見えない僕 2

 僕は落ち着かないまま彼女に手を引かれて歩き始めた。

 先ほどのように、エスコートするような引かれ方ではなく、まるで恋人同士のように手を繋ぎ、少し前を彼女が歩いている。確かにこの方が目立たないのだろうが、情緒は全く落ち着かない。

 見ず知らずの女性と手を繋いでいること自体、おかしい。いや、知り合いなのか。でも名前を教えてくれたってことは、やはり初対面なのか。

 混乱で酷く手に汗をかいてしまうが、致し方ない。ひとりで出歩くことの危険性を理解した以上、せめてタクシーのいる場所までは連れて行ってもらわないと家に帰れないことは明白だった。この機会は逃せない。

 しかし先ほど逃げ出した元の通りに出る頃には、僕は彼女の手に引かれるままで買い物に行ってみようか、と考え始めていた。

 ぼやけてひとりでは怖い世界でも、彼女のお陰で何の不安もなく前に進める。公園で感じたように、彼女は手を引くのが上手なのだ。少しでも進路を変えるときは一声かけ、手の引っ張り方で僕を促す。何はともあれ安全に買い物が出来るかもしれない、それはとても助かる、と彼女への詮索を止めることにした。

 時折訪れる既視感を引き連れ、丁度欠けた視界に隠れる彼女の存在を何度も、確かめながら僕は足を前に出した。

 

 肉屋のコロッケの匂いがし、思い浮かんだ店先にもうすぐ大通りに出るな、と思ったときだった。

「まずドラッグストアですね。何を買うんですか?」

 彼女が歩調を止めずに尋ねた。僕は慌てて「えぇと」と答えた。

「2週間、家に籠もる予定なので、色々買う予定です」

 そう僕が話すと、彼女は「ふたりとも両手が塞がったら帰れなくなります」と戸惑ったような声を出した。僕は、またしても目がよく見える前提で行動していたことに気づいて、足が乱れた。彼女が合わせたように緩く足を止める。

「確かに……そうか、見えないもんな。真っ直ぐ歩けないのに無理か」

 ぶらり、彼女と繋いだ手が返事をしたように揺れた。よく考えれば、傍にいる人の顔も見えないのに、簡単に買い物ができるわけない。

「帰りはタクシーでもいいでしょうけど、大量の買い物のはしごは私たちには大変じゃないですか」

「はい……その通りです」

 僕たちは、大通りに出る路地の手前でまだ手を繋いで立ち止まっていた。漂う香ばしい油の匂い。電器屋だった灰色のシャッターの前。ピッコ、と遠くで大通りの歩行者信号の音がする。やけにエンジンをふかした車の音が遠ざかって行く。

 宙ぶらりんになった手の、触れ合わなくなった部分が汗で冷えた。

「それなら……三枝さん、眼鏡作るのはどうですか」

「え?」

「お医者さんからなんて言われてるんですか? コンタクトはダメって言われたんですか?」

 僕は、一瞬呆然として答えるのが遅れた。酷い違和感と戸惑いに「えぇと」と濁した。彼女はなぜ、それを。

「目を休めなさい、って言われて今裸眼ですか? もしそうなら、今の視力に合わせた眼鏡なら使ってもいいんじゃないですか。見えなくて事故に遭うよりいい、と思いますけど……」

 彼女に対する謎と違和感を差し引いても、確かにその通りだ、と思った。医師からは、コンタクトレンズは外すよう指示を受けていたが眼鏡については何も言われていない。と言うより、僕は眼鏡という手段が全く頭になかったので、目から鱗が落ちた気分だった。

 見えなくて事故に遭うより……。

 僕は彼女の言葉を短い間反芻し、肯いた。灰色のシャッターと違う灰色の道路と、絡まったような電線のぼやけた世界に光が差して、明るくなったような気がした。

「すみません、あやかさん。買い物の前に、眼鏡屋に付き合ってもらえますか」

 彼女は笑ったようだった。


 眼鏡選びは難航した。まず自分の顔を見るにも、鏡に顔をつけるくらい近付かなくてはいけない。マスクを外して今朝剃らなかった髭にひとり羞恥したのは余談だが、そうでなくても一つひとつ着ける度に鏡を見るのは、自分の顔が好きでないとやってられない作業だ、と思った。

 店員に好みを聞かれても何も答えられない僕は、いくつか試して早々に音を上げた。「見えないしよく分からない」と言って、選ぶのは彼女に任せることにした。どうせ、長く使う物にはならないだろう、と思いたかったのもある。彼女は渋ったものの、請け負ってくれた。

 僕たちは、赤や緑や茶色や黒の縁の物、縁のない物、様々な形の眼鏡を付け替える作業に没頭した。紫や青なんてのも、あった。

「これが似合うと思います」

 彼女が静かに結論を出したのは、試すのが3回目だな、と思った銀縁眼鏡だった。

「銀色ですか……」

 僕は何度目か、鏡にギリギリまで近付き自分を見た。別に変ではないと思うが、似合うとも思えなかった。僕は無意識に口をへの字にしてしまったかもしれない。

「あ、銀色ですか……いえ、色は別のがあればそれでも……」

 彼女の声が自信なさげに響いたとき、店員がすかさず色違いを持って来た。黒縁のようだった。自分としては、銀より黒の方が使いやすそうだ、と思いながら掛ける。

「あら、こちらもお似合いです」

 店員が空気を読まずに褒めた。「お好みでよろしいかと」と、微笑んでいるだろう顔の横に、彼女の表情の掴めない白い顔が浮かんでいる。黒縁をつけてから彼女から何の言葉もないと言うことは、イマイチなのか。

 連れてきてもらった恩もあるし、気を悪くさせたくない。

「やっぱり銀の方にします」

 僕は黒縁を外すと、彼女に笑いかけた。何の答えもなかったが、ふ、と細く息を吐く音がした。

 

 視力検査時に使ったあの黒い丸い眼鏡を掛けたとき、僕は三日ぶりのクリアな視界に感動した。そして検査が終わる頃には、あまり乗り気でなかった銀縁眼鏡の出来上がりが楽しみになった。店を出て再びぼんやりとした世界に戻った僕は、見えぬ憂鬱さを思い出すと同時、薄紫色の彼女の手を取った。

 出来上がりは明日の午前。僕たちはとりあえず店を出た。スマホの時間に目をこらせば昼を過ぎていた。

「どうします、帰りますか。それとも、やっぱり買い物しますか」

 彼女が僕を見上げたようだった。

 ……三万の内、二万は飛んでいったが、まだ金はある。

「あの、腹減りませんか。まだ時間が大丈夫だったら、昼飯おごります」

 彼女のシルエットは、時を止めたように動かなくなった。軽いお礼で誘ったつもりだったが、僕は今更緊張してしまい、ぐぅ、と喉を詰まらせた。彼女はたぶん、眉根を寄せた。

「私、食事はちょっと」

 僕は「すみません」とすぐに頭を下げた。彼女は厚意で僕を助けてくれたにも関わらず、失礼な言い方になってしまった、と思い当たったからだ。

「違うんですあやかさん、あの、本当に助かりました。ひとりじゃ眼鏡を買うなんて、気づきもしませんでした。それに、さっきも道路で危ない目に遭って、あの公園に逃げ込んだんです。だからもし、食事が嫌なら飲み物だけでも、何かお礼したくて、その」

 しどろもどろの言い訳に、僕が自嘲を滲ませていると、「そう、ですか」と彼女は納得を飲み込んだように答え、言葉を継いだ。

「それじゃあ提案なんですが、さっきの公園に戻って何か飲み物をおごってくれますか。そこのコンビニで、お茶でいいので。私さっき花を見てたんです、三枝さんも一緒にお花見、どうですか」

 僕が彼女と至近距離で顔を上げたとき、黒い睫毛に縁取られた目が、柔らかく細くなった。


 僕たちは、途中のコンビニで明日までの食料と、彼女の指定したお茶を買って公園に戻ってきた。

 赤や青のぼやけた遊具の向こう、敷地に沿って植えられた桜は見事のようだった。『花を見てた』とは桜のことか、と納得した僕は、彼女に引かれるまま同じベンチに戻って来た。再びくん、と引かれて座った方向に桜はなく、僕は首を傾げた。コンビニの袋が風にあおられてガザガザと煩い。

「あれ、桜を見に来たんじゃないんですか」

「……違います。足元、見えますか?」

 足元? と、僕は視線を下げた。赤と白、それから青紫っぽい花が色毎に整然と植えられていた。僕たちの目の前には丁度、青紫っぽい花壇があった。

「……チューリップですか?」

「そっちの花壇はチューリップもですけど……こっちはオオイヌノフグリとシラー、それからフリージアです」

 オオイヌノフグリって小さいその辺に咲く花じゃなかったか、フリージアって何色のだろう、と僕は目をこらして見ようとした。しかし色は分かっても、やはり花の形もよく分からず名前も詳しくない。僕は何ともコメントのしようがなく、ただ「満開ですね」と返した。

「そうなんです、ここの公園は毎年こんな風にきれいに咲くんです」

 彼女の声には喜色が感じられた。思いの外心のこもった反応に、僕は少し気まずくなる。誤魔化すように「あ、飲み物どうぞ」と音を立てて飲み物を探した。

 「ありがとうございます」彼女はお茶を受け取った。マスクを外してペットボトルに口をつける動作。その露わな横顔を数瞬見つめてしまったが、僕も慌ててそれに倣いお茶を飲んだ。凝視したことを失礼に思われていないか、とそっと隣を窺った。しかし彼女は穏やかに花を見つめており、僕の不躾な視線を気にする様子はなかった。

 そんなにきれいなのか、と足元の赤と白と紫の塊を眺める。眼鏡があれば、もう少し彼女と感動を分かち合えたのか。僕は話題が見つからず、黙ってお茶をちびちび飲んだ。

 僕のお茶が半分になった頃、彼女が静かに言った。散っていく花びらのように小さな声。風が凪いでいなかったら聞き逃していた。

「……明日の眼鏡屋、家からタクシーで行きますか。それとも私、また付き合いましょうか」

「え?」

 僕は彼女の提案に酷く戸惑い、ただ聞き返した。マスクのない肌色の顔がこちらを向いた。ピンクに色づいた薄い唇が上下する。

「私、仕事が在宅なんですが、今週は余裕があるんです」

 余裕があるって……それにしたって明日も?

「……でも、いや、あやかさんに悪いです。今日もその、かなりお世話になったのに」

 見ず知らずの、とははっきり言えずに僕は口ごもった。そこまで親切にされる理由も分からない。

「いえ、こういうことがないと、私もあまり出歩かないので今日は楽しかったです。三枝さん、やっぱり悪い人じゃなかったので、お役に立てて良かったです」

 『やっぱり』ってことは知り合いか。でも悪い人じゃなかったって言うのは、一体。

 僕は彼女との関わりが全く分からなくなり、知らず表情を険しくしたらしい。今度こそ春風に消えてなくなりそうな声が耳に届いた。

「……ぁ、お節介、過ぎましたか」

 僕は咄嗟に「あ、いや!」と否定していた。『お節介』すぎると言うよりも、彼女の親切の理由を知りたかった。正直、マスクと視力低下で顔が見えない相手と、腹の底を探るような会話を続けたくはない。見えなくて苛立たしいのは僕の目だけで充分だった。

 でもこの瞬間僕は、はっきりと、この女性に明日も会ってもいいと思った。

 視界の中で、ゆっくりと俯いたような彼女に僕は覚悟を決めた。

「お節介だなんて、思ってません。親切にしていただいて……でもあの、正直に言いますが、あやかさんと以前どこで会ったのか、全然思い出せなくて、すみません失礼なことを。えぇと、僕たち知り合い同士、なんですよね」

 必死に言葉を選ぶ間に顔を上げた彼女の、黒い睫毛がぼんやりとしばたたいた。

「えぇと、知り合い……と言う訳でもありません。三枝さん、病院でぶつかった白髪の『おばあちゃん』覚えていますか、少し口の悪い。私、一緒にいたんです」

 「……あ」と、僕はしばし遅れて口を開けた。思い出した。たくさんぶつかった人たちの中の、真っ白い髪を引っ詰めて杖につかまった老女。ほとんど一瞬の視界。しかもぼやけていたが、僕は確かに、その人を支えて歩く髪を一つに束ねた青いワンピースの女性を見た。

 ザザァ、と桜の濃い匂いが僕の背中を押した。耳元を掠める風に紛れて、「ふふ」と彼女の笑い声。

 手前の薄紫の花も、揺れた。

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