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 都市の色も海の色も、驚くべき連帯によって景色を黒く染め上げる。色だけでなく、人々を飲み込む点でも両者よく似て、その最中にいると思うと、溺れるように息が詰まった。

 真由海がいなくなってから、夜の暗闇を怖いと思うようになった。

 彼女を失ったと知った夜の感触が、年月を経てこびりついた澱のように、意識の内壁から拭えなかった。あの時と似た状況が現前すると、私が何を思うまでもなく、自然に記憶と結びつき、情動が喚起された。茫漠とした恐怖、沈みゆく重み、心臓から凍てついていくような寒さ、そして、涙の雫。ベッドの中で膝を抱え、息を殺して胸元に爪を立てたことを思い出し、私の手はそれを再現するように、服を握り、皺をつくる。

 眠れない要因の一つにその恐怖心があることは間違いなかった。大学四年の夏頃まで、日が暮れて以降外出できない日々は続いた。

 大学時代の後輩に、鹿崎かざき江梨花えりかという子がいた。やる気もないまま籍を置き幽霊になったサークルで、私と同じく幽霊化して小言を言われたのが最初だった。「一度くらい来い」という口喧しい催促を受けて、本当に一度だけ行った先で、私は彼女と鉢合わせることになった。江梨花は私と比べると遥かに気力に溢れていて、なんだかんだ社交的で、私との共通点と言えば、身近な人間が海に呑まれていることくらいだった。

 けれど、その唯一とも言える共通項が、私たちを繋ぐものとなった。私は友人を、彼女は兄を、同じ年の「“歌”の変化」が起きた時に失くしている。それを最初に打ち明けたのは江梨花の方で、昼食を学食で食べている時に、どうってことないというふうに彼女は言った。

「私が友達と遊んでる間に、兄はどこかに行っちゃいました」

 カツカレーを頬張り、幸せそうに咀嚼嚥下してから、残ったカツを切り分ける。

「あの“歌”があって、急いで帰った時、家はもぬけの空でした。両親が仕事でいないのはいつものことだったんですけど、ずっと部屋にいたはずの兄がどこにもいなくて」

 彼女はスプーンを口に運び、また飲み込んでから、呆れたようにため息をついて、「そんなことがあっても、困ったことに」

「誰がいなくなっても、ご飯は美味しいんですよね。まったく、嫌になるくらい美味しいんです。それに気づいた時、自覚がなかっただけで、実は私の血は冷たかったんじゃないかと疑ったんですが、どうもそうでもないみたいで。みんな、そんなもんらしいですね。すべての人間が、ロマンチック構造体なわけじゃないようです」

 そこまで言うと、食事を終えるまで彼女は無言を貫いた。私は学食で一番安いそばをすすり、味の濃い汁を少しだけ飲んだ。

 交流を重ねる中で、私は自らの恐怖を彼女に話した。夜が怖い。夜それ自体が怖いのではなく、そこで生起される極彩色の想いの奔流が、耐え難く恐ろしいのだと。

 すると彼女はしばし考えてから、

「じゃあ、私と慣らしていきましょう」

 言葉の意味を問うたけれど、「そのままの意味ですよ」と彼女は微笑むばかりだった。

 事実、それは本当に言葉通りでしかなく、私は彼女に連れられて、夜の街を練り歩くようになった。

 日没直後に始まり、最終的には夜通し外にいることも増えていった。彼女は私の手を引いてあちこちへと連れ回した。久しぶりに見る都市の青白い輝きとネオンの瞬きは、私の目を焼いてその色を残し、私は巨大な怪物の皮膚の上を這っている心地がした。

 私は次第に、江梨花がいれば夜でも外を出歩けるようになり、二年ほどかけて、一人でも夜を耐え忍ぶことができるようになった。眠れる時間も、少しずつではあるけれど、確実に増えていった。

 彼女が二十歳になってからは、一緒にお酒を飲むことも少なからずあった。一人暮らしだった私の家に彼女がアルコール類を持ってやってきて、たりなくなれば近所のスーパーまで足を伸ばした。そして酩酊がある段階を超えると、彼女はポツポツと兄のことを口にした。脈絡はなく、唐突に「兄さんは」と始まるのが常だった。

「心を病んで、高校を中退して、病院に通いながら、兄はいつも必死でした。何もできない、気力も体力もどこから持って来ればいいのかわからないと時折溢していたのを覚えています。兄は努力家でした。兄は私たちには優しいのに、自分に対しては苛烈なまでに厳格だったんです。かくあるべしという規範を自らに課して、そこから逃げることを恐れてた……兄は、逃げ方が下手くそだったんです。兄さんは……、大好きだった兄さんに、私は何も報いることができませんでした。兄さんの痛みは兄さんのもので、弱い私は、そこに自分の居場所を見出すことも、つくることもできなかった……」

 紅潮した頬を引きつらせて、私を見る。

「ねぇ、先輩。私は、何もできませんでしたよ。ね、先輩。人っていうのは、どうしてこんなに、無力なんでしょうねぇ」

 飄々と、あっけらかんと振る舞う彼女が、回らない頭のままさめざめと泣く姿が、いつまでも記憶に残っている。そんな時はたいてい、私の方もどうしようもなくなって、雪崩れるように目を腫らした。

 私と江梨花はどこまでも違う生き方なのに、ただ喪失の痛みの一点だけは、紛れもなく共有することができていたのだと思う。こんな共通項でなければ、私たちは交わることもなかっただろう。幸いは時に代償を前提とする。どちらが良かったかなど、私にはわかるはずもない。

 これまでの付き合いの中で、彼女が抱える痛みの一端を垣間見てきたと思っている。江梨花は私にとって、互いに想いを打ち明けながら、それでもなお繋がっていられる唯一の友人となった。

 大学卒業後、彼女は第七地区にある海洋科学研究所の音響精神病理部に就職した。その研究の主な内容は、モノリスが発する“歌”の分析と対応策の検討で、目下の課題は、世界各地のモノリスで過去に数度発生し、彼女の兄を攫った「異常音波のパターン変化」の原因究明と対処だと聞いている。

「先輩とご飯食べるの、久しぶりですよね。私、約束してからずっと楽しみにしてました」

 席に着き、料理を注文してすぐに、彼女は言った。暖色の明かりに、ガラス張りの窓から覗く夜景が目を引く、ちょっとした有名店だ。独身二人であれば、それなりのレストランに入っても、あまり懐は痛くならない。そういうこともあって、私たちは時々食事の約束を取り付けては、向かい合って他愛ない話に花を咲かせていた。

 江梨花はともかく、私ときたら、友達と呼べる関係もろくに築けないままこんなところまで来てしまった。孤独を苦痛に感じることはないけれど、親しい相手と臆することなく言葉を交わせるのは、喜ばしいことだと思う。

「忙しいもんね。私も会えて嬉しいよ」

「忙しいというか、まぁ、私が好き好んで研究所に入り浸ってるんですけどね。やることが尽きないという意味では、確かに忙しいかも」

 そう言ってから、先輩が喜んでくれるなら誘った甲斐がありました、と後に続けた。

「先輩、いつも辛そうですから。私にできることは、あまりないので」

 彼女は照れたように頬を掻いて、ぎこちなく笑った。私はただ、ありがとう、と言った。彼女が言葉を持たないように、私もまた、他の言葉を持ちえなかった。

「来週、先輩はやっぱり境界付近まで行くんですよね」

「うん、そのつもり。毎年のことだから」

 来週末は、モノリスから発せられる異常音波が変化した日であると同時に、真由海と江梨花の兄の命日でもあった。私は毎年、フェンスによって敷かれた境界まで行って、献花をすることにしている。江梨花は時によりけりで、昨年は一緒に行って、夕飯まで食べた記憶があった。

「江梨花は今年どうするの?」

「実を言うと、今年はやめておこうかと思って。やらないといけないことがあとちょっとで終わるはずなんですが、たぶん当日も使ってギリギリかな、と。一応、別の日に足を運ぶつもりではいます」

「そっか、わかった。じゃあ、江梨花の健闘も祈っておこうかな」

「お、先輩に祈られちゃ、頑張らないわけにはいきませんね。お任せください、パパッと終わらせますとも」

 自信ありげな表情を浮かべ、胸を拳で二度叩く。彼女のそういう些細な仕草に、私はよく元気づけられていた。脆弱で頼りない私を助けようとしてくれる彼女に、私はいつか報いることができるだろうか。

 そうこうするうちに、料理が運ばれてきた。メインは白身魚。こういう時以外は、あまり食べることもない。湯気とともに立ち上る芳ばしい香りが食欲をそそり、生きるために食べるのだと、私は思い出す。

「さ、先輩、ひとまずは、食べて、飲んで、楽しみましょう。なんなら、一緒にレイトショーとか行きますか?」

 向けられた眩しい微笑みに、「それもいいね」と私は言った。

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