4-3
鉄扉を開くと、飛沫のようなものが顔に当たった。潮の香りがするので、たぶん風に飛ばされてきた海水だ。
風が吹き付ける。きのう、この船に降り立った時よりもさらに強くなっている。波は、まだそれほどでもない。船が揺れてはいるものの、揺れ方自体はゆっくりと左右に振られるもので、歩けなくなるほどではない。
柵にもたれて、海を眺める。
群青色の海がどこまでも広がっている。その海を覆う空は、水平線に近づくにつれてねずみ色が濃くなっている。嵐は、そのさらに向こうにあるのかもしれない。
時間の猶予はまだ二十四時間以上あるが、天候を考慮するともういくらもないだろう。浄化部隊を呼ぶにしても彼らが飛んでこられないし、わたしが任務を切り上げて飛び立つことも難しくなる。それより前に先輩が答えを求めてくることだってあり得る。彼女はたぶん、この嵐に乗じて何らかの行動を起こすつもりだ。
――今のままなら君は大人しく任務を遂行した方がいい。
クラウスはそう言った。声のせいだろう、ルカ先輩に言われたような感覚がある。いつか、同じことを言われたのではないかという錯覚さえしてしまう。
「今のままなら――」
わたしの呟きは、すぐに海風に運ばれてどこかへ消えた。
代わりに、というか、わたしの声に応えるようなタイミングで、甲高い音が聞こえた。〈音〉というほど無機質なものではない。もっと有機的なもの。
声。
わたしは波打つ海面に目を走らせた。声の主を探した。その声は誰が発したものなのか、反射的にわかった。
いた。波間に背びれが見えた。海に溶け込むような群青色だが、海洋哺乳類特有の、テラテラとした輝きを帯びている。
海面からのぞく背びれは、波間を縫うようにして近づいてくる。流されてくるのではなく、意思を持って接近してくるようだ。わたしは考えるより先にそれを追いかける。海面近くへ伸びるタラップも、躊躇なく降りる。呼ばれている気がした。
背びれが水の中に消えた。程なくして、イルカの顔が現れた。突き出た嘴の中に、細かな歯が並んでいる。上下に開いたその隙間から、キュイと甲高い声が聞こえてくる。
頭頂部に空いた穴の近くには裂傷のような痕がある。船底の、空のシリンダーが思い出される。あのガラスにヒビが入るほど打ち付けられたとすれば、傷も残るだろう。同時に、その時に抱いていた怒りはどこへ行ったのかとも思う。イルカは、怒りとは対照的にすら見えるほど、穏やかな眼をしている。
口を小さく開け、真っ黒な瞳を向けてくるところは、実家の柴犬を思い出させる。こちらを見上げてくる笑っているような表情がそっくりだ。
試しに、手を出してみる。噛みつかれるのではという恐れは、不思議とない。
イルカが嘴を振る。自分から船に近づいてきたのだから、嫌がっているのではないだろう。わたしはさらに手を伸ばした。
不意にイルカが飛び出した。嘴の先が、掌に当たる。
その瞬間、目の前で何かが弾けた。
音がしたわけでも、焦げたにおいが残ったわけでもない。掌を確認しても、かすり傷ひとつ付いてはいない。
だが、わたしの網膜には、閃光のようなものが焼き付いていた。
少なくとも、その感覚があった。
ケタケタケタ、と笑うような声がした。
こちらが掌から目を離すより先に、イルカは身を翻し、海へ潜ってしまった。
『ナギ!』
危うく追いかけそうになったところを、クラウスに呼び止められた。
イルカの小さな背びれは、間もなく波の間へと消えていった。
わたしは今一度、自分の掌を見る。微かに濡れている。イルカが残していった、数少ない存在の証。わたしはそれを、そっと指で包み込んだ。
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