3-2
「そんな昔のこと、まだ覚えてたんだ」ルカ先輩が囁くように言った。声は耳元で、というより、耳の内側で聞こえる。
「わたしにとっては初めてでしたから」今さら恥も感じない。繋がれば、見られるのはわかっていた。
「あの時みたいな声は、もう出してくれないのかな?」
「あんまりおちょくると切りますよ?」あの〈初めて〉以来、ルカ先輩のおもちゃにされるのが悔しくて、わたしは必死で発火体の形成を練習した。おかげで、クラスで最初に肉体と同じ姿を取れるようになった。
「ほう。なら、ここでやめるかい?」
わたしは何も言えなくなる。もっとも、ルカ先輩だって、やめたくないと思っている。
わたしたちは情報空間の中を、ただ漫然と泳ぐ。漂う、といってもいい。四肢の力を抜き、お互いに最低限の自我を保持したまま、群青と橙の間をゆっくりと行き来する量子の海を眺める。
「ずっとこの日が来るのを夢見てた」
胸の内に浮かんだ言葉が、ルカ先輩の声で聞こえた。
「先輩も、ですか」
「いや、君の思考が聞こえたから」
嘘だとわかる。
「照れなくてもいいのに」
「照れてない」
「どうせわかるのに、どうして嘘つくんですか?」
「自分こそ」先輩は言った。「どうせわかるのに、どうして隠し事なんかしてたんだ?」
わたしは(心の、とでもいおうか)瞼を閉じた。
「どうしてでしょうね」この〈わかっていないふり〉も、ルカ先輩にはお見通しだ。ついでに、先輩が国防軍に入ったと聞いて自分も志願したことも、性別を反転させただけでルカ先輩そっくりの支援AIを侍らせていることも、わたしがこの三年間、ルカ先輩の影を追い続けていたことも、とにかく何もかも全て。
全て、見られてしまった。伝わってしまった。止めようがなかったし、止めるつもりもなかった。
「嬉しいよ、ナギ。君が何も変わっていないことが、何より嬉しい」これは嘘ではない。先輩にお見通しのことは、わたしにもお見通しなのだ。
そう。だから、先輩がどうして突然わたしの前から去って行ったかもわかる。
知ってみれば何のことはない理由だ。
怒りはない。
悲しくもない。
わたしは、彼女の内側についた傷痕のような記憶をそっと撫でる。
いつの間にか、深度が下がっている。わたしたちがしていることはこの上ない快楽を与えてくれるが、損耗率が上昇しやすい危険な行為でもある。それは常に頭の隅で意識している。自制心がなければ、快楽は快楽たり得ない。
「先輩、少し潜り過ぎではないですか?」
「大丈夫。ちゃんと帰りのことは考えてあるから」
わたしたちは、尚も潜り続ける。カレントディレクトリを確かめて、ルカ先輩がわたしをどこへ連れて行こうとしているのかわかった。
「最初に言ってくれれば、すぐに見せたのに」
わたしの――わたしたちの目の前には、スタンドアロン領域の、例の球体があった。
「このために、わたしと繋がったんですか」
「繋がったのは、本当にそうしたかったから。まあ、ここへ連れてくるのは確かに目的ではあったけど」それから彼女はいくらか声を落とし、「繋がった状態で、君に見てもらいたかったから」
わたしの胸に生じたこの気持ちを、わたしは上手く言語化できない。先輩ならできるのだろうか。
「早く、開けてください」無駄だとはわかっているが、ごまかす思いでわたしは言った。
先輩の意思で、わたしたちの発火体が球体へ手を伸ばす。
天体のような表面に掌が触れると、そこを中心に波紋が生じ、広がっていった。波紋は幾重にも、徐々に間隔を狭めながら、何度も発生した。やがて、風船が破裂するように、しかし何の音もなく、球体は消えた。バグさえはね除けたにも関わらず、消失は呆気ないものだった。
露わになったのは灰色の靄で、中で雷でも起きているのか、あちこちが断続的に明滅していた。あるいはそれは、原初の発火体のようでもあった。わたしたちは架空の水を掻き、靄の中へと分け入った。
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