分からない彼女

 翌日僕は、彼女と待ち合わせした公園に向かっていた。調べてみれば、自分の部屋から五分の距離。細い路地を通り、誰と会うこともなくナビに連れられて行く。

 薄曇りでますます霞んだ視界の中、赤と青の塊が大きく浮かんできて、僕が公園に到着したことを教えた。

「おはようございます、三枝さん」

「おはようございます、今日もよろしくお願いします、あやかさん」

 すでに到着していた彼女は、今日もワンピースのようだった。柔らかいピンク色に白い羽織り物。「さぁ行きましょう」と彼女が手を出した。僕は「はい、お願いします」と言ってその手を取った。


 結局、彼女とは顔見知りでも何でもなかったが、白髪の『おばあちゃん』のことはすっかり思い出した。

 あのとき、僕は真っ直ぐ前を見て歩いているつもりでも──今思えば右側が見えていなかったからなのだが──何度も人に接触した。杖を突いて歩く老女を追い越すときにも、僕は肘を当ててしまった。その老女は、「あー骨が折れたかと思った」とわざとらしい口調でこちらを見上げた。「おばあちゃん」と窘めるような声に、僕は隣の女性にも改めて「すみませんでした」と、謝ったと思う。

「あんた、さっきからフラフラして年寄りより危ないったらないよ。若いのに目が悪いのかい? 青い線の先に眼科があるから、早く見てもらいなよ」

「青い線……?」

 僕は床に何色ものラインが引いてあることにそのとき気づいた。

「おばあちゃん、失礼よ」

「あたしは先にレントゲンだから……なんだっけ」

「黒の線よ、おばあちゃん」

「そうそう、黒ね。どっちから来たんだっけ」

 老女は急に、僕に興味を失ったようにして背を向けた。しばらくその2人の背を見送った僕は、老女の助言通り青いラインを目印に前に進んだ。奇妙だったのは黒のラインなんてないことだったが、僕は無事に眼科に辿り着いたのでそのことはどうでもいいことだ。

 聞けば彼女とその祖母も、その後に眼科にかかったそうだ。僕が診察室からフラフラ出てくるのも、彼女は見ていたらしい。「ネクタイの柄が目立ってたので、三枝さんのこと、覚えてました」と話した彼女は、「祖母がとても失礼なことを言って、すみませんでした。私、家に帰ってから祖母を怒ったんです」と、恐縮した。別に彼女の祖母に対してどうこう思ってはいなかったが、僕はそれで全て合点がいって、今日はすっきりと彼女の好意に甘えることにしたのだった。


「すごい……見える……」

 僕は店員に渡された眼鏡を掛けてみて、呆然と周りを見渡した。明るい。物の形や色がくっきりと立体的に見えて別世界に居るようだ。

 蛍光灯が白く店内を隅々まで照らし、テーブルに陳列された眼鏡のフレームが色とりどりに光を放っていた。ガラス越しのうす水色の空が透き通っていた。店内の鏡に反射して映り込んだ逆さまの世界さえ、細部まではっきりと見える。こんなに全てが見えていいのだろうか、と思うくらいだ。

 店員が、違和感があったりや度がキツかったりしないか、と尋ねたが、僕はとにかく見えることに感動して「大丈夫です」と答えた。このまま外へ飛び出して、誰ともぶつからないで歩いてやりたいと思った。この3日の鬱屈を投げ散らかすために、走り回って叫び出したい衝動に駆られた。

 すぐ会計を済ませ、眩しさに目を細めながら外に出た。彼女は店の前の街路樹の下で、スマホを覗き込んでいるようだ。結わえていない髪がサラ、と風になびいたとき、彼女は僕に気づき顔を上げた。僕は微笑もうとして思わずギク、と動きを止めた。

 彼女は痩せていた。

 ピンクのシャツワンピはサイズが間違っている、と思うほど裾から覗く脚が病的に細い。上に羽織っている白いだぼっとした厚手のカーディガンも、肩からずり落ちそうだ。マスクに覆われた顔も小さく、長い髪が揺れる度に見え隠れする首の白さ細さにドキリとする。マスクと前髪の間で露わになっている両目は、思っていた通り、睫毛に縁取られて整った形をしていたが。

 彼女はきれいで、しかしあまりに痩せていた。


 目が合っても近付かない僕を不審に思ったのか、彼女は「三枝さん?」とスマホを手に寄ってきた。僕は化粧っ気のない彼女の目が、黒々と震えて瞬いたのをはっきりと見た。彼女は微笑んでいた。

「似合います、それ」

 微笑みを返さなければ。

「あ、ありがとうございます。……すごくよく見えて、驚きました」

「良かったですね、これでもう人にぶつからずに済みますね」

 「はい」と言ったものの、次の言葉が出て来なかった。

 もしかして彼女も病気なんだろうか、出歩いて大丈夫なんだろうか、僕はこんな痩せて折れそうな女性の手に縋って歩き回っていたのか、と目に映る事実に目眩を起こしそうだった。今更ながら、彼女の指は確かに細すぎた、と気づく。

 僕は無意識に目を手で覆い隠そうとしたが、カチャ、と聞き慣れない音が立ち、眼鏡を掛けていたことを思い出しす。冷たい金属の感触にヒヤリとした。

「三枝さん、目が痛いんですか。まだ慣れないからかな」

 覗き込むような彼女の距離の近さに、僕は身を引いて「いや、大丈夫です」と答えた。「そうですか」と返す彼女の眉が徐々に下がり、黒目が悲しげに揺れた。

「すみません、そうですね、もう三枝さんよく見えるんですもんね。もう、一緒に居ても余計なお世話ですね」

 そうだ、もう見える……見えてしまった。

「いえ、余計なお世話だなんて思ってません。むしろ、あの、あやかさんにご迷惑をかけて申し訳なかった、と思って……」

「どうして迷惑なんて?……あぁもしかして私が痩せてるからですか」

「え、いや……あの」

 彼女は「やっぱり」とからかうように笑って、「よく言われます、痩せすぎだって」と目を細めた。僕はその瞬間自分の無礼を恥じて彼女に頭を下げたくなった。実際体を曲げようとした。しかし、彼女は嘘のように明るく僕に話しかける。

「いいんです、そんなこと。それより、この後どうしますか。昨日の買い物の続きをしますか?」

「……あの、お礼にどこかお好きなところへ付き合います。目が見えれば、それなりに役に立ちます。荷物係にでもして下さい」

 これは昨日から考えていたことだった。内心、食事を選択肢から外していて良かった、と胸を撫で下ろす。彼女は可笑しそうに眉を下げて、「そうですね」と手元のスマホを見下ろした。

 こうして目が見えると、彼女はとても表情豊かだ。マスクで目と眉しか見えないのに、手に取るように気持ちが分かる。大通りの向こうの小さな雑貨屋の灯りの数まで見えるようになった僕には、少し豊かすぎるほど。さっきまで全てがぼやけて、見たくて仕方なかった世界だったのに、はっきり見えなくても良かった、と思うことがあるなんて思ってもみなかった。

 明らかにマスクも大きすぎる彼女が、おずおずと僕にスマホをかざした。

「私、ここに行きたいんです」

「え、ここって……県外じゃ」

「そうです……隣ですけど、ダメですか」

 青い空に、一面に広がる花。青い花。フォトジェニックな景色、と何年か前から話題になっている。そうか、今がその時期なのか、と僕は彼女のスマホをまじまじと見た。隣県の広大な公園に植えられている、と聞いたことがあった。もちろん彼女の頼みならすぐにでも首肯したいが、今は……。

「ダメじゃないですが……コロナ、心配じゃないですか」

「もちろん、三枝さんがご心配なら諦めます……でも……私はご覧の通り、食欲があまりない人間なんです。出先ではマスクを絶対に取りませんし、食事もしません。それを三枝さんに強要はできませんけど……」

 「やっぱりダメでしょうか」と静かに尋ねる彼女の目は、『行きたい』と言っていた。そういえば、公園の花も桜じゃなく寒色系の花壇を好んでいた。……結構な遠出だ。片道でも三時間はかかるかもしれない。隣のコロナの状況はどうだったか。僕がそう思考に沈むのを拒否と彼女は受け取ったようだ。

「やっぱりダメですよね。それなら昨日と同じ」

「さすがに水分は摂りましょう、あやかさん……ドラッグストアで除菌シートとか買いませんか。それから僕は腹が減ると思うので、何か食べ物も」

 言葉をかぶせた僕の影を、彼女の見開いた瞳が映す。絡む視線に照れ、僕は目を伏せた。細く白い指がスマホをキツく握っていた。右側の欠ける際で爪の中が白く変わるのをつぶさに見た。そのせいか、目がちくちく、と痛んだ。

 彼女には恩を返さなければ。彼女が痩せていようと何だろうと、僕の手を引いて助けてくれた彼女に何かしなければ、と半ば意地だった。

 たっぷり間を置いて、彼女は言った。

「……嬉しいです」

 僕は初めて、彼女の笑顔を見た。



 その花は『ネモフィラ』と言うらしい。「空が晴れていればいい」と何度も呟く彼女の横顔は、眼鏡屋の外で見たよりも顔色が良く、自分の選択が正しいことを証明していた。

 鈍行でそこに向かうことに決めたのは、急行は人が多そうだ、と意見が一致したからだ。予想通り平日だからか乗客は少なく、僕たちは対面の座席に陣取ることが出来た。

 しかし僕は、変わり映えのない景色を彼女ほど熱心に見ていられなかった。そして片道二時間──往復で半日の行程、しかも知り合ったばかりの女性とふたりっきりで──は会話も弾まない。間が持たない。僕は女性を楽しませるほどおしゃべりではなく、彼女もまた、そういうタイプではなかった。

 考えてみれば不思議な縁だ、と僕は彼女の背中にかかる黒髪とピンクの境目をぼんやり眺めた。

 仲のいい男女でもないのに一緒に出掛けるなんて……

 そのとき、くらり、とした。同時に目が突然疲れたように重くなった。僕は眼鏡を外し、とりあえずツボを指圧した。飽きずに外を眺めていた彼女が、それに気づいたか僕を振り返ったようだ。

「目、大丈夫ですか」

「はい、少し疲れたみたいです。まだ慣れないので、ここの鼻のとこも気になります、痒くって」

 彼女の心配そうな声色に、僕は少し冗談めかした。するとふぅ、と安堵の息か、彼女の雰囲気が緩んで、「しばらく外しておいたらどうですか。まだまだ先ですもんね」と、背を向けた。町と田舎の緑を交互に映す窓は、今は薄ぼんやりした緑で覆われている。彼女が熱心に見ているので、暇も手伝って声を掛けた。

「何か面白い物がありました?」

「いいえ、全然……。でも、あの一面の青が見られるなら、つまんない景色も見ていられます」

「確かに」と、僕は彼女の黒い頭を見つめた。

「よっぽど青が好きなんですね。この前の花壇も、服も青でしたね」

 黒が、わずか肌色と割合を変えた。彼女は振り返ったらしい。

「……気づきましたか?」

 静かな声。僕は首を傾げた。「何にです?」よく分からない。

「いえ……いいんです。変ですか、青が好きなのは」

「そんなことは」

 彼女は気分を害したらしい、と僕は慌てた。ただ実は少し意外に思っていた。三度会って三度とも女性らしいワンピースを身に着けた彼女が、黄色や赤の花や満開の桜ではない、青い花に興味を寄せていることを。今日はピンクのワンピースなので、ピンクが好きそうだ、と安易に思っていたこともある。僕はそう考えたために、無意識に彼女の服に視線を遣ってしまった。

「……あぁ今日私、ピンク、でしたね……」

 その声が彼女らしくない、とても投げやりな発音だったため、僕はハッとした。知らず背筋を伸ばす。

「私にとって、青と黄色以外は、何色でもありません」

 青と黄色?

 彼女はそう言ったきり、窓に顔をくっつけるようにして全くこちらを見なくなってしまった。

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