【ある魔女の追想】⑥

「榎宮さん。もう一人の方は残念でした。ですがね、だからと言って、あなたはあのままってわけにもいかない」

 ベッドの横に立つ禿げた男が、爪で頭を掻きながら言った。彼の視線の先には、入院着を着た咲子がベッドの上に座っている。

 この男は近くの警察署から来た刑事である。一緒に来たもう一人は廊下で待機している。

「もう一度言いますが、あなたは自分で車の鍵についているボタンを押してドアを解錠し、自分の左側にあったスライドドアを開け、自力で外に出たようです。ちなみに通報したのは通りすがりの男性でしたよ。名乗られませんでしたが。

 これが現場の写真なんですが……見せないほうがいいですね。話を戻しましょう」

 禿げた刑事はふところに伸ばしかけた手を引っ込める。代わりにくたびれたスーツのポケットからメモ帳とペンを取り出し、メモ帳のページを開く。

「では、もう一度聞きます。つらいとは思いますがね、我々もこれが仕事なもんで。ご理解のほどをお願いいたします。

 あなたはなぜ、あんな所で自殺じさつ未遂みすいなんかを? 七輪や練炭、睡眠薬……ずいぶんと準備したもんですね。計画的じゃないですか。前々から二人で死ぬことは決めていたんですか? それとも、どちらかが死のうと準備を?」

「……」

 咲子はうつむき、毛布の上に置いた自分の手を見つめたまま何も答えない。禿げた刑事はため息をつき、仕方なしに話を変える。

「……そういえば加賀さんの生命保険の受取人ですがね、あなたになっておりましたが、あなた方はまだせきも入れていないと聞きました。つまり率直そっちょくに言いますと、あなたは加賀さんと恋人であったかもしれませんが、法的には彼とはなんの関係もない他人です。なので秋仁さんの保険金は全て、加賀さんのご家族が受け取ることになりました」

「……」

 咲子は何も答えない。相槌も表情の一ミリさえも動かさず、黙っている。刑事は続ける。

「あなた方のお店ですが、差し押さえになりました。赤字が重なり、店の借金があったそうですね、百五十万円。その名義は秋仁さんになっていました。加賀さんのご家族が、その借金は息子さんの生命保険で全額返済すると言っておりましたよ。回復したら、加賀さんのご家族にご連絡をしておいたほうがいいかと思います。

 それとあなた方が住んでいた部屋も、加賀さんのご家族が秋仁さんの保険金で全て片付けてくれましたよ。退去手続きも、もうしているそうです。そういえばあなたのご両親はもう他界たかいしているそうですね。ご実家もすでに処分し、親戚しんせきもいないとか……榎宮さん、聞いていますか?」

「……」

 咲子は何も答えない。話を聞いているのか聞いていないのか、何の反応もしない咲子に、禿げた刑事は見せつけるようなため息をついた。

「……加賀さんは残念でしたが、あなたはまだ若い。これからですよ。それにあなたは女性だ。苦労すると思いますが、すぐに元通りの生活になれるでしょう。仕事だってないわけじゃない。その気になればほら……すぐに部屋だって見つかるでしょう。今どき、女性が住み込みでできる仕事はごまんとあります。それでひとまず暮らしの基盤きばんを安定させて、やりたいことをやったらいい。あなたはまだ若い女性なんだから」

 禿げた刑事は言いながら、出していたメモ帳とペンを懐にしまう。やけに「女」を強調させた、はりぼてのようななぐさめだった。

「今日はいろいろとお疲れでしょう。重度の酸欠であなたももうだめかと思われていました。意識が戻ったのは奇跡だと医者が言っていましたよ。

 また、あなたが回復した頃に来ますね。次に我々が来る時には、当日の行動を一から十まで聞きますので、そのつもりでお願いします。我々も仕事なので」

 禿げた刑事は、再確認させるかのようにもう一度そう伝える。

「あと、あなたの職場から言伝ことづてを頼まれました。『こっちのことはもういいから、ゆっくり休んで』だそうです。では、また」

 そう言い残し、刑事は去って行く。職場からの言伝は、遠まわしなクビの宣告だった。

「……」

 一人残された咲子はベッドの上に座ったまま、人形のように動かない。

「どうですか、彼女」

「だめだ。うんともすんとも言わん」

 廊下から、さっきの刑事と待機していたもう一人の声が聞こえてくる。

「聞いているのか聞いてないのかも分からんよ。反応すらない。本当に聞こえているのか?」

「耳に異常はないって医者は言ってましたけどね。多少なりとも脳にダメージはっているようですよ。何日かしたら回復するって言ってましたけど」

「本当か? まるで人形を相手にしとるみたいだよ」

「ショックが大きいんでしょう。なんせその……一人だけ生き残ったっていう。しかも練炭でしょう? 後遺症とかも中途半端に残ってるっていう……」

「こら。やめろ。そんなこと言ったってどうしようもないだろうが。彼女は生きてるんだ。それで、もう一人は残念だった。それだけだ。

 ほら、くだらないこと言ってないで署に戻るぞ。まだやることはたくさん残ってる」

「はい」

 二人の足音が遠ざかっていく。

『もう一人の方は残念でした。ですがね、我々もこれが仕事なのです。もう一度言いますね』

 先程の刑事の言葉が、ようやく頭の中に届いて文章として読み込まれる。咲子は左手を伸ばし、がり、と頭の皮膚に爪を立てる。

「……ん、」

 頭が重く、ずくずくと脳の中に何かを打ち付けるような頭痛がした。そのせいで吐き気がし始める。まだ、あの車内にいるような感覚がする。両手の指が痙攣けいれんし、うまく動かない。

『あなたは自分で車の鍵についているボタンを押してドアを解錠し、自分の左側にあったスライドドアを開け――』

 ズキズキと頭痛が激しくなっていく。咲子は、がり、がり、と頭の皮膚を搔きむしっていく。皮膚が削れ、血が出始める。爪の中に血と削れた皮膚の欠片がたまっていく。

『つまり率直そっちょくに言いますと、あなたは加賀さんと恋人であったかもしれませんが、法的には彼とはなんの関係もない他人です』

 刑事の声が頭に響く。理解したくない言葉が、機能を取り戻した脳によって処理されていく。

『意識が戻ったのは奇跡だと――』

 がりっ、と咲子は頭の皮膚に爪を立てた。咲子は頭から手を離し、それを見る。指には抜けた髪と血と、皮膚の欠片がこびりついていた。

 ズキズキと痛むのは頭の中か、それとも、皮膚を掻きむしりすぎたことによるものなのか。その痛みは、どちらのものか分からなかった。

「……あ」

 咲子は、ぼそりと呟いた。

「うちに、帰らなきゃ」

 痺れる手で毛布を剥ぎ、ベッドを降りようとする。しかし、気がつくと冷たい床に落ちていた。彼女の腕に繋がれた、点滴のくだが張り詰める。

「うちに……」

 立とうと足に力を入れるも、腕と足は言うことを聞いてくれない。視界が回るように揺れている。頭痛が、吐き気が、ひどくなる。

「榎宮さん!」

 咲子がベッドから落ちた音を聞いた看護師が、ばたばたと慌てて咲子に駆け寄る。

「うちに、うちに帰らなきゃ……」

「まだ動いちゃだめです! 大人しくしてください!」

「いや、いやよ! 離して! うちに帰るの!」

 咲子は、左腕に刺さった管を抜こうとする。それを必死に、看護師が止める。

「何をやっているんですか! 暴れないで!」

「離して! うちに帰るの! あの人が、あの人が待っているのよ。秋仁さんが、秋仁さんが待ってるの……!」

「誰か!」

 這いずって病室から出て行こうとする咲子を、看護師が体を掴んで引き止め、廊下に向かって声を張り上げる。

「早くうちに帰らなきゃ。ごはんを作るのを。そうよ、きっとお腹をかせているわ。もしかしたら、家じゃなくてあの店にいるのかも。そう、そうだわ……。きっとそうだわ。早く、早く帰らなきゃ……」

 咲子は床を掴んで進もうとする。だが看護師に止められ、一歩たりとも進めない。

「榎宮さん!」

「薬を! 早く!」

 他の看護師たちが、ばたばたと病室に駆け込んでくる。

「うちに、うちに帰るの……」

 咲子は、病室の出口に向かって手を伸ばす。しかし、その先は看護師たちの足によって隠される。

 伸ばした自分の右手は激しく痙攣している。これでは料理どころかアイロンがけもできない。あの人のシャツも洗えない。あの人に、ごはんも作れない。咲子の目に、じわりと涙が浮かぶ。

『……加賀さんは残念でしたが、あなたはまだ若い。これからですよ。すぐに元通りの生活になれるでしょう』

 刑事の言葉を思い出す。いっそのこと言葉が分からないほど後遺症で脳が破壊されていれば。言葉が分からないほど壊れていれば。あのあとにでも心臓が止まっていれば。咲子はそう思う。だがそう思っても、もう遅い。

 彼は死に、自分はここに生きている。それが証拠。彼の最期の言葉。消えていく彼のぬくもり。彼の死に顔。はっきりと憶えている。確かに思い出せる。それが、自分だけがここに生きているという証拠。

 咲子の目から、涙が溢れた。死ねなかった自分を呪った。なぜあのまま逝かせてくれなかったのかと、気まぐれな神に向けて強く思う。何が奇跡だ。それならば死なせてくれたほうがよかったのに。そんな奇跡なら、私たちが生きている間に起こしてくれればよかったのに。

「……あ、ああ、あああ、ああああ!」

 咲子は床に額を押し付け、声を上げる。

「ただいま」と家の扉を開けると、「おかえり」と言って出迎えてくれた時のこと。

「大好きよ」と言うと、照れ臭そうに「僕もだよ」と言ってくれた時のこと。

 それらの思い出は全て、昨日のことのように思い出せる。だからこそそれらを思い出せる自分に……それらを憶えている自分に怒りがいた。

 とっくに正常さを取り戻した脳が、改めてこの現実を理解させる。理解したくないことを、改めて現実として理解させる。

「ただいま」と言えば「おかえり」と、出迎えてくれる人はもういない。

「大好きよ」と言えば「僕もだよ」と笑ってくれた、あの人はもういない。

 彼と一緒に死ねなかった自分に残ったのは、彼との思い出と彼の最期を見届けた記憶だけ。愛と幸せに満ちた、彼との思い出たちだけ。彼の最期の言葉と、彼の青白い死に顔だけ。


 それから三日が経った。一九八一年、六月十八日。二人のことは新聞の小さな記事に載ったが、それだけだった。すぐに他の記事に埋もれた。

 健康を取り戻してきた咲子は、四人部屋に移されていた。

「おい、あれがこの前の自殺未遂したっていう……」

「美人なのにもったいねえなあ。お前、もらってやれよ」

「やだよ。自殺未遂した人間なんてよ。しかも後遺症あるんだろ?」

 廊下からひそひそと声が聞こえる。何人かが首を伸ばし、好奇こうきに満ちた目で咲子を覗き込んでいる。

 どうにも人の噂というのは止められないようで、一人生き残った咲子は、毎日のように病室を覗き込む野次やじうまの視線を浴びることになっていた。

「やあねえ。また覗いてるわ」

 そう言ったのは、隣のベッドにいる老婆である。歳は八十ぐらいだろうか。しわだらけの顔と手。細く、血管の浮いた右腕の真ん中には、点滴の管が挿されている。

「また看護師さんに言わなきゃ。気にすることないわよ。あなた、美人さんだから病院でも噂になってるのよ」

 老婆はしわだらけの手でみかんを剥きながら言う。咲子は何も返さない。黙ったまま、ひたすら窓の外を見つめている。

「ほら、みかんは食べられる? あなた、ただでさえ入院中のごはんだって食べてないでしょう? これぐらい食べなきゃ、元気になれないわよ」

 老婆が剥いたみかんを差し出す。咲子は機械的な動きで窓から視線を外し、老婆の手に乗るみかんを一瞥する。

「あなたまだ若いんだから、これからよ。たくさん食べて、早く退院できるようにならないとね」

 老婆はにこやかに言い、咲子を元気づける。

「……何が、これからよ」

「え?」

 ぼそりと呟いた咲子に、老婆が聞き返した。

「何が『これから』よ、くそばばあ! 私にはこれからなんてないのよ! 慰めるなら私を殺しなさいよ! あの人がいる地獄に落としてよ!」

 突然豹変ひょうへんした咲子に、老婆は身を縮めておびえる。老婆の手から、剥いたみかんが床に落ちる。

 同じ部屋にいる他の患者も、何事かとカーテンを開けて咲子を凝視する。咲子を見に来ていた野次馬の一人が、声を張り上げて看護師を呼ぶ。

 ふらつきながらベッドから降りた咲子は、痙攣する手を老婆に伸ばした。点滴の管が伸びて張り詰め、繋がった袋が大きく揺れる。咲子は伸ばした手で、そのまま老婆の胸ぐらを掴んだ。ひっ、と老婆はかすれた悲鳴を上げる。

 咲子は、顔を老婆に近づけて言った。

「あんたは死ぬんでしょう? 死にかけの老いぼれが。それなら私と代わってよ。どうせ満たされた人生で、死んだって天国とやらに行くんでしょう? それなら私と代わりなさいよ。あんたの体ですぐに死んで、あの人に会いに行くんだから。代わりなさいよ、くそばばあ!」

 咲子は狂気的な感情を込めて老婆に叫ぶ。老婆は、ひ、ひ、と声にならない悲鳴を上げている。

「それか私を殺しなさいよ。死のうとして失敗して、一人だけ生き残った私には地獄がお似合いだわ! そうでしょう⁉ だったら早く殺しなさいよ!」

 咲子は叫ぶ。老婆は言われている言葉の意味が分からず、怯えながら首を横に振る。

「榎宮さん! やめなさい!」

 と、男の看護師が咲子をめにした。

「いや! 離して!」

 咲子は暴れるが、男の看護師はびくともしない。咲子を羽交い絞めにしたままじりじりと後ろに下がり、老婆から距離を取る。女の看護師が、ぶるぶると震える老婆をなだめて落ち着かせる。

「……もういや。死にたい、死にたい、死にたい、死にたい。誰か殺して……誰か私を殺してよ!」

 咲子は涙を流しながら叫ぶ。

 事故の後遺症により彼女の人格は、まるで別人のようになっていた。回復したと思ったらぼうっとする日もあり、落ち着いたと思ったら今のように豹変する。助かった日から、それを何度も繰り返していた。

「早く!」

 咲子を羽交い絞めにしている男の看護師が、声を張り上げる。ナースワゴンを押して、もう一人女の看護師が病室に入ってきた。すぐさまてきぱきと注射器を準備し始める。

「いや、いや……」

 咲子は泣きながら首を横に振る。それを無視し、男の看護師が咲子の左腕の袖をまくった。咲子の左腕の内側には、すでに大量の注射痕が青あざとなって刻まれている。

 咲子はなんとか逃げようとするが、男の看護師はびくともしない。

 左腕の血管に注射器の針がせまる。

「いや……」

 ぷつりと針が突き刺さる感触がした。そのあとに、何か液体を流し込まれたような感覚がした。すぐに、涙で滲んだ視界がぐにゃりと歪んだ。全身から力が抜けるのを感じる。

 三人目に来た看護師が慣れた手つきで咲子の腕から注射器を抜き、後始末をしていく。

「あっちの病棟に移動させよう。ここだともう無理だ……」

「確認取れました。一部屋空いているそうです」

「よし。ストレッチャーに乗せて……」

 聞こえてくる看護師たちの声が遠くなる。瞼を閉じたくないのに、血管を巡る薬が強制的に眠らせようとしてくる。

 誰かに腕を掴まれ、何かに乗せられる。そこで視界が暗くなり、意識が体から離れていった。


 目が覚めると、違う病室だった。人が二人入れるかという狭い部屋のベッドの上に、自分は寝かされていた。

 部屋にあるのはベッドと、むき出しの便器だけ。不思議なことにその便器の周りを見ても、水を流すためのレバーがついていない。

 咲子は自分の足元……部屋の出入り口に目を向ける。出入り口の扉にドアノブはない。代わりについているのは、小さなガラス窓だけだった。そこから、左から右へと横切っていく看護師の頭が見えた。

「……」

 長いこと固いベッドの上に寝かされていたせいか、全身が痛んだ。体を起こそうとして、頭の中に激痛が走った。頭痛のせいで視界がぐるぐると回り、吐きそうになる。先程打たれた薬のせいか、今見ている光景はひどく現実味がないのに、これらの痛みだけがはっきりとしている。

 咲子はベッドから起き上がることは諦め、寝返りを打って横を向いた。便器と壁を見つめていると、頭痛と吐き気は次第に落ち着いた。

 目の周りがひりひりして熱い。声を出そうとしたが、喉がからからに渇いてそれどころではなかった。咲子は声を出すことも諦め、ひたすらに壁を見つめる。

「……」

 そうしていると無意識に、もう出ないと思っていた涙がまた溢れだした。

(……誰か殺して)

 彼女は、頭の中で呟いた。

「だれか、誰か……私を、殺して。誰か……」

 彼女は痛む喉で声を絞り出し、壁を向いたまま涙を流す。

「それが愛なのですか」

 すると突然、声が聞こえた。機械音声のようにのっぺりとした、人間味のない少女の声だった。

 うつろな目で壁を見つめたまま、咲子は答える。その声がどこから聞こえたのか、誰のものかのか、生きる気力を失くした咲子にはどうでもいい。

「……ええ、そうよ。これが愛なのよ」

 そう答えるとまた、どこからともなく平坦な声が返ってきた。

「愛し、愛され、いなくなった片割かたわれのために死を望むこと。それが愛なのですか」

 聞こえる声に、壁を見つめたまま咲子は答える。

「……ええ、そうよ。あの人に会えるのなら、死ぬことなんて怖くないわ。それで地獄に落ちれば、あの人に会える。会いたいわ、もう一度。会いたい……」

「なるほど。会いたいと思う感情。それが愛なのですか」

 少女の平坦な声は、そこで聞こえなくなった。何だったのかと思っていると、

「咲ちゃん」

 と、聞き覚えのある声がした。咲子はその声に、がばっとベッドから飛び起きる。聞き間違えるはずもない。その声は、その呼び方をするのは、彼しかいない。

「うそ……」

 咲子は瞬きをする。その一瞬、次に目を開いた時……目の前に彼の顔があった。死んだはずの彼が……加賀秋仁が、膝を折って自分の目の前にいた。

「なに、これ……夢? 夢なの……?」

 咲子は目を見開く。彼を望み過ぎて見た幻覚か。それとも自分は看護師たちにまた薬を打たれ、眠った先の夢の中の光景か。いや、どちらでも構わない。

「うそ、うそよ、だって……」

 咲子は両手を伸ばす。伸ばした指先で、目の前にいる彼の顔に触れる。あの日、あの時触った冷たい感触ではない。はっきりと、生きているぬくもりを感じる。

「これが愛なのでしょう?」

 と、再び平坦な声が聞こえてきた。咲子はあたりを見回し、気がつく。部屋の出入り口の前に、いつの間にか十歳ぐらいの女の子が立っていた。

 そばかす顔の、取り立てて目立つ要素のない女の子である。昔の農民が着るような長い丈のチュニックで、頭にはバンダナを巻いている。耳の下から、奇妙な色の髪が二つの三つ編みとなって垂れている。

 地味な格好の中で目立つのは女の子の目の色と、その奇妙な髪の色だ。

 女の子の二つの瞳は、にごりのない鮮やかな赤色。その血だまりのような赤い目に、人間的な感情は一切浮いていない。機械のように平坦で、全てを何とも思っていない目をしていた。

 そして三つ編みに結ばれた女の子の髪には色がついておらず、廊下から入ってくる電灯の光をそのまま前に素通りさせている。女の子の髪は白でも銀でもなく、まるでやわらかいガラスのように透明だった。

 そんな目と髪を持つ女の子が、口を開いた。

「これで満たされるのでしょう? いらぬ対価など、支払う必要などないと思うのですけれど」

 何の感情もこもっていない声で言う。突如として姿を現した秋仁が、そっと咲子の手を取る。

「帰ろう。咲ちゃん。僕らの家に」

 そう言って笑いかける。彼の手から、確かに彼の体温を感じる。

 彼の服装はあの日のままだ。声も姿も、何一つとして変わっていない。その優しい笑顔も。

 だからこそ、違う、と咲子は思う。唇を震わせて、溢れる涙を必死にこらえる。

 彼は死んだ。自分は彼の最期の言葉を聞いた。彼の死に顔も見た。だから今目の前にいるのは……偽物にせものだ。彼は死んで、自分だけがここに生きているのだから。

「……あの人は死んだ。死んだのよ……」

 咲子は下を向いて肩を震えさせ、そう自分に言い聞かせる。透明な髪の女の子は、無表情のまま首をかしげた。

「会いたいと言ったのはあなたでしょう? これで満たされるのでしょう? これが、愛なのでしょう?」

「違う、違うわ、こんなの……」

 咲子は首を横に振り、涙をこぼす。彼は確かに死んだ。そして自分だけがここにいる。その記憶も彼の最期も、こうして生き残った自分の中にはっきりと残っている。

「死ななかったんだよ。ほら、生きてるよ」

 秋仁は咲子の背中にそっと手を回し、優しく抱きしめた。偽物から伝わってくる体温が、心臓の鼓動が、咲子の心をずたずたにしていく。

「あなたは死んだわ……私は見たんだから。あなたは死んだのよ。もう、この世界には……」

 秋仁のぬくもりを感じながら、咲子は声を震わせる。いや、目の前にいる人物を「秋仁」と呼んでよいものか。この偽物を、「彼」と認めてよいものか。

 咲子は泣きながら思い返す。本物の彼はつい数日前、自分の目の前で冷たい死体となった。彼は死んだと、あの刑事からも聞かされた。

 そうだ。自分は確かに憶えている。自分はあの日、彼が死体になるまでを隣で見届けたのだから。冷たくなった彼に触れたのだから。青白くなった彼の死に顔を、この目で見たのだから。

「こんな偽物、違うわ。こんなの……」

 咲子は、偽物の胸の中でしゃくりあげる。

 と、その時。

「あれあれ。なんか面白おもしろそうなことやってるじゃないですか」

 また、どこからともなく声がした。

 咲子は声が聞こえてきた方向へと顔を向けた。天井の少し下のあたり……空中に、一人の男の子が浮いていた。

 年のころは十二歳ぐらいに見える。体の輪郭りんかくがぼんやりとあわく光っている。着ているのはしわ一つないシャツに黒のショートパンツ。先程現れた女の子と同じく、鮮やかな二つの赤い目と透明な髪の持ち主だ。

「愛を与えただけなのですけれど」

 と、女の子が、空中にいる男の子に言った。男の子は、やれやれ、という風なジェスチャーをして、首を横に振る。

「分かってないですねえ。愛っていうのはそこへいたるまでの経緯けいいが大事なんですよ。愛し、愛され、お互いがそれをつらぬくこと。結果だけ用意しても全然だめです。うすっぺらいんですよ。他のものでも同じです。

 何かを望むこと、それのために努力を重ねること。それが大事なんですよ。それへ至る経緯が何よりも面白いものなんです。そうでしょう?」

 男の子が、女の子に問いかける。咲子はふと思った。この男の子の声を、どこかで聞いたような気がする。どこで聞いたのか。

「だからこういうのは、愛じゃない。分かってないですねえ」

 男の子が、パチンと指を鳴らした。それと同時、咲子を抱きしめていた偽物の秋仁が、音もなく姿を消した。

「……」

 女の子は、変わらず何の感情もない目で現れた男の子の顔を見る。

「僕にくださいよ、これ。いいじゃないですか。たかが虫の一匹でしょう?」

 男の子が、咲子を指さす。

「……好きにすればよいのですけれど」

 女の子はそう言い残すと、音もなくその場から消えた。

「さて」

 と、男の子は空中に浮いたまま咲子に向き直る。

「どういう話かは聞いていなかったので分かりませんが、つまりはこういうことでしょう? 死んだ人間にもう一度会いたい。ならば方法なんて一つじゃないですか」

 男の子がもう一度、パチンと指を鳴らした。次は咲子の視界……その少し上に、縄でできた輪っかが出現した。どういう原理か、縄は結び目もなく天井から吊り下がっている。その輪っかに首を引っかけるには、ベッドの上に立たなければならない。

 男の子は言う。

「命がなくなること。生命せいめいがなくなること。生命が存在しない状態。それが『死』です。あなたがやろうとしたこと。あなたができなかったこと。

 でも、あなたはそれをして死んだ人間に会いたい。ならば簡単です。それを次は確実にやればいいだけの話です。他の方法とはいえ、一度、自分からやったのならば今度こそできるでしょう? それとも、同じようにもう一人を連れてこなければできませんか? まあいいですけどね、それでも。あの偽物、もう一度出しましょうか?」

 男の子が聞く。

「……」

 咲子はゆっくりと腰を浮かし、よろけながらベッドの上に立った。固いマットレスが、彼女の体重に、ぎし、と軋む。

 咲子は出現した輪っかに、細い指を伸ばした。震える右手でそれを掴むと反対の手も伸ばし、両手でしっかりと輪っかを掴む。

 あと、もう少し動くだけで彼に会える。生きている間は決して会えない、この世の何よりも大事な人に。一人で逝かせてしまったあの人に。地獄に行ってしまった彼に。あと、ほんの数センチ動くだけで会える。あと、少し動くだけで。

「ええ、そうですねえ。たったそれだけです。さあ、がんばりましょう!」

 男の子が、咲子の心を読んだように言った。

「本当に地獄に行けるかは分かりませんが、それも一つの賭けですね。まさに『いのちけ』。ふふ、さて、どうなるでしょうねえ」

 男の子はにこにこしながら、咲子を見下ろしている。

「……」

 ベッドの上に立つ咲子は両手で縄を持ち、荒い息をつく。そのままの体勢から、咲子は動かない。

 頭では分かっている。もうこの世界に彼はいない。彼は死んだのだから。会うためには、彼と同じ地獄に行くしかないことを。

 だが、その一歩が踏み出せない。手足が震え、体が動くのを拒絶していた。なぜか頭の中に、あの車の中での記憶が回っていた。

 耐えがたい頭痛と眩暈を感じたこと。喉が焼けるような苦しさを感じたこと。まともに呼吸ができなかったこと。瞼を閉じるまでの記憶。一度「死」を味わった体と脳は、完全にそれに繋がる行動を拒否していた。

「……おや?」

 男の子が、あごに手を当てる。

「あれあれ。できないのですか。まあ最初から期待はしていなかったですし。それもまた、あなたの選択です」

 男の子が言う。言い終わると同時、掴んでいた縄はふっと消えた。急に持っていた物がなくなった咲子は、バランスを崩して前のめりに倒れこむ。顔面から床に落ち、痛みに呻きながら顔を上げる。

 そんな咲子を見下ろしながら、男の子は実験動物を見る科学者のようにあごを撫でる。

「うーん。しかし、あなたも矛盾している願いを持つ人間ですねえ。死んだもう一人に会いたい。けれども一人では死ねない、なんて。命を捨てる意思を持つのに死が怖いとは。人間はなんとも不思議な生き物です。でも、ま、いいですよいいですよ。面白そうじゃあないですか」

 男の子はにやにやする。

「もう一度確認しますが、あなた、どんなことをしても、死んだもう一人の人間に会いたいですか?」

「……ええ、会いたいわ……」

 疲れ切った顔を男の子に向け、咲子は言った。

「それがたとえ本当にあるか分からない場所でも、そのために何もかもを捨てる意思はありますか?」

 男の子は問いかけた。

 咲子は思う。本当にそんな場所があるのだろうか。そこに本当に、彼はいるのだろうか。いくら考えても、ここに生きている自分には分からないことだった。

 生きている人間が生きているうちにいくら死後の世界を考えても、答えなど出るはずもない。死後の世界は、死んだ人間にしかあずかり知れぬ場所である。

 それでも、と咲子は思う。それでも、彼がいないこの世界に自分は生きている意味もない。会えるのならば、会いたい。そこがたとえ本当にあるとも知れぬ場所だとしても。彼がいない人生など、そんなもの私にはいらないのだから。

「……地獄なんて、あるの? そこに本当に、あの人はいるの?」

 すがるような目で男の子を見上げる。

「さあ、どうでしょうねえ。それもまた一つの賭けです」

 と、男の子は言った。

死者ししゃへ会うには死ななければいけない。同じく、死後の世界も生者せいじゃではゆけぬ場所。生きている者と死んだ者。決してえられぬへだたりです。死なない限りはあちらにゆけず、死なない限りは死後の世界など分からない。そういうことですね」

 男の子は、鮮やかな赤い瞳で咲子を見つめる。血だまりのような男の子の目に、咲子の顔が反射する。

「あなたの願いとはそういうものです。それでもよろしいですか?」

 男の子が問いかける。

 男の子の目に映った自分の顔を見つめながら、咲子は秋仁と過ごしたことを振り返る。彼と出会ってからのこと。彼とあのアパートで過ごした日々のこと。彼と過ごした十数年間。その最後が、ここにいる自分一人だけ。そして残ったのはまともに動かない体と、今さら生きようとする自分の命だけ。

 そんなものなどいらなかった。彼がいなくなったこの世界に、自分が生きている意味も、自分が生きていく意味も、もうない。

 ならば一つ、賭けてみよう。望まずに残ってしまった、この、自分の命で。

 咲子は、言った。

「……会いたい。会いたいわ、どこへいるとしても、私の持つ何かであの人に会えるのならば……」

「よろしい。いい返事です」

 そう言うと男の子は、満足げに頷いた。

「今の僕は人間にとても親切で寛大かんだいです。その願い、叶えてあげましょう。

 その結果があなたの望む場所へたどり着くことになるかもしれないし、全然違う場所に行くかもしれない。はたまた、思いもよらぬ場所へ行くかもしれません。

 では、さっそくやってみましょうか」

 男の子が、もう一度指をパチンと鳴らした。その瞬間。

火事かじだ!」

 と、どこかで叫び声が上がった。そのあとに聞こえたのは誰かの悲鳴と、大勢の人間が廊下を走る足音。まるで静寂せいじゃくが一気に解放されたように、あたりは騒然そうぜんとする。

「な、なに……?」

 咲子はふらふらと立ち上がり、扉についているガラス窓に張りつく。看護師たちが左から右へと廊下を駆ける。

 左目の視界の端に黒い煙が見えた。あの時のことが脳裏に浮かび、心臓が凍りつく。

「開けて、開けてえ!」

「煙が、煙がこっちに来る!」

「助けてくれ、誰か、誰かああ!」

 煙が上がる方向から、扉を叩く音と患者の叫び声が聞こえてくる。向かいの病室を見ると、パニックになった女の患者がガラス窓を激しく叩いている。

「に、逃げなきゃ……」

 咲子はガラス窓から離れる。どこかへ逃げるとしても、どうやってこの部屋から出るというのか。この部屋の扉にドアノブはついていない。

 部屋の前を走っていく看護師たちは、余裕がないのかこちらに見向きもしない。切迫した顔を浮かべ、患者を連れて部屋の前を横切っていく。

「う……」

 咲子は口を押さえ、激しく咳き込んだ。扉の隙間から黒い煙が部屋の中に入ってくる。空中に浮いていた男の子は、いつの間にかいなくなっていた。

 誰かが非常ベルを鳴らしたのか、けたたましい音が響き渡る。それを遠くで聞きながら、咲子は床に横たわった。あの日と同じ、自分の命が終わっていくのを感じる。

 今度こそ死ねるだろうか。咲子が思うのは、やはりそのことだった。今度こそ死ねるだろうか。今度こそ。

「……」

 もう、腕を動かす力もない。視界がかすみ、瞼が落ちていく。

 そういえば、と咲子は最後に思う。さっきいた男の子の声は、どこかで聞いたような気がする。その声を、どこで聞いたのか。

 その思考の答えが出ないまま、咲子の意識は闇へと落ちていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る