海胎

伊島糸雨


 歌が聞こえる。

 あの、不可解で美しい歌声が、頭の中に、響く。

 母なる海の胎へと誘うおぞましい旋律が、意志を、意識を、犯して、止まない。

 万象を産み落とした子宮へと帰り、赤子のようにうずくまりながら、皮膚も、肉も、骨も、血潮も、この脳みそでさえ、細胞の一変に至るまでもが、羊水の温もりの中に融解し、いつしか生まれ変わって、世界へと回帰する。

 すべては円環の如き理の上で、人は皆、子守唄の微睡みに溺れていく。息をする必要はない。なぜなら、喪うことの苦しみに、私たちはとうに呼吸を止めたのだから。


 聖典には、このような言葉がある。


 セイレーンの歌は哀しみに溢れている。彼の旋律は、我らが犯した罪を嘆く、贖罪の祈りである。

 ゆえに、我らは帰らねばならない。未知なる意志にもたらされた、大いなる母の元へ。

 ゆえに、我らは戻らねばならない。愚かしさとも罪とも無縁であった、懐かしき生命の源へ。



 死にゆく人は、海へと向かう。

 だから、砂浜は足跡で溢れている。重なり、埋もれ、風化してなお、刻まれ続けている。

「海はすべての母って、そういう話、聞いたことある?」

 薄暮の中、指先で砂を弄ぶ。隙間から溢れる白い粒子は、不可逆の砂時計を思わせる。

 消えた人は戻らない。肉体は分解され、モノリスから回収された分子資源は、合成されて都市の一部となり、人々の生活を彩っていく。

「胎内回帰っていうの、知ってる?」

 ほら、生命に倦んだすべての人が、生まれた場所へ帰っていくよ。

 指差す先で、生者が行進する。

「あなたは、どう?」

 手を差し出して、彼女は笑う。

 私はその手を握りしめ、


 私たちは行進する。

 海胎へと向けて、跡を刻む。

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