【ある魔女の追想】③

「これを一杯いっぱいだけ入れて……うん、いい感じね。秋仁さん、味見あじみしてくれる?」

 ある日の朝。台所に立つ咲子が、居間にいる秋仁を呼ぶ。長い髪はポニーテールに結ばれ、着ている半袖のワンピースの上には可愛らしいがらのエプロンをつけている。

「今日は何を作ってくれたのかな。楽しみだなあ」

 秋仁は読んでいた新聞を畳み、立ち上がって咲子の横にいく。着ているのはしわの伸ばされたシャツにネクタイと黒いズボン。出勤前のひと時だった。

「大根をもらったからお味噌汁みそしるにしてみたの。どうかしら」

 差し出された小皿には一口分の味噌汁がよそわれている。秋仁はそれを受け取り、皿を傾けて味見する。

「うん、おいしい。これだけでもおいしいけど……咲ちゃん、なんかこれ、いつもより味が薄くなってる?」

「ええそうよ。味付けを濃くしたら血圧が上がって早死はやじにしちゃうもの。あなたにはいつまでも健康でいてほしいから」

 と、鍋を混ぜながら咲子が言う。笑いながら秋仁が反論する。

早死はやじになんて大げさだなあ。僕、まだ二十九歳だよ。まだ死なないよ」

「そんなこと言わないの!」

 ずい、とおたまを持つ咲子が前のめりになって秋仁に言った。

「あのね、秋仁さん! 人はいつ死ぬか分からないのよ。あなただってもう若くないんだから。あれから十年よ。いつまでも学生じゃないの。この前だって病院の検査、『もういいです』って言って途中で帰っちゃったじゃない」

「だって僕、どこも悪いところなんてないし……」

 秋仁は目を泳がせながら後頭部を掻く。

「そういうところよ、もう。ただでさえ駅三つ先の職場なんだから、あなたの健康には一層気を使わなくちゃ。あなたも仕事が終わってからお店で働くでしょう? 心配なの」

「ご、ごめん……。でもほら、ちゃんと来週、残りの検査を受けることにしたから……」

「そのこと、聞いてないんだけど。言ってくれたら休みを取ったのに」

 咲子はむっとする。そのことには怒ってもないが、それに関係する他のことに怒っているような顔だ。

「君も仕事があるだろう? 病院ぐらい僕一人で行けるよ。子供じゃないんだし」

「……私にとっては、あなたは大きな子供なの。この街は人も車も多いから危ないわ。それに電車だって走っているし。一人にさせるのは心配なの。来月にオープンする動物園だって、きっと人がごった返してうごきとれないわ。あなたは格好いいから、きっと電車の中で痴漢ちかんされちゃうわ。しつこいぐらいに」

「そんなに僕のことが心配なら、来月、動物園行くのやめる?」

 その一言に、咲子がさらにむっとした。

「……いじわる」

 それだけぼそりと言うと、秋仁の手から味見用に渡した小皿を取る。

「動物園は何があっても行くわよ。だってパンダがくるのよ、パンダが。だからたとえ大雨になろうが嵐になろうが、やりろうが行くわよ」

「そんなになったら動物園どころじゃないと思うんだけど……」

 秋仁は頬を掻きながら苦笑する。

「とにかく、あなたには健康でいてほしいの。病院の検査だってそうだけれど、そろそろ煙草もやめてほしいわ」

「煙草は……許してよ。たまにしか吸わないじゃないか。先輩に誘われた時だけだよ」

「それでももう少しひかえてほしいの。知ってる? 煙草を吸うと普通の人よりも早く死んじゃうことになるのよ」

 咲子はお玉を手に熱弁ねつべんする。咲子にとって一番の心配事しんぱいごとは秋仁の健康で、その次が秋仁自身のことだった。彼と一緒に住み始めて十年。毎日の食事の献立こんだてもその日の予定も、彼のことを考えない日はない。それほどまでに咲子にとって秋仁は生活の中心で、自分の人生にけることのない男性となっていた。

 咲子はコンロの火を消し、ぽつりと呟くように言った。

「……あなたが死んだら、私、きっと耐えられないわ」

 今までとは真逆の、ひどく不安に満ちた声色こわいろだった。

「あなたと出会って、もう十年以上よ。今年で十一年目。私、あなたがいない人生なんて考えられないわ。あなたがいなくなるなんて、私……考えたくないわ」

 消え入りそうな声で呟く咲子の背中に、秋仁はそっと優しく手をえる。

「……あなたがいなくなった世界なんて、私が生きている意味も、生きていく意味もないわ。だから私、あなたがいなくなったらすぐにあとを追いかけるから」

「ありがとう咲ちゃん。すごく嬉しいよ」

 秋仁は優しく咲子を抱きしめてなぐさめる。

「でも、咲ちゃんは死んじゃだめだよ。嬉しいけど、僕がいなくなったからって僕を追いかけるのは……すごく悲しい」

「……」

 秋仁が咲子を抱きしめて言う。彼のぬくもりを感じながら咲子は、本気なのにと思う。それを言うと彼を困らせてしまうので口にはしない。

 お玉を持ったまま彼に体を預けると、彼の優しい体温を感じた。額を押しつけると彼の力強い心臓の鼓動こどうが聞こえる。こうして抱きしめられているだけで涙が出そうだ。幸せ過ぎてどうにかなってしまいそうだと、咲子は思う。

「僕も、僕より先に咲ちゃんがいなくなったらって考えると夜も眠れないほどつらいよ」

「だからこの前、夜中に泣いていたのね。やけに目を真っ赤にしてるなと思ったのよ」

 秋仁の胸に顔をうずめている咲子が、くぐもった声で言った。

「そ、それは今関係ないじゃないか!」

 秋仁が顔を真っ赤にさせて言い返す。

「とにかく、その……うまく言えないけど、僕が死んでも、死なないでねってこと。生きてる限り、きっとうまくいくからさ。きっと神様は見ていてくれてるんだ。いつかきっと、絶対僕らを助けてくれるよ」

 そう言って、咲子をさらに優しく抱きしめる。

「……そうかしら」

 秋仁の胸にいる咲子は、浮かない声で返事をする。

 このアパートで暮らし始めてもう十年が経つが、二人はまだ「恋人」という関係のままだった。

 働きながら金を貯め、喫茶店を開くという二人の夢を叶えたのは二年前。あと一年頑張って店のかせぎが安定したら、結婚式をしようと彼は言ってくれた。今年の夏ごろまでには、婚約指輪を買いに行こうと。

 しかし、現実は厳しかった。店の稼ぎは徐々に減り、二人は夢を取るか生活を取るか、という選択まで追い詰められていた。

「……だったらどうして、今の私たちを助けてくれないのかしらね。そろそろ私たちを助けてくれたっていいのにね……」

 咲子はため息のように言う。

「まあまあ。この国には八百万はっぴゃくまんの神様がいると言われてるんだよ。その中の一人ぐらいは、僕らをきっと助けてくれるさ。ね? それにほら、他にも苦しい思いをしている人たちもいるわけだし。それに僕らは一人じゃない。なんとかなるよ」

「……そうかしらね」

「そうだよ。だから大丈夫。上手くいくさ。お店のことは僕がなんとかするからね」

 秋仁は笑いながら咲子の頭を優しく撫でる。のんきなようで優しい秋仁と現実を冷静に見る咲子。性格は真逆な二人だが、そんなところもお互いにかれた部分だった。

「お店は二人で決めたんだから、一人で抱え込まないで」

 咲子は秋仁をぎゅっと抱きしめると、体を離す。そろそろ仕事に行く時間だ。いつまでも感傷かんしょうひたっているひまはない。

「ひとまず、この話はおしまい」

 咲子が言う。

「ほら、そろそろ家を出る時間でしょう? またネクタイ曲がってるわよ」

「あ、ほんとだ。いつも直してくれてありがとう。じゃ、朝ごはん食べようかな」

「食べる時間あるの? 今日はずいぶんゆっくり起きてきたけど……」

 咲子が居間の時計を見やる。時計の針は、すでに秋仁が家を出る時間を過ぎている。

「あ、あ、まずい! うっかりしてた! 電車に乗れなくなっちゃう! 遅くなる時は駅の掲示板に書くからね!」

 ばたばたと居間に戻り、上着と鞄を持って玄関に走る。十年以上社会人をやっているとは思えないほどの慌てっぷりだ。

「ちょっと、お弁当忘れてるわよ。もう、朝ごはん食べてないんだからこれ持って行って」

 咲子は風呂敷ふろしきの包みを秋仁に手渡す。

「中のお弁当箱におにぎりを何個か入れておいたから、電車に乗ってる時に食べて」

「ありがとう。助かるよ」

「はいはい。気をつけてね」

「うん、咲ちゃんも。行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 秋仁の背中を見送る。彼の背が消え、木造の古い扉がゆっくりと閉まっていく。

「さて、私もそろそろ準備しなきゃね」

 エプロンを外し、寝室にある化粧台の前に座って軽く化粧をする。

「今日の晩ごはん、何にしようかしら」

 そんなことを呟きながら髪をほどいてくしをかける。朝食はすでに済ませている。右手に腕時計をつけ、立ち上がって服のしわを伸ばすと、鏡台きょうだいの前で軽く回る。

「うん。今日も私は可愛いわね」

 なんて一人で言い、もう一回転する。スカートがふわりと大きく舞い上がった。咲子は最後の確認と言うように、鏡に顔を近づけてウインクをした。

 居間に戻った咲子は窓の施錠せじょうを確認し、ガスの元栓もとせんを閉めたかもしっかり確かめる。そして弁当や化粧ポーチなどが入った鞄を手に取って肩に引っ掛ける。

 電気を消して玄関を出ると、

「おはよう咲子ちゃん。今からお仕事?」

 ちょうど隣の部屋に回覧板を届けに来たらしい大家おおや老婆ろうばに声をかけられた。咲子はにこやかに挨拶を返し、家の扉を閉めながら答える。

「そうなんです、昨日は大根ありがとうございました。大家さんに教えてもらった通り、お味噌汁にしてみましたよ」

「あらそう。喜んでくれてよかったわぁ。また何か、野菜ができたらあげるわね」

「はい。いつもありがとうございます」

「いいえ。あら、咲子ちゃんは今日も綺麗で美人さんねぇ。あ、そうだ。これから商店街に行くの。何かいい物があったら、咲子ちゃんの分も買っておいてあげるわね」

「いつもすみません。代金は大家さんのポストに入れておきますので」

「いいのいいの! お金なんかいいわよ。若い二人が楽しそうに暮らしているのを見てるだけで、こっちは幸せなんだから。あんたたちにこっちは元気をもらってんのよ」

「でも、せめて代金は……」

「いいのよ! 私が勝手にやったことなんだから。気にしないで。お金はいらないから、秋仁君と喧嘩しないようにね」

「すみません……いつもありがとうございます。いただきます」

 咲子は礼を言い、軽く頭を下げる。このアパートに来てから、こうして大家には何かと気にかけてもらっている。ありがたいことだと咲子は思う。

「そういえば秋仁君、さっき、すごく慌てて出て行ったけど……」

「彼、うっかりしちゃって遅刻しそうなんです」

「あらそうなの。ま、そういう時もあるわよねえ。あっはっはっは」

 大家は口を開けて豪快ごうかいに笑った。

「あらやだ。お仕事でしょう? 引き止めてごめんね。私も回覧板持ってきたんだった」

 大家はようやく目的を思い出したようだ。大家は咲子の後ろを通り、303号室の右隣……『304』と書かれたが扉の前に立つ。

 このアパートは二階建てだが、不思議なことに部屋番号が201号室と301号室からになっている。その理由は一年ほど前、もう一棟あった賃貸物件を取り壊したからだ。その取り壊した物件には、101号室から104号室が入っていた。

 ちなみにこのアパートの一階部分の左端が201号室で、そこから右に二部屋が並び、一番右端が204号室となっている。二階へ続く外階段を上がってすぐの部屋は、咲子と秋仁が暮らす303号室。その左側には302号室と301号室があり、二階の右端は304号室となっている。

「じゃあね、咲子ちゃん。行ってらっしゃい」

「はい、行ってきます」

 咲子が言うと、大家は304号室の扉をノックした。

 咲子も部屋の鍵を閉め、錆の浮いた階段を降りながら腕時計を見やる。出勤時間までは余裕があるが、念を入れて少し急ごう。大通りは車と人で溢れかえって動けなくなってしまうかもしれない。職場に行く前に店に寄ろうかと思ったが、その時間はなさそうだ。

 咲子は顔を上げ、アパートをあとにした。

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