いくつかのライターが、薬の入った瓶が、練炭が、乱雑に居間の床に転がる。

 しかし瞬きをしたその一瞬後には、空っぽだったはずのバッグの中にそれらが元通りに詰め込まれている。

「そんな咲ちゃんを見るのはとてつもなくつらくて、苦しいんだ」

「ど、どうして……」

 彼は止まらない。この言葉も、聞くのはこれで三回目。

「だったら僕がいなくなったほうが、いいと思ったんだ。僕一人が死ねば、残ったお金で君に楽をさせてあげられると思ったんだ。だから……」

 彼は一人でしゃべり続けている。

「本当に……いいの?」

 誰もいない空間に向かって問いかける。これも三度目。

 彼が、準備したバッグを持ち、玄関へと向かう。部屋から出て行く彼の背中を、咲子は呆然と見つめる。

「どうしてよ……」

 彼が開けた扉を閉め、部屋の中が暗くなる。暗い部屋の真ん中で、咲子は呆然と呟いた。

 鍵の閉まる音だけが、暗い部屋に響き渡った。


「ねえ……開けてよ、開けて……」

 咲子は、白い車の窓に拳をぶつける。中から返事は聞こえてこない。曇った窓からも車内の様子は見えない。

 頭上には満天の星空が広がり、とっくに夜になっていた。彼女が着ている服やスカートは枝に引っかかり、ところどころがれて引き裂かれている。スカートから伸びる綺麗な脚には、赤い線のようになった切り傷がたくさんついている。

「開けてよ、お願いだから……」

 曇った窓に拳をぶつけ、咲子の頬を涙が伝う。車の中から、返事は何も返ってこない。

 その時、車から音がした。鍵についているスイッチを押し、ドアを開けた時の連動音だ。

 すぐに、目の前のスライドドアが急にいた。車内から噴き出した重い空気に、咲子は手で口を押さえて激しく咳き込む。

 咳が止まるのを待って、車内へ入る。倒された後部座席のシートに膝を乗せると、ぎし、と音がした。

「秋仁さん……」

 あの日と同じく、青白い顔をした彼がそこにいた。確認せずとも分かる。もう、何をしても無駄なのだと。

 これを見るのは三度目。違うのは、その隣に自分がいないこと。彼の隣で、彼の最期の言葉を聞かなかったこと。

「……」

 彼の頬に触れる。冷たい肌が、ほんのわずかまだ温かい。でも、もう……。

「うーん。二回目も何も変わりませんでしたねえ。残念」

 声がした。咲子は顔だけを後ろに向ける。あの男の子……グラウが、体の輪郭を淡く光らせ、空中に浮いていた。

「じゃ、次に行きましょうか。次こそは奇跡が起きればいいですね」

 グラウが言う。人差し指を銃の形にし、咲子の額に向ける。

 ばん、とグラウが指を跳ね上げると同時。咲子の体は秋仁の隣に倒れこむ。そしてそれきり、ぴくりともしなくなった。

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