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 高校生の頃、目覚めはいつも最悪だった。

 夢見が悪かった、のだと思う。確証がないのは、その夢を毎回忘れるからだ。いくら思い出そうとしても、記憶の水面にすら浮かんでこない。とにかく眠りが浅く、日中の活動効率は落ち込む一方で、病院に行けとせっつかれるのだけど、どうしても行く気になれずにいた。病院は、今でもあまり得意ではない。

 私の両親は寝つきも目覚めも健康そのもので、階下に降りて食卓につくと、私ばかりがひどく浮いた。二人とも私の状態を案じていて、せめて食事くらいは、とウインナーが一個多かったり、小さなチーズが付いていたりすることが多かった。何かと量が多い方向に向かうのが親心というものだろうかと思ったけれど、睡眠不足で体力も気力も乏しい私には過剰という他になく、無理して食べて吐き戻すよりはいいだろうと、結局は残してしまうのだった。「行ってきます」と力なく家を出る娘の姿を、二対の瞳が不安げに見つめていたのを覚えている。その視線に気づいてしまうと、後はもうただ申し訳なさが募る一方で、一日はいっそう憂鬱になるのだった。

 今でも、目覚めた直後には、決まってあの子の顔が思い浮かぶ。中学生最後の秋、漣の合間に消えていった笑顔が、いつまでたってもちらついている。夢のことなんて覚えていないのに、いつも、いつも。

 歳を重ね、大人になり、物事と折り合いをつけるのがうまくなるにつれて、不眠は幾分解消されたように思う。解決はできていない。それでも、宙ぶらりんにとどめおき、そのまま日々をやり過ごすことができるようになった。おかげで、どうにかしがないOLとして職にも就き、傍目にはそう悪くない生活を送ることができていると思う。

 繰り返し、同じルーティーンで朝を迎える。車に乗り込みエンジンをかけ、ハンドルを握り、アクセルを踏む。駐車場を出て、振動もなく滑らかに動き出した景色を流す内に、街の中心部を抜けて、海岸沿いの道に入った。

 車窓を下ろすと、涼やかな風が髪を揺らして頬を撫でる。海へと続く空間には、軍が敷設したフェンスが延々と伸び、一定間隔をあけて、監視塔と音響装置が連なっている。

 一面に広がる海は黒々として、太陽の輝きも、海を照らすことはない。澄んだ蒼海は失われ、どこまでも不可逆に、私たちを飲み込まんと口を開けている。

 教会がある高台からは、海原を一望することができる。アスファルトを踏みしめ、靡く髪を押さえて目を向けた先、遥か遠く、水平線の際に、“それ”は屹立している。

 天から降ろされた黒い階梯。世界に陰を落とす、巨大質量──異常分子構造体。

 通称を、“モノリス”という。




 モノリスが現れたのは、私が生まれる前、今から四十年ほど前のことだ。

 宇宙より飛来した複数の小隕石が、世界各地の海に落下した。数多の有機物、命あるもの、海洋生物を抱えて悠然と存在した自然は性質を変え、有機物を分解し、未知の物質──異常分子へと変換するようになった。そしてこの異常分子は特定の箇所に堆積し、結晶が育つよりも遥かに速く成長すると、やがて、黒い角形の威容をなし、 “モノリス”と呼ばれる異常分子構造体を形成するに至る。

 海洋資源のことごとくが失われた影響で、どこの社会も崩壊寸前まで追い込まれることとなった。実際、国家として存在できなくなり、紛争の果てに地図上から消滅した国もあったと聞いている。

 一方、後の研究から、モノリスから採取される物質が、その異常な性質によってあらゆる工業製品に利用可能なことが判明している。これを受けて、漁港や工場などの機能が崩壊した都市は再編され、海浜試験都市群として運用が続けられている。使用されている建材のほとんどは、モノリス由来物質だ。

 異常分子構造体の特異性は、海を変質させたことや、採取される物質の汎用性にとどまらない。むしろ、問題はもう一つの方にあった。

 モノリスは定期的に、異常性を持った音波を超広範囲に向けて発することが確認されている。脳に作用し、幻覚と妄想、そして柔らかな喪失対象の希求によって、人を海へと誘う胎内回帰の童歌マザーグース。時間における効果の程度は個人の精神状態によるものの、行き着く先は皆同じ。母なる海への回帰に他ならない。

 この“歌”の影響を受けた人は、自らを分解する海へと茫然自失の状態で歩いていくことになる。海沿いのフェンスと監視塔は、それを瀬戸際で防ぐための障壁であって、音響装置は異常音波を相殺するための設備だった。それ以外にも、個人及び公衆における精神衛生の維持・向上などを計る施策などによって、可能な限り“歌”による被害を減らす試みがなされているというが、効果のほどは素人の私にはよくわからない。

 休日は決まって、教会での礼拝に出席する。四十年程度の歴史しか持たない新興であるため、参加者はさほど多くないが、私にとっては十年近く慣れ親しんだ場所だ。礼拝を終え、人気の失せた会堂の沈黙が、私には心地よかった。

 静寂の中を埃の煌めきが舞う。陰影を刻むように光が差し、窓枠に張り付いた蔦の形を残しながら、整然と並べられた長椅子を白く染める。木材の床はつややかに輝き、わずかな呼吸の音でさえ、広くたわみ、深く響く。

 最奥部では、いくつもの色が水彩画のように壇上を照らし、ステンドグラスの意匠には、かつてこの建物を管理していた宗教の名残が見て取れる。もはや私たちとは無縁の存在、過去の遺構ではあるものの、その美しさに果ては見えない。

「まだ、いらっしゃったのですね」

 声と同時に甲高い靴音が反響する。一定のリズムを奏でて進み、やがて私の隣で音は止む。「寒くはありませんか」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 振り返って言うと、スーツ姿の彼はにこやかに頷いた。通路を挟んで対の位置にある長椅子に、そっと腰掛ける。

「もう、すっかり秋の香りがするようになりましたね。夏に茂った緑葉は色褪せて、道を歩けば乾いた音がする。いつになっても、慣れないものです」

 それからしばらく沈黙して、今度は明確に私に向けて「遅くなりましたが、お久しぶりです。調子はどうですか」と言った。

 私は表情に意識を集中し、

「こちらこそ、先生。私は何も変わりませんよ」

 と軽く微笑んだ。

 大人になった私の毎日は、変化に乏しい。色彩はあの海のようで、私はきっと、生まれ育った街から出ることもなく、同じ場所で勉強し、就職し、働き、祈り、その果てにたぶんいつかは死んでいく。出て行くこともできたけれど、私はそれを選ばなかったし、選ぶことができなかった。もう一度やり直せてもそれは同じだろうと、幾度も繰り返した仮定を思う。

「そうですか。どうあれ、息災なのは何よりです」

 彼は、坂淵さかぶち先生は、私が「何もない」と言うと、必ずそうやって寂しそうに笑った。私たちは同じやり取りを何年も続けて、いつも前に踏み出せずにいるのを自覚して、それでもこの教会で祈っている。あの海に溶けた人々には、救いがあったのだと、そうであれ、とひたすらに。

 他に自分が救われる術が見出せない。罪悪感の澱に溺れそうになりなりながらも、息をする術が他に思いつかない。もがき、喘ぎ、わずかな酸素のために口を開き、そこに流れ込んでくるのが、汚泥でしかないのだとわかっていても、止めることはできなかった。

 そうでなければ、私たちもまた海に消えるのが相応しいのだと思う。息もできなければ、足掻きも徒労になり下がるから。

「この時期になると……聖典を、よく読み返します。ここまで来た私ですが、これで良いのかどうか、未だにわからないことばかりです」

 先生は懐から一冊の本を取り出して、パラパラとめくった。何度もなんども開かれて、紙も表紙も劣化が進んでいる。私も傍に置いた本に手を触れる。秋の空気に晒されて、少し冷たい。

 聖典とされているのは、一冊の小説だ。元の言語は英語で、私が持っているのは、その翻訳版に当たる。

 たいして面白くもない、小説というべきかも怪しい、個人出版の長編小説。作者は最初の“歌”で海に消え、その遺稿を、友人が自費で出したのだと聞いている。

 教会において、モノリスの発する音は“セイレーンの歌”と呼ばれ、信仰対象の一つとなっている。そして、セイレーンの歌に導かれ海へと還るのは“胎内回帰”として、罪からの解放と救済を意味していた。

「生きるために、私たちには信仰が必要でした。けれど、これが娘に必要なのかというと……私には、よくわからないのです」

 先生は本を閉じると、中空に視線を彷徨わせてから、ステンドグラスを見つめた。私は本の表面を指先でなぞりながら、「私もです」と言った。

 これは生者のエゴです、死者には何の意味もありません。そんなことが議論する余地もなく明らかであったなら、私たちは縋ることなくいられただろうかと思う。自分自身でさえも救えるかわからないのに、そんなところまで可能性が潰えてしまったら、私たちは何ができるというのだろう。

「妻を亡くし、娘までも失った私には、他に頼れるものがありませんでした。あの子は救われたのだと……そう思う以外に、どうすればよかったのでしょうね」

 きっと、どうすることもできませんでした、と私は言う。先生は「ええ」と頷き、「そうなのでしょうね」と呟いた。

 後悔のない「さよなら」はできなかった。憂いのない別れをするには、あまりにも唐突だった。

 でも、そんなものなのだと思う。世界がどう変わったところで、問題があるのは常に人間の心の方だ。変わってしまった海も、失われていくすべてのものも、ただそのように在るだけ、存在するだけなのだから。

「また来ます、先生」

 去り際にそう言うと、「いつでもお待ちしています」と先生は言った。


 この街にいると、いつでもどこでも、海のことが意識に残る。

 黒い高層ビルが立ち並び、新たに生み出された技術の恩恵を受ける近代都市の冷たい影の中にあっても、モノリスがある限り、あの“歌”が止まない限り、私はきっと海を見続けるのだと思う。消えない、消すことのできない記憶が、私を刺し穿って逃さないから。昔日の後悔が、私を駆り立て、モノリスへと向き合わせるから。

 助手席のダッシュボードにしまった一枚の写真。手に取って見つめたその奥に、十代の私と、彼女の笑顔がうつり込んでいる。

 夕焼けに燃える砂浜で、「あなたは、どう?」と彼女が笑う。

 思い出すのはいつも、楽しかった他のどんな日々でもなく、私たちを決定的に隔ててしまったあの瞬間だ。

 私は、差し出された手を掴むことができなかった。あの子の、海のように、モノリスのように昏い瞳に、吸い込まれてしまいそうだったから。大好きな友達だった女の子が、何か得体の知れないものに変わってしまったように思えて、とても怖かったから。

 私は、彼女の手を取らなかった。ひっそりと空いたフェンスの穴を通って、逃げるように浜を後にした時の、彼女の姿が忘れられない。私を見つめたあの双眸には、一体何が見えていたのだろう。

 翌日、“歌”は突如その波形を変えて、相殺プログラムが変更されるまでの数分間、人々の脳を犯し続けた。

 彼女は姿を消した。二人だけの秘密だった穴の向こうの砂浜に、綺麗に揃えた靴を残して。

 あの時、彼女の手を取っていれば、何か変わったのではないかと、そんなことばかりを考えてきた。私は止めることができたのだろうか。待って、と。行かないで、と、私は口にすることができただろうか。

 そして繰り返し、あるいは、と思う。

 あるいは、彼女と共に、海へと足を踏み出せただろうか、と。




 坂淵さかぶち真由海まゆみと知り合ったのは、中学一年の春のことだ。入学から数週間が経過し、多くの生徒が早くも新しい生活に順応し始めた時期だったように思う。

 特別印象的な出会いでもなかったと記憶している。同じクラスになって、お互い図書館の利用率が高かったところから顔をあわせるようになり、話をするうちに親しくなった。家が同じ地区にあったことも相まって、それからは何かと待ち合わせては遊ぶようになった。何の変哲もない、ありふれた出会いだ。

 私たちの世代は、かつての海の色を知らない。海に満ちるものを水だとは思わなかったし、魚といえば内陸部の養殖場からやってくるのが当たり前だった。歴史を学び過去を知っても、結局のところ私たちからはあまりにも遠く、実感もなければ執着も湧いてくることはなかった。それこそ、一面の黒を「嫌な色」と思い忌避はしても、じっくり眺めるほどの価値を見出す余地はどこにもなかったと言っていい。

 真由海はその点で、私とも、他の子とも違っていた。彼女は海が好きだった。外で何かをしようという時は、たいてい海の見える開けた場所に集合し、時々私を誘ってはフェンスの近くまで行ってピクニックをした。彼女は沈黙を愛していて、私も彼女との間に結ばれる静けさが好ましかった。彼女の隣にいれば、暗い海も少しは綺麗な気がしたし、遠く影を落とすモノリスも、本で読んだ世界樹をなぞる偉大なものなのではないかと錯覚できた。たった二年の付き合いだった。でも、彼女がこれほどまでに大切な存在になってしまうなんて、私も想像することができなかったのだ。

 真由海は、放置されて形成された雑木林の奥のフェンスに、人一人がギリギリ通れる程度の穴があることを知っていて、三年の春に私をその場へ連れて行った。穴の前に立って、私が「行くの?」と聞くと、彼女は首を横に振って「まだ行かない」と言った。砂浜に出てみたいという好奇心はあった。だから私は無邪気に、「じゃあ、行く時は一緒に行こう」と提案した。真由海は頷いて、私の手を取り、指を絡めて、握った。

「うん。かえろう」

 その日、私たちは手を繋いだまま帰路に着いた。恥ずかしいとは思わなかった。真由海は確かに、私にとって一番の、心を許せる大好きな友達だったから。


 そして、秋になった。

 真由海に誘われるままに、私は穴を抜けて、

 彼女の願いを、拒絶した。


 私が真由海を殺したのだと思った。

 他のどんな要因も私には無関係で、ただ一つだけ、彼女の手を振り払ったことが、何よりの罪だと思った。

 ごめん、ごめんね、真由海。

 夜毎にうなされては、知らぬ間にそう呟いている。

 何も覚えていないのに、いっそ忘れてしまいたいのに。

 ごめんね、真由海。

 胎児のように蹲り、唱えるように口にしている。

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