どこまでも、あお ─見えない僕と分からない彼女─

micco

見えない僕

 僕はここが廊下の真ん中と分かっていても、どうすることもできないでいた。

 ただ白い床のセンターに引かれた青のラインから、一度も目を離さずに歩くしかなかった。

「あんた、さっきからフラフラして年寄りより危ないったらないよ。青い線の先が眼科だよ、早く診てもらいな」

 さっき、頭からぶつかった老女に注意されてから、僕は必死でそれを辿り続けている。


 県立病院の待合席は混雑しているようだった。ぼんやりとした視界の中、黒い頭がピンクの背もたれからはみ出て並んでいる。そして皆、どこか不健康で生ぬるい空気に黙り、断続的な看護師の声に立ち上がったり座ったりして、忙しそうな気配だ。

 ふつり、僕の足元の青のラインが途切れた。そこで僕はようやく顔を上げ、今度は眼科の受付らしき場所に当たりをつけた。前方から人が来ないか目を細めながら、人の腰かける椅子の間を慎重に進む。事務員らしき人影が見え始めたが、気を抜けない、と真っ直ぐ前を睨んだ。

 あと三歩……あぁ良かった眼科だ。

 正しく『眼科』と書かれた受付台に辿り着き、総合受付でもらったファイルを事務員に渡すと、やりきった安堵で息が漏れた。

「初診ですね。こちらにご記入下さい」

 僕は「はい」と答え、先ほど達成感を覚えた自分を呪いたくなった。

 手渡された問診票は、立ったままその場で書いた。顔の前で紙を上げ下げしながら記入する。

  Ⅰ、どんな症状ですか。

     よく見えない。

 真っ直ぐ歩けない、エレベーターのボタンの位置を何度も押し損ねる。エレベーター内の視界が悪く酔いそうになる、人の波に乗れない、とにかく人にぶつかる。

  Ⅱ、それはいつからですか。

     昨日の夕方。

 初めは、メールの文字が点滅するような違和感だった。

 かすみ目か、と無駄に染みるタイプの目薬を差した。しかし数時間後には、PC画面だけでなく周囲の景色も、手元のスマホ画面でさえ見えづらくなった。コンタクトレンズがとれたのか、と職場の洗面所で確認したが、青く透明で確かな膜は確かに白目に浮いていて、僕は首を傾げつつ何度も鏡の前で目薬を差した。

 いくら目がかすんでも仕事は人間を待つことはないので「眼精疲労に効くぞ」と、同僚が勧めたツボマッサージを試みながら、普段通り残業に及んだ。皆が「お先」と帰って行く。キーボードや画面の見えづらさに苛立ちながらも、何とかその日の仕事を終えた。

 「一体なんなんだ」と、自分の目に悪態を吐きながら、僕は目をつむっても歩けるほどに慣れた、いつもの廊下に出たはずだった。しかし会社のロビーまでの数十メートルの間で、「僕の目はおかしい」と、遂に自覚せざるを得なくなった。タクシーに乗る頃には、手の中のハンカチは不潔に湿って臭った。

 帰宅したとき、僕は視界の悪さに吐き気すらもよおしていた。

 シャワーも浴びず、布団に潜り込む。寝れば治る、明日はパン屋に立ち寄って美味いサンドウィッチを買って出社しよう、と明るい想像を頭に描きながら目眩に歯を食いしばった。必死に目をつむり、目蓋の裏で星を睨んだ。なぜかもう春だ、と言うのに、足先が冷たかった。布団の中、足が浮くような冷えが不快でなかなか寝つけなかった。

 懸命に書いた問診票は、出来上がってみれば字が普段の十倍は下手くそで、僕は今すぐ家に帰りたくなった。心底、自分に嫌気が差していた。


「三枝、わたるさん……ウーン、特発性視神経炎、でしょうね」

 聞いたこともない病名と、歯切れの悪い言い方。僕は眉間にシワを寄せた。多すぎる検査や、瞳孔の開く目薬の所為で、僕の視界はますます本調子ではない。

「原因は不明、まぁストレスと言う学者もいますが、何とも言えません。食生活に問題がありそうではありますけどね。三枝さんの場合は、右目の視力が……元々〇,六から〇,二に下がって、左目も若干下がって〇,四です。右の下側の視界が欠けて見えている……眼球を下に動かすとわずかに痛みがある。ウーン、まぁ……頭部外傷や、他の要因が今のところないようなので、やはり『特発性』であると考えられます」

 医師はとにかく歯切れが悪い。

「その、じゃぁ特発性でない視神経炎……も、あるってことですか」

 医師の背後から昼過ぎの眩しい陽光がブラインド越しに差し込み、僕の視界を改めて真っ白にした。医師の表情が分からない。眩しさにきつく目を眇めた。

「……特発性視神経炎はここの、神経が炎症を起こしている症状なんですが」

 医師はすぐに答えず、目の前のスクリーンに大きな目の解剖図を映し、手で眼球の奥の帯のような部分を指で示した。

「三枝さんのここも、腫脹が見られます。原因不明の視神経炎は、ほとんどの場合、経過観察か薬剤の投与で自然回復の可能性が高いんです。もし、全身を調べて他に原因があるなら、失明の恐れもある症状に移行していくこともあります」

 失明? 

 僕は息を止めた。同時に、診察が早く終われば仕事に行こう、ときっちりネクタイで詰めた襟元が汗でじわり、と湿った。

「でもまぁ今のところは……やはり、いわゆる『特発性』でしょうね。基本的に経過観察していきますが、ビタミン剤の投与を希望しますか? 経過を診て回復しない場合は、ステロイド治療を提案することもあります」「経過観察中に視力が回復される方も多いんですよ。もし、視力低下が両目に及んだり、手足の痺れが起こったりしたらすぐ連絡を」「誰か連れてくれるご家族とは同居してますか」「血液検査に異常があれば、すぐこちらから連絡します。とりあえずは一週間後に予約を取りますから来て下さい」

 医師の話は淀みなく、僕は自分だけが取り残されているような気分のまま、ただ肯いたり首を振ったりする人形になった心地で話を聞き続けた。とりあえず経過観察になった、と言うことが分かった。視力が回復するか分からないことも。

 僕は、医師の「ではお大事に」にさえぎこちなく肯くと、反射的に立ち上がった。医師は大体、そのお決まりの台詞の後は、患者を見もしなくなると知っていたからだ。だから僕はそのまま、何の疑問も持たず、べージュのスライド式のドアを開けようとした。しかし、ドアノブに手を掛けた瞬間、のろまな脳みそがようやく僕の足を止めた。僕は尋ねるべきことを思い出し、慌てて振り返り、部屋の眩しさから咄嗟に目を細めた。ちくり、と右目が痛む。

「あの……医師せんせい、仕事はどうしたら」


 僕はバスとタクシーを乗り継いで部屋に帰って来た。もうヘトヘトだ、と目を手で覆い、「あー」と声が出るまま玄関ドアにもたれた。

 しばらくそうして、のろり、と部屋に上がり、手を念入りに洗いマスクをゴミ箱に投げ入れると、電気も点けずカーテンも開けずにベッドへ転がった。ろくに干していない羽毛毛布の、何とも情けない感触に顔を埋める。今日1日で一生外に出たくなくなるほど、くたびれていた。

「特発性視神経炎……右目の下側が見えない……」

 検査を受け、医師から話を聞くまで、その自覚はなかった。僕は仕事用のシャツの窮屈さに苛立ちながら、仰向けになり左目を瞑ってみた。

 自分の右手をかざしてゆっくり下げてみる。カーテンの隙間からわずかに漏れる光で、白い天井は灰色にぼやけて染まり、自分の手の形を黒く浮き上がらせた。すると、明らかにおかしなところで、切れたように見えなくなる自分の手。試しに左目でもやってみたが、こちらに違和感はない。

「なんでこんなことに……」

 僕は、会計を待つ間やバスで『特発性視神経炎 治療』『特発性視神経炎 失明』を、吐き気を堪えながら必死に検索した。

 いつもの姿勢――端末を見下ろすような視線――を続けると、今度は目眩。そうまでして調べても、目新しい情報はほとんどなかった。医師の言う通り、経過観察で良くなる人もいれば、この症状がきっかけで全身を調べることで大きな病気が見つかり、入院する人もいるらしい。

 PCで検索するか。

 起き上がりかけたが、ベッドの足元に置いてあるはずのPCケースやバッグがよく見えず、すぐに嫌気が差した。検査のためにコンタクトは外したので、裸眼のままだ。どこもかしこもぼやけているが、もう目をこらすことに疲れていた。医師からは『勧めない』と言われたコンタクトを、改めてつける気にもならない。

「あー……めんどくせぇ」

 部屋はいつの間にか夕方が迫ったのか、埃っぽく重苦しい暗さに沈んでいた。目を開けていたくなくなり、両手で顔を覆った。

 職場に長期休暇の連絡をしなければならない、でもスマホの画面を見たくない。

 僕はそのまま重力でベッドに押さえつけられたようになって、いつまでも起き上がれなかった。


『どうせ年に3日も使わないんだ、こういうときに有給消化しとけって』

「すみません、ありがとうございます」

 端末越しの課長の声はどことなく軽薄で、罪悪感を募らせる。

『てか、案件の担当替えはこっちでしとくわ。共有ファイルに全部データ入ってんだよな?』

『満足にPC画面を見つめることも出来ないんじゃ在宅も出来ないし、仕方ないよなぁ』

「すみません、よろしくお願いします」

 一つひとつ、僕は電話越しに頭を下げた。

『ま、経過観察ならそのうち良くなるんだろ? 休みだからって、あんま羽目外してコロナうつされんなよな』

「はい、気をつけま」

 通話は返事の途中で切れた。ツー、ツー、と鳴るスマホに目を近づけてタップする。

 分かりやすい嫌みに苛立ちはなかった。僕だって同僚が同じ理由で二週間も有給とったなら、内心ではあれ以上の悪態を吐くだろうと、嘆息が漏れた。

 ようやく企画を任されるようになってやりがいを感じ始めていた矢先の長期有給。どう思われるだろうか、いやそんなことは分かってる、迷惑なだけだ。自分のタスクが増えて残業が増えるのは迷惑、ただそれだけだろう。誰からも心配の連絡が来ないのは、そういうことだ。僕がいなくても仕事は回る。

 昨日はいつの間にか寝入ってしまい、今朝方までぐっすり熟睡できたからか、意外に頭はすっきりしていた。いつも通りに目を覚ましたことも、ゆっくり朝食を摂ったことも気持ちを落ち着かせたようだった。

 何をしようか、と、ぼやけた部屋を見回す。

 部屋は酷く埃っぽく、コンビニの袋が床に散らばっている。流しにはグラスが溜まり、空き缶もシンクに置きっぱなしだ。それは今の僕にとっては、輪郭がはっきりしない茶色だったり白だったり銀色に見えている。

 目が見えないんじゃどこにも行けるわけない……。仕方ない、来週の診察までの食料を買い込んで、とりあえず掃除か……。

 僕は籠城環境を整備することに決め、気の抜けた格好――ジーンズとただの黒Tシャツにブルゾン――に着替えると、ボディバッグを背負った。財布には三万入れた。必要そうな物は全部買い込むつもりだ。用事は近くで済ませば、道が分かっていれば見えなくても大丈夫だろう、とコンタクトは着けず、半ば自棄っぱちで部屋を出た。何なら普段は行き帰りするだけの道を楽しんでやったっていい。


 それは大きな間違いだった。散々なことになってしまった。

 何も考えず道路の右側を歩いていると側溝に足を踏み外し、路駐のチャリとの距離を測りきれずぶつかり、チャリはドミノ倒しし、直し終え道路を渡ろうとして轢かれかけた。

「もう、勘弁してくれよ……」

 僕は、目についた縦に暗い場所へ逃げ込んだ。よく知らない路地裏だった。車や路上の物が見えないだけで、あんなに危険だとは思ってもみなかった。昨日も一昨日もタクシーを使ったのは、大正解だったのだ。

 情けない気持ちがどうしようもなく湧き上がり、僕はひとり歯を食いしばった。数瞬後には苛立ちも沸き、なんでコンタクトを着けて来なかったのか、と自分を殴りたくなった。目をくり抜いて踏みつけてやりたくなった。なんで見えないんだ、と。

 『案件の担当替えはこっちでしとくわ』上司の声が今さらわんわんと響いた。苦労して立ち上げた初めての企画だった。覚えの悪い上司と三年、やっと評価を得たと思っていた。必死だった。目が見えないからってなんだ、少し休んだらきっと良くなる、有給なんか撤回して出勤しよう――頭の片隅に描いていた希望が全部塗り潰された。案件を投げ出した奴に戻る場所なんてあるのか。

 昨日やりかけて落としたPCの最後の映像が目蓋によみがえる。それすらぼやけて思い出されて、僕は手近なコンクリの塀を叩いた。何度も叩く。ざり、とした凹凸に、手の皮がむける感覚があってもそれを何度も繰り返す。手と心は完全に別々で、痛めつけたい部分が噛み合わない心地に、僕は唸った。

 視界はただ暗く、ヒリつく右手と遠くにぼやけた長方形の光が見える他は、何も分からなかった。


 僕はしばらく路地裏で気持ちを静め、ふらつきながらその先の小さな公園に入り込んだ。公園と分かったのは、開けた入り口からよくある赤い滑り台が見えたからだ。ほとんど猫背で俯きじゃりじゃり、と砂っぽい地面を擦るように歩いた。陽射しのある場所は暖かく、不意に息苦しさを感じてマスクをずらした。湿った口周りが一気に乾いて、僕は深く呼吸をした。

 もっとどこか、休む場所……。

 ザァ、と風が吹き、桜の濃い匂いを感じて顔を上げると、おぼろげながら視界いっぱいの薄桃が目に映った。それで、あぁここには桜が植えてあるんだな、と思った。人もまばらにいるようで、ゆらゆら歩き回る影がいくつもあるようだ。マスクをし直す。

 僕は動く影のない方の青いペンキの山──恐らくジャングルジム──まで、疲れを堪えて進んだ。あそこなら少し休んでいても見咎められはしないだろう、と、思ったからだ。今すぐ何かにもたれて休みたかった。手を伸ばして歩きながら、僕は想像している金属の感触に、指先が届くのを待った。

「危ないです」

 伸ばしていた右手が突然ぎゅ、と誰かに絡め取られた。女性の声だ。同時、僕の胸を小さな手が押し返した。

「止まって」

 なんだ、誰だ? 驚きに鼓動が跳ねる。ドッと汗が噴き出すのを感じながら、慌てて首を振りその女性を探した。居た。丁度、右目側に黒い頭と顔の輪郭が見え、僕は顔をずらして目をこらす。

「足元に、タイヤの遊具がありますよ。このままだと、つまずきます」

「あ……すみません!」

 助けられた、と分かり咄嗟に謝った。すぐ足元に視線を遣れば、確かに、女性の白いスカートのすぐ奥に黒いタイヤらしき物体が見える。タイヤを半分埋めて跳び箱のようにした遊具だろう。

 と、胸に触れていた手が離れた。絡められた指が解けて自然に手を握り直され、「こっちへ」と、そっと引かれた。

 それは、不思議な感覚だった。

 手を引く女性が右側、しかも見えない位置に居るせいか。風に手を引かれているような錯覚。強くも弱くも、早くも遅くもなく、手を引かれて自然に足が前へ進む。景色は相変わらずおぼろげだったが、僕は進むにつれ強く安堵していった。

「もうすぐで、止まります」

 速さが緩んだ。絶妙な歩数で、僕の手を引く女性は立ち止まり「ここにベンチがあります。掛けますか」と、僕に尋ねた。ベンチ、と半ばぼんやりしていた思考が動いて、ゆっくり顔を下げた。くん、と手が下から引かれ、その女性がもうベンチに腰掛けていることが分かった。

「あ、ありがとうございます……」

 僕はとりあえず礼を言い、さりげなく手が離れたタイミングで女性の左側に座った。そしてすぐ、そちらに体を向けて「危ないところをありがとうございました」と頭を下げた。

「……いえ。大したことではないので、気にしないで下さい。それより……これから誰かと待ち合わせですか」

 僕はその物言いに一瞬、知り合いか、と焦り顔をよく見ようとした。しかし黒くて長い髪が横顔を隠しており、誰か確信のない人──しかも女性の顔──を覗き込むことは出来なかった。僕は「いえ、違います。その……ちょっと買い物に出てきたんですが」と濁すように返した。

「……買い物? ひとりで?」

「えぇ、はい」

 怪訝な声に再び返すと、不自然な沈黙が応えた。

 本当に知り合いなのか?

 僕は、初対面同士で感じるような遠慮や距離感が、この女性との会話からは全く感じられないことに戸惑っていた。

 ザザァ、と強く風が吹いて、女性の髪を巻き上げるのを見た。するとサ、と白い手が髪を押さえ、手早く髪を結んだのが分かった。そこで僕は初めて相手に既視感を抱いた。

 やっぱり知り合いか?

 と、僕が眉間に力を入れてその横顔を凝視したとき、「私、今時間あるので、付き合います。三枝さんはどこに買い物ですか?」と不意に顔がこちらを向いた。

 ぼやけた顔に、やはり見覚えはない。

 僕は見える世界と記憶がリンクしない感覚にぼんやりとしていたのだろう、気づけば彼女と買い物に行く流れになっていた。

 白いワンピースに薄紫の羽織物、黒く長い髪、細身で肌の白い女性。声は高いが柔らかい。顔の詳しい造形はマスクで隠されて分からない。

 その女性は行き先を確認し、最後に「あぁそうだ」と思い出したように言った。

「私の名前はあやか、です」

『あやか』という名前に全く覚えもなかった。

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