【ある魔女の追想】②
「榎宮咲子さん! こ、これから先も、僕と……ずっと一緒にいてくれませんか!」
桜の木の下で一人の男子生徒が、ばっ、と頭を下げた。あまりに突然のことに、卒業証書の入った黒い
風が吹き、彼女の長い髪が桜の花びらと共になびく。咲子ははっとして、ようやく状況を理解する。
「告白……されたってことでいいのよね?」
しかし返事ではなく、なんとも間抜けに状況を説明しただけである。それには、頭を下げた男子生徒も「え?」と言って顔を上げた。
「……」
しばし、二人は見つめ合う。男子生徒の手にも、咲子が持つ物と同じく黒い筒がある。二人はつい先ほど、高校の卒業式を終えたばかりだった。
二人はお互いの顔を見つめ合ったまま目をぱちくりさせると、
「ふふ」
「ぷっ」
同時に小さく吹き出し、一緒に笑い声をあげた。しばらく笑って、その声が小さくなっていく頃。咲子が優しく、その男子生徒の手を取った。
そして優しく微笑みながら、こう言った。
「こちらこそ、これから先もずっとよろしくお願いします」
咲子の返事に、男子生徒はぽかんと口を開けている。告白を受け入れてもらえたと理解すると、彼の顔が一気に耳まで真っ赤に染まった。
「あ、あ、こ、こちらこそ、あの、よろしくお願いします!」
慌てながらそう言い、男子生徒はもう一度、ばっと頭を下げた。
「ぜ、絶対に君を幸せにするからね、咲ちゃん! ……あ、いや、絶対に、幸せにします! さ、咲子さん」
「咲ちゃんでいいわよ。もう……」
一生懸命言う彼を見て咲子は、照れ臭そうに笑いながら言葉を返す。
「これから先もずっと一緒よ。二人で幸せになりましょうね」
咲子はそう言ってもう一度、彼の手を優しく握った。
卒業式の日に一人の男の子から告白され、それに応える。探せばどこかにあるような出来事が、咲子とこの男子生徒……
こんな小さな幸せが、彼女にとって決して
それから数年後。成人を迎えた二人は一緒に住み始めていた。
二人の家は二階建ての小さな木造アパートだ。その外階段を上がってすぐの部屋、303号室。築年数は今年で三十年になるという。かなり古いが二人で住むには十分で、元々物もない二人にはちょうどいい広さだった。
「ただいまー」
玄関の扉を開け、スーツ姿の秋仁が帰宅する。
「おかえりなさい。お疲れ様」
そんな彼を、エプロン姿の咲子が出迎える。
「今日はね、新しいお客さんの契約を取れたんだ。それでね、そのお客さんが僕をえらく気に入ってくれて、またお願いって言ってくれたんだよ。上司にも『新入社員なのにすごいなあ』って褒められちゃったよ」
秋仁は上着を脱ぎながら、嬉しそうに今日あった出来事を話し始める。
「それはすごいじゃない。ちょうどよかったわ。入社おめでとうってみんなからケーキを貰ったの。ごはんが終わったら、それを一緒に食べましょ」
「わーい、ケーキだ! 咲ちゃんはお仕事どう? 慣れた?」
「忙しくて覚えることも多いけれど、楽しい職場よ。百貨店で
「あんまり無理はだめだよ。あ、明日は時間があるから、朝に職場まで送るね。危ないから」
「いつもありがとう」
「こっちこそ、いつもありがとう」
秋仁が笑いかける。そんな彼の笑顔を見て、咲子は、言葉では言い表せないほどの大きな幸せを感じる。
季節が過ぎ、また違う日のこと。
「あれ、駅まで来てくれたの?」
マフラーを巻いた秋仁が傘をさす咲子に言った。吐く息は白くなり、アスファルトの上には雪が少し積もっている。周りを歩く人たちは、寒そうに身を縮ませながら家へと帰っている。
「寒かったでしょう? うわぁ……手がこんなに冷たくなってる……」
秋仁は傘を持つ咲子の手を、優しく握って温める。
「そんなに待ってないから大丈夫よ。雪が降ってたから、傘を持ってきたわよ」
白い息を吐きながら咲子が言う。そうは言うものの、傘を持つ咲子の細い指先や、耳や鼻の頭が、うっすらと赤くなっている。
「すごく寒そうだよ。これ巻いて」
秋仁は自分の首にあるマフラーを外し、咲子の首に巻いていく。
「私は大丈夫よ。あなたがつけて」
「僕はさっきまで電車に乗ってたんだから大丈夫だよ。それだけじゃ寒いよね。ほら、これも着て」
秋仁は鞄を自分の足元に置き、着ているコートを脱ぎ始めた。それを見た通行人たちが、くすくす笑いながら二人の横を通り過ぎていく。
「ちょ、ちょっと秋仁さん……」
秋仁は脱いだコートを咲子の肩に引っかける。咲子が履いている
「寒くない?」
「暑いぐらいだわ……」
「よかった。風邪をひいたら大変だもんね。家に帰ったらすぐにストーブをいれようね」
すっかりシャツ姿になった秋仁が足元に置いた鞄を拾い上げる。一つくしゃみをして、鼻をすすった。
「コートはあなたが着て。風邪をひいたらいけないもの」
「僕は大丈夫だよ。全然寒くないし。それに歩いてたら、体も温かくなるし」
頬と鼻を真っ赤にさせて、秋仁は言った。
「ところで、傘が一つしかないように見えるけど……」
「……これ一つしか持ってきてないわね。忘れちゃったわ。あなたの傘……」
「そうなんだ。咲ちゃんはうっかりさんだね」
今さら気づいた咲子に、秋仁が笑う。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るの? そういう時もあるよ。僕だってこの前、保険の契約書、お客さんのところに持って行くの忘れちゃったし。二人分の傘だとこうやって近くまで寄れないから、僕は咲ちゃんがうっかりしちゃって嬉しいよ」
そう言われて、咲子の心が少しは晴れる。こういう風に優しくフォローしてくれるのも、彼のよさだ。
「また降ってきちゃったね。早く帰ろうか」
「そうね」
空を見上げる秋仁に続き、咲子も降り始めた雪を見つめる。秋仁は、持つよ、と言って、傘を持つのを代わる。
「両手がふさがっちゃうから、鞄、持つわ」
「ありがとう。ちょっと重いよ」
秋仁から鞄を受け取り、咲子はそれを、雪で濡れないよう両手で抱える。一つの傘に入った二人は家へ向かって歩き出した。
「今日のごはんはなんだろう。楽しみだなあ」
白い息を吐きながら、秋仁が言った。右手に持つ傘を咲子のほうへ傾かせているため、秋仁の左肩には小さな雪の山が乗っている。
「人も増えて来ちゃったね」
「ええ。そうね」
駅を出て大通りに差し掛かる。道路を走っているのはたくさんの車と、路面電車。信号を渡った二人は、同じように傘をさした人たちの中に入る。秋仁は傘を持つ手を変え、空いた右手を咲子の腰にそっと手を回した。彼女が通行人とぶつからないよう、自然に自分の
「あ、そうだ咲ちゃん。今日はね……」
秋仁が今日あったことを話し始める。咲子もその話を楽しそうに聞く。
そんな二人はやがて、周りの人込みに混じっていった。
それからも同じように二人の毎日は過ぎていった。朝は同じ時間に起きて、仕事から帰ったら二人で食事の準備をして、同じテレビを見ながら今日あった出来事を話し、食事が終わって眠くなったら眠る。
それが二人の日常で、二人にとってその生活が当たり前だった。
自分を好きだと言ってくれる人が、玄関を開けたら待っていてくれる。「おかえり」と言ってくれる。職場まで迎えに来てくれる。休日は一緒に出掛けてもくれる。咲子は彼との毎日が、本当に幸せだった。
そしていつしか秋仁が咲子に告白した年から、十年が経っていた。
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