十九、帰心矢の如し、飾るほどの錦なけれど

 全員救出され、山瀬やませの厳重な警備のもと、恵子けいこの館に帰った。負傷者はやつらに回収させ、島倉しまくらは縛り上げた姿のまま引き渡した。後がどうなろうと知ったことではないし、党との今後の関係は丹下九郎たんげくろうがどうでるかを見極めてから、ということになった。


「どうなってもこちらの不利にはならないですが」と恵子けいこはもういろいろと計算をしているようだった。あのような連中が周辺にいながら取り締まらなかった寺にも圧力をかけるつもりらしい。この事件をきっかけにして僧侶への影響力を強めるという。

「これは容喙なれど、寺は火傷の恐れがありますぞ」

「わかっています。戸善とぜん殿のご心配ごもっとも。気をつけます」


 二人は夕食後、ほどよく暖められた応接間で話をしていた。恵子けいこが誘ったのだった。一日ずれたおかげもあって駅伝の手配は滞りなく済んだことと、許可証の写しを渡され、乗り継ぎなど旅について説明された。

 それが一通り終わり、きょうの事件から今後の展望に話が移ったのだった。


雷蔵らいぞう様のことですが」

「こちらも心配か」恵子けいこはため息をついた。かなりくつろいだ格好をしている。異国の浴衣、なのだろうか、淡い色の薄めの生地に蝶と花が刺繍されていた。「あそこまでずさんな計画だとは思ってもいませんでした。それに乗った弟には失望させられました」眉をひそめる。

 戸善とぜんはうなずいていう。「わたしのような仕事ですと、陰謀というものはよく練り上げられた深いものと考えがちですが、島倉秀則しまくらひでのりのような者もいるということ、かえって勉強になりました。雷蔵らいぞう様は気の迷いか、心の隙につけいられたのでしょう」

 貸してもらった異国の浴衣は上質で、このような着心地は経験がなかった。実在するのか伝説なのかわからない鮮やかな鳥が刺繍されている。

「そういっていただけるのはありがたいのですが、結局これで弟は終わりました。子もいないですし。大牧おおまき家はわたし一人で背負っていかないといけません」きびしいが、どこかさびしげなところも含まれた顔をする。

「気楽なことをいう、とおしかりを受けそうですが、恵子けいこ様は上に立てるおかたです。十分お強いうえ、常に現実を見据えておられます」

「ありがとう。不思議なものですね。最近知り合ったばかりの、そのうえ外国人なのに、あなたにそういっていただけると心強い」表情がゆるんだ。


 恵子けいこは遠慮する戸善とぜんを制して茶を淹れた。「こちらもお試しください。お口にあいますかどうか」

 外国の赤みを帯びた強い香りの茶と、という豆から作ったという濃い茶色の甘い菓子だった。はじめての味で、人に話そうにもなににたとえればいいのかわからなかった。「これは、変わっていますね。溶けていく。甘くて香りが鼻に抜けていきます。おいしい」

 恵子けいこは口に手を当てて笑った。「殿方が茶と菓子でそのようなお顔になるなんて」

 戸善とぜんは赤くなり、それがまた恵子けいこを喜ばせた。


「ご帰国されたらなにをなさるのですか」ひとしきり笑い、くだけた雰囲気になった。恵子けいこが茶のお代わりを淹れながら聞いてきた。

「いや、困りました。あまり考えたくありません」茶を一口飲み、口中をさっぱりさせた。忘れられない味の菓子だった。

「それはまた、どういう?」

「なんといっても任務に失敗したわけです。どういう報告書にするか、頭をひねっています」

「それはすみませんでした。どうやらわたしがですぎたまねをしたようですね。今回の件の解決を目指すあまり、あなたのご身分を千草ちぐさ様にも共有しておいたほうが良いと判断したのです。急ぎのあまり事前の相談もせず、それがあなたにもたらす影響についてはすっかり……」

「やむを得ません。さきほど申しましたが、恵子けいこ様が上に立てるおかたというのはそこです。情ではなく、知で判断される。だからこそ壁龕に千草ちぐさ様をひそませるという芝居がかった方法をとられた。あのようにされては取り繕えません。冒険に加わる道しかなくなりました」

「それはほめていただいたのですか。わたしには情はございませんか」唇をとがらせた。

「いいえ、そういう意味では。困りましたね。どうもご無礼をしてしまったようですが、お詫び申し上げます」

 こんどはほほ笑んだ。どうしたのだろう? 今夜は表情がくるくると変わる。


「お気になさらないで。ちょっと絡んでみたくなっただけですから」


 そろそろ、と戸善とぜんは思う。明日を考えるのであれば話を切り上げ、就寝の挨拶をすべきだろう。

 だが、なぜかそのかんたんなことができない。このたわいない話をつづけていたい。


「さてさて、そのご報告についてですが、こたびは戸善とぜん殿にはひとかたならぬお世話になりました。その旨一筆お書きしますのでお持ちください。さすればお叱りもございませんでしょう」

「しかし、それでは……。わたくしごとき者のために大牧おおまき家当主のお手を煩わせましては申し訳がございません」

「いいえ。千草ちぐさ様にも同様の書状をお渡しするつもりです。月城つきしろ国との友好のために、まずはわれら三家が関係を深めていければと考えております」

「わかりました。ではその書状を携えて帰国いたします。また、恵子けいこ様のお言葉は上司のみならず、父にも伝えます」


「それともうひとつ」戸善とぜんは一呼吸分間をおいていう。「わたくし個人としても大牧おおまき家および穂高ほだか国との友好関係の発展を望んでおります」

「これはうれしく、またたのもしいお言葉です。御礼申し上げます」


 風の音がする。夜がふけるとともに強くなってきたようだった。

 恵子けいこは目を伏せ、また戸善とぜんを見て口を開く。


戸善とぜん殿」

「はい」

「ご無礼かと存じますが、今後、あなた様個人に文を差し上げてもお差し支えないでしょうか」

「それは、どのような……?」

「ご迷惑でしょうか」

「いいえ、もとよりわたしの身分では障りなどございませぬが、よろしいのでしょうか。御木本みきもとは大家ではなく、そのうえわたしは末子です。そのような者に文を通じられるとは、なにか不都合が生じませぬか」

 恵子けいこは下を向いてしまう。

「ああ、不思議なおかたですね。近づけたと思ったら遠くなる。いったい戸善とぜん殿はどこにいらっしゃるのでしょう」

「礼を失しまして深くおわび申し上げます」ほかに言い様を知らなかった。このようなご婦人にはどう返事をすればいいのだろうか。


「人は、歯車仕掛けではないのです。わたしもです。戸善とぜん殿、おわかりになりませぬか」


「あなたは、母上のようだ」考えもせずに言葉が口からこぼれた。


 見開かれた目が戸善とぜんを貫いた。

 その目で投げかけられた、言葉にされない問いに答える。


「母上は、わたしが学校を卒業する前に亡くなりました。しかし、母上がいたからこそ、武人の家に生まれながら、忍びの道を選んだのです」

 恵子けいこはただうなずいている。口をはさもうとはしない。

「幼い時から、口癖のように『自らを信ずる念を持て』と教えられました。そのためには学問にはげめといわれ、実家から持参した本を与えてくれました」

 目が灯りできらめいている。続きをうながされているようだった。

「母上の死後、争いをなくすべく国と国との関係を研究し、外交を学ぶにつれ、情報収集の重要さに気づかされたのです。父上や兄上たちはいい顔をしませんでした。諜報に良い印象がなかったのです。面と向かって説教されたこともあります。そういう時、常に母上の顔と言葉を思い出して反論していました」

 風がどこかの隙間を通っているのか、虎落笛のような高い音がしていた。

恵子けいこ様はこれまでは広大な直轄地を経営され、これからは大牧おおまき家そのものを支配されます。常の人にはおよばぬほどの強い念が必要ですが、すでにお持ちとお見受けしました。その強さがわたしの若い記憶の母上をよみがえらせたのです。ゆえに尊び、かつ敬い申し上げます」

 すこし言葉を切る。

「それと、文についてですが、もちろん楽しみにお待ちいたします」


 恵子けいこはじっと戸善とぜんの顔を見ている。

戸善とぜん殿のご心底、すっかりおうかがいいたしました。では、立派な御母堂にはおよばずとも、わたくしなりの想いを文にいたしましょう」


 風がやみ、茶と菓子もなくなり、ふたりの時間は尽きた。たがいに就寝の挨拶をして応接室を出た。


「遅かったですね」千草ちぐさが自分の部屋の前に立っていた。

「これは、まだお休みではございませんでしたか」急に現実に引きもどされてとまどう。

「なにをなさっておられたのですか」

「明日からの駅伝について、許可証などの書類の改めと馬の引継ぎの要領を確認しておりました」

「そうでしたか。明日からよろしくたのみます。早馬の心得がなく、ご迷惑をおかけします」

「いいえ。では、お休みなさいませ」

 自室に入る寸前、背中から声をかけられた。

「異国の服も似合っておられます」


 翌朝、空は澄み切っていた。冬の快晴。歩くたびに霜柱のくだける音がする。馬の鼻息がゆっくり流れていた。

山瀬やませ殿。おはようございます。先導よろしくお願いいたします」

「おまかせを。さ、お早う願います。各駅で刻限を合わせているはずですので」


 旅装を整えた千草ちぐさが挨拶を終え、鞍にまたがった。戸善とぜんもおなじく頭をさげ、うしろにまたがる。

 恵子けいこは通常の着物に帯刀して見送りに立っていた。周囲の空気より張り詰め、支配者としての力がみなぎっていた。「おふたりのご協力、感謝いたします。またお会いしましょう」


「では、まいりましょう」山瀬やませが合図した。


 馬は戦闘速度までは出さないが、かなりの高速で街道を駆けていく。先導がときおり人払いする声がうしろまで届いてくる。旅人たちはなにごとかと思っているだろうが、道沿いの住民には事情を知らせてあるので目立った混乱はなかった。


 昼過ぎ、かんたんな昼食をとって馬を変えた。早すぎるようだが、特別の計らいで余裕をもって交換するようになっていた。


 日が地平線の向こうに沈みきる頃、今夜の宿に到着した。三人とも疲れ切っている。食事と風呂を早々に済ませると早めに床に就いた。


 翌昼前、関所の穂高ほだか国側の駅に入った。千草ちぐさが礼をいう。

山瀬やませ殿。先導ありがとうございます。無事到着いたしました」

千草ちぐさ様、お父上の御患い、軽快なることを望みます。戸善とぜん殿、お世話になり申した。ではおふたりとも御無事で。縁がございましたらまたお会いしましょう」

 二人も口々に礼をいい、頭をさげた。山瀬やませはそのまま馬首を返すと戻っていった。


 関所ではなんのお咎めもなく、今回はよぶんなは不要だった。それでも関を通り抜けるのは駅伝の早馬のようにはいかなかった。


 月城つきしろ国側にはすでに雨宮あまみや家の迎えが来ていた。


「それでは千草ちぐさ様、これでおわかれでございます。お父上の御平癒、お祈り申し上げます。また、任務としては芳しくない結果となりましたが、得られたものは大きいと信じております」

「ありがとう。戸善とぜん殿。父上の平癒祈念につき感謝申し上げます。床上げまではあまり問い詰めないようにします。それと、たしかに任務は失敗しましたが、残念という気がしません。それほどいろいろな物事や人の心に触れました。この経験はかならず生かして見せます」


 戸善とぜんは去っていく雨宮あまみや家の一団を見送ると、自分も家路についた。月城つきしろ穂高ほだかも、足の裏に伝わってくる街道の土の感触は変わらなかった。

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