十九、帰心矢の如し、飾るほどの錦なけれど
全員救出され、
「どうなってもこちらの不利にはならないですが」と
「これは容喙なれど、寺は火傷の恐れがありますぞ」
「わかっています。
二人は夕食後、ほどよく暖められた応接間で話をしていた。
それが一通り終わり、きょうの事件から今後の展望に話が移ったのだった。
「
「こちらも心配か」
貸してもらった異国の浴衣は上質で、このような着心地は経験がなかった。実在するのか伝説なのかわからない鮮やかな鳥が刺繍されている。
「そういっていただけるのはありがたいのですが、結局これで弟は終わりました。子もいないですし。
「気楽なことをいう、とおしかりを受けそうですが、
「ありがとう。不思議なものですね。最近知り合ったばかりの、そのうえ外国人なのに、あなたにそういっていただけると心強い」表情がゆるんだ。
外国の赤みを帯びた強い香りの茶と、かかおという豆から作ったという濃い茶色の甘い菓子だった。はじめての味で、人に話そうにもなににたとえればいいのかわからなかった。「これは、変わっていますね。溶けていく。甘くて香りが鼻に抜けていきます。おいしい」
「ご帰国されたらなにをなさるのですか」ひとしきり笑い、くだけた雰囲気になった。
「いや、困りました。あまり考えたくありません」茶を一口飲み、口中をさっぱりさせた。忘れられない味の菓子だった。
「それはまた、どういう?」
「なんといっても任務に失敗したわけです。どういう報告書にするか、頭をひねっています」
「それはすみませんでした。どうやらわたしがですぎたまねをしたようですね。今回の件の解決を目指すあまり、あなたのご身分を
「やむを得ません。さきほど申しましたが、
「それはほめていただいたのですか。わたしには情はございませんか」唇をとがらせた。
「いいえ、そういう意味では。困りましたね。どうもご無礼をしてしまったようですが、お詫び申し上げます」
こんどはほほ笑んだ。どうしたのだろう? 今夜は表情がくるくると変わる。
「お気になさらないで。ちょっと絡んでみたくなっただけですから」
そろそろ、と
だが、なぜかそのかんたんなことができない。このたわいない話をつづけていたい。
「さてさて、そのご報告についてですが、こたびは
「しかし、それでは……。わたくしごとき者のために
「いいえ。
「わかりました。ではその書状を携えて帰国いたします。また、
「それともうひとつ」
「これはうれしく、またたのもしいお言葉です。御礼申し上げます」
風の音がする。夜がふけるとともに強くなってきたようだった。
「
「はい」
「ご無礼かと存じますが、今後、あなた様個人に文を差し上げてもお差し支えないでしょうか」
「それは、どのような……?」
「ご迷惑でしょうか」
「いいえ、もとよりわたしの身分では障りなどございませぬが、よろしいのでしょうか。
「ああ、不思議なおかたですね。近づけたと思ったら遠くなる。いったい
「礼を失しまして深くおわび申し上げます」ほかに言い様を知らなかった。このようなご婦人にはどう返事をすればいいのだろうか。
「人は、歯車仕掛けではないのです。わたしもです。
「あなたは、母上のようだ」考えもせずに言葉が口からこぼれた。
見開かれた目が
その目で投げかけられた、言葉にされない問いに答える。
「母上は、わたしが学校を卒業する前に亡くなりました。しかし、母上がいたからこそ、武人の家に生まれながら、忍びの道を選んだのです」
「幼い時から、口癖のように『自らを信ずる念を持て』と教えられました。そのためには学問にはげめといわれ、実家から持参した本を与えてくれました」
目が灯りできらめいている。続きをうながされているようだった。
「母上の死後、争いをなくすべく国と国との関係を研究し、外交を学ぶにつれ、情報収集の重要さに気づかされたのです。父上や兄上たちはいい顔をしませんでした。諜報に良い印象がなかったのです。面と向かって説教されたこともあります。そういう時、常に母上の顔と言葉を思い出して反論していました」
風がどこかの隙間を通っているのか、虎落笛のような高い音がしていた。
「
すこし言葉を切る。
「それと、文についてですが、もちろん楽しみにお待ちいたします」
「
風がやみ、茶と菓子もなくなり、ふたりの時間は尽きた。たがいに就寝の挨拶をして応接室を出た。
「遅かったですね」
「これは、まだお休みではございませんでしたか」急に現実に引きもどされてとまどう。
「なにをなさっておられたのですか」
「明日からの駅伝について、許可証などの書類の改めと馬の引継ぎの要領を確認しておりました」
「そうでしたか。明日からよろしくたのみます。早馬の心得がなく、ご迷惑をおかけします」
「いいえ。では、お休みなさいませ」
自室に入る寸前、背中から声をかけられた。
「異国の服も似合っておられます」
翌朝、空は澄み切っていた。冬の快晴。歩くたびに霜柱のくだける音がする。馬の鼻息がゆっくり流れていた。
「
「おまかせを。さ、お早う願います。各駅で刻限を合わせているはずですので」
旅装を整えた
「では、まいりましょう」
馬は戦闘速度までは出さないが、かなりの高速で街道を駆けていく。先導がときおり人払いする声がうしろまで届いてくる。旅人たちはなにごとかと思っているだろうが、道沿いの住民には事情を知らせてあるので目立った混乱はなかった。
昼過ぎ、かんたんな昼食をとって馬を変えた。早すぎるようだが、特別の計らいで余裕をもって交換するようになっていた。
日が地平線の向こうに沈みきる頃、今夜の宿に到着した。三人とも疲れ切っている。食事と風呂を早々に済ませると早めに床に就いた。
翌昼前、関所の
「
「
二人も口々に礼をいい、頭をさげた。
関所ではなんのお咎めもなく、今回はよぶんな書類は不要だった。それでも関を通り抜けるのは駅伝の早馬のようにはいかなかった。
「それでは
「ありがとう。
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