誕生
あと数歩で家に着く。あと数歩で。なんだか嫌な予感がずっとしている。虫の知らせというか、神経質になりすぎているというか、とりあえず絶えず不安が押し寄せてきてその度に嗚咽しそうになる。
雷鳴が轟く。僕のことを脅かしているみたいだ。雨が心做しか少し強くなる。傘を突き破りそうな勢いで、何度も何度も借金の取り立てみたいにビニールを叩く。
街灯が僕の影を引き伸ばしている。
玄関の前の階段を駆け上がると扉に手をかけた。鍵は空いている。電気はついていない真っ暗闇だ。ほとんど何も見えない。盲目になってしまったかのように手探りだけで廊下を進む。いやな、いやな、とても嫌な匂いがする。僕は本能的なものが作用して、その匂いの正体を深く考えることを避けた。
しかし、目の前の惨状はどうやったって避けることは出来なかった。
「あ……あ……!」
声も出せなかった。喉の中で膨張し続ける空気が何度も喉仏を殴りつけて、ポンプ式に少しずつ空気が吐き出されているようだった。
白かったはずの壁のいたるところが赤く染っていて、息絶えた2人の死骸が捨てられた人形のようにその場に転がっていた。
声が出ない、息ができない。風上の鳩尾への殴打なんてのは比にならなかった。
僕は泣いたらいいのか怒ったらいいのか叫んだらいいのか困惑したらいいのか、通報したらいいのか犯人を追跡すべきなのか、どれを選択するのが正しいのかわからなくなってしまった。
その瞬間、僕の頭は浮かび上がった。首筋に痛みが走る。
「あが……!……!」
「驚かせやがって、いつの間に帰ってきたんだぁ」
男の声が聞こえる。
声は出ない。血ばかりがとめどなく吹き出す。
死ぬのは怖いしかし、もう生きていても意味が無い。家族の隣で一緒に死ねるならこれでもいいのかもしれない。分からない。分からない。何が正しいのか。
「僕はそんなに悪いことをしたのだろうか。僕は何か罪を犯したのだろうか。波風立てないように媚びへつらって、頭を喜んで下げて、できるだけ謙虚に何をされてもやり返さずに生きてきたじゃないか。その結果がこれか、あんまりじゃないか……」
薄れいく意識の中で声にもならない声を出した。ヒューヒューと空気が抜けていくだけの惨めな音。
ふと、黒曜石のようなあの石が目に入った。きっと、ポケットから抜け出したのだろう。
不思議な光を微かに放っている。その光が幻覚なのか本当に光っているのかは分からなかったが。僕はこの石にかけてみることにした。
石を掴むとほとんど無意識のうちに口の中へと放り込んだ。
「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!」
全身に激痛が数分間走る。喉でつかえていた膨張した空気が全身に周り、体そのものを膨張させているように感じる。意識が鮮明になると姿見に映った自分の姿を見て唖然とした。
その姿はもはや人間ではなかった。
「な、なんだ、こいつ……!」
腰を抜かした妻と子を殺した男が、食器棚に隠してあった通帳を握って震えている。
「お前か……」
俺は今まで、全てを許容して生きてきた。それでも、こんなやつに理由もなく家族を惨殺された。
悪いのは俺ではない。こんなクソ野郎を生かしておく世界だ。
「や、やめぇてくれよ。そんな物騒な顔して」
「なんで、このうちのものを殺した……」
「なんでって、へへ、勘弁してくれよ」
「いえ!」
「ヒィッ、金が欲しかったんだよ、そしたらこいつらが帰ってきて、騒ぎ出すもんだから殺しちまったんだぁ……!仕方ねぇよな、わかるだろ、正当防衛だよ正当ぼ……」
強盗の男の頭を完膚無きまでに吹き飛ばす。男の首から下は、数秒静止したあとゆっくりと倒れた。
「世界を作り直さねば。もう一度一からこの世界を作り直さねば、俺の家族のように理由もなく人が死ぬ」
俺は二人の死骸を抱えるとその場を後にした。
ヴィラン Lie街 @keionrenmaro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます