第2話

 自分の目元が渋くなっているのを否応なく感じられた。飲み干したコーヒーのパックをゴミ箱に投げ入れる。中を見ても同じパックは見当たらない。まあ苦くてまずいコーヒーといちご牛乳が同じ値段なら、誰だっていちご牛乳を買うだろう。


 そんなことを考えたり、考えなかったり。最近はこの場所で考え事をして時間を潰すようになっていた。代替手段を探してはみたものの、どれもしっくりこない。


 そんな私に近づいてくる足音があった。パタパタという音。教師ではなく生徒のスリッパが鳴らす音。


「あ、ここにいたんだ。探したよ~早川さん」


 ころころ、という擬音が似合うような笑顔。よく通り、しかし決してうるさくはない綺麗な声。私のクラスの学級委員をしている……確か名前は千歳あゆ、だっただろうか。


「何か用?」


「そうだよ。今日の日直、早川さんだったよね。日誌、まだ書けてないかなって」


「あー……もうちょっとかかりそうかな」


「よかった、忘れてなかったんだね。終わったら教室に持ってきて。たぶんわたし、そこにいるからさ」


「わかった」


 来た道をそのまま戻っていく委員長。もうちょっとかかりそう、というのは大嘘でまだ手をつけていないのだが、大丈夫だろうか。今から急いでやれば大丈夫だろう。ルーティンワークと化した日常、それに組み込まれていない日直という仕事はすっかり忘れていた。


 それにしても、と思う。


 やけに委員長が淡白だった気がする。教室での彼女はいつも一生懸命で、何事にも手を抜かずに、真面目に取り組んでいた。だから書き終わっていないことに対して苦言を呈されると思ったのだが。


 気にしても仕方がないのでさっさと仕事を終わらせることにした。日誌を開くと今日の一時間ごとの授業内容、天気、欠席者などなど、書くことが多い。書く前から気が滅入ってくる。ただでさえ気分が落ちているときにこれは正直きつい。


 機械的にシャープペンを動かして内容を書き込んでいくと、ある場所で手がぴたりと止まった。


 今日の出来事を振り返っての感想。


 ただそれだけだった。


 ただそれだけのことのはずなのに、私の手は止まっていた。


 今日、私にとって特筆して挙げるべき出来事は何かあっただろうか。あっただろう。元特待科と言われたことだ。それを書く? ここで? 他には、何かあっただろうか。漠然と授業を受け、昼休みに誰かと話すわけでもなく、放課後はこうして時間を潰している。


 ピアノがあったときはどうだっただろう。

 常に頭の中はピアノのことでいっぱいで、他のことを考える余裕なんてなかった。ひたすらに自分との戦いで、余裕はなかったけれど確かにそこには何かが詰まっていて、充実した時間だったように思う。


 今はどうだろう。昔の私が見たら、どう思うだろうか。たった数ヶ月しか経っていないのに劇的に変わった私の生活は、今日という日の感想を紡ぐことすら出来ない。


 そんな真面目に考える必要はないとわかっている。所詮学校の提出物だ、適当にでっち上げてしまえばいい。そんなことはわかっているのだ。


 ただの空欄を埋めるための言葉が全く出てこない。シャープペンの芯は紙に押し当てられるだけで、気づかないうちにぽきりと折れてしまっている。


『沙織は固すぎます』


 昔、西園寺から言われたことを不意に思い出す。


『隙間まで埋めないと気が済まないんでしょうね。ガチガチに固めて、そうすることでやっと落ち着く。その固める何かがあるときはいいですけど……なくなったら、どうなるんでしょうね。少し気になります』


 当時はよくわからなかった。大人びて変なことを言う西園寺。今なら少しだけその意味がわかるかもしれない。何となく、今みたいな状態の私を指して言っているのだろうな、と思った。


 教室のドアを開けると宣言通り委員長はそこにいた。別の作業をしているみたいで、その手を止めてこちらを振り返る。


「書き終わったんだ? ありがとう、持ってきてくれて」


「や、別にいいけど」


「助かったよ。もうすぐ先生たち、部活に行っちゃうからさ。持っていくね」


 委員長は席を立ちあがり、教室から小走りに出ていく。教室から出る直前、こちらの目を見て「また明日ね、早川さん」と言った。


「え、うん。また、明日」


 日誌は確か委員長がチェックした後に担任に提出する、ということになっていたはずだ。私の書いた日誌を、委員長はイヤでも目を通すことになる。


「怒られそうだな、委員長は真面目だから」


 私の日誌を見た委員長の反応が少しだけ気になった。



 〇



 翌朝、教室に入ると委員長の姿が一番に目に入った。意識しているみたいで何だか落ち着かない。


「これ、日誌ね。しおりを挟んであるところが今日のページ。よろしくね」


「ありがとー。委員長ってさぁ、抜けてると思ってたけど案外ちゃんと委員長してるよね」


「うん? どういう意味?」


 昨日のページをめくってまでわざわざ私にいちゃもんを付けるようなことはないだろう。そこまでみんな暇じゃないし、私に興味はない。けれど背中を冷汗が伝った。出来るだけ余計な火種は抱えたくない。


「おはよう、早川さん」


「……おはよう、委員長」


 何か言われるかな、と思って身構えたけれど、特に何も言うことはなく自分の席へと戻っていった。


 昨日から私に対する委員長の態度が気になる。気になるというよりは、気に食わない。いつもの過干渉な教室での委員長ではないような……やはり委員長のような人柄のいい人でさえ、私のことをよく思っていないのだろうか。今更だから別に構いはしない。


 ただ少し寂しいだけだ。


 いつものように授業を聞き流して、何もない放課後が訪れる。


 教科書ノートなどを鞄に入れて帰宅の準備をしていると、気になる会話が耳に入った。


「用事出来ちゃってさぁ、日誌持っていけないかもしれないんだよね」


「ま、明日の朝でいいんじゃない? 千歳さんが何て言うかは知らないけど」


「そうなんだよねぇ」


 そんな会話、普段なら耳に入っても右から左に流して終わりだ。だけど今日は少し気になることがある。


「あの」


 適当に話しかける。変なヤツだと思われたかもしれないけど今更なのでこの際気にしないことにする。


「よければ日誌、持っていこうか、委員緒に。忙しそうだし」


「そう? ありがとー。お願いできる?」


 本当に忙しいのだろう、あっさりと私に日誌を渡した。彼女たちが教室を出ていったのを確認してから日誌を開く。しおりの挟んであるページの一つ前が私の書いたもののはずだ。


 ページを開く。


 そこには『委員長と花瓶の水の取り換えをした』というなかった出来事が確かに書かれていた。当たり障りのない出来事。それがなかったということを除けば。


 なぜこんなことをしたのだろう、という疑問が湧く。私と委員長は親しいわけではない。むしろほぼ話したことがない。空白のまま放っておけばいいものを、どうしてわざわざ。


 考えても答えが出るはずがない。なら直接聞く他にないだろう。委員長と私以外の生徒が教室から出払ったあと、私は委員長に話しかけた。


「あのさ」


「待ってたの? 別にいつでも話しかけてくれていいのに」


 相変わらずころころと笑う。悪意なんて微塵も感じさせない。こんな人に何か疑いを向けるのがバカバカしくなってくる。


「昨日の日誌のことなんだけど……」


 そう話を続けようとしたとき、委員長のやっていることの方に気を取られて思わず言葉を切ってしまう。


「えっと、何やってるの?」


 床にバケツとじょうろ、棚の上には花瓶が置いてある。ちょうど委員長はじょうろを持とうとしているところだった。この教室に花瓶なんてあったか、と思い返してみる。それらしき記憶はなかった。


「もう十月だけどまだ暑い日もあるし、みんな涼しさが欲しいかなって思って」


 よくわからなかったけど、ニコっと笑いかけられたのでこちらも薄く笑みを浮かべる。その流れで「バケツ、持っていてくれるかな?」と言われたので素直に持つ。片手だけで持つと存外に重い。正直、花瓶に水を入れるだけならバケツはいらないのでは? と思ったが何も言わないことにした。詳しくないだけで必要なのかもしれない。


「これも委員長の仕事?」


「そんなところかな。クラスの中は居心地がいい方がいいしね」


「ふーん、そうなの」


 委員長の仕事とか関係なしに、趣味でしていることみたいだった。


 バケツを傾けてじょうろに水を流し込む。注がれた水が委員長の手で花瓶へと移された。花瓶の中で反響する静かな音。音が変わっていく様が心地いい。


 花瓶いっぱいに水を入れて、委員長はこちらへ向き直る。


「日誌のことだけど、早川さんのところは埋めておいたよ」


「え?」


 唐突に話題が元に戻って面食らう。思考が少しだけ止まった。


「感想のところが白紙だったから。チェックしたらすぐわかったよ」


「……どうして?」


「楽しくないのかな、って思って」


 相変わらずニコニコと笑顔を浮かべている。そんな委員長に、千歳あゆという人間に対してなぜだか無性に腹が立つ。


「別に楽しくないわけじゃない。それに、ずっと笑顔でいるのって疲れるでしょ?」


 苛立ちがそのまま言葉になって現れる。こんなこと言いたいわけではない。もっと、違う言い方があるのに。西園寺とのバカらしい応酬が癖になってしまっている。


 一瞬目を丸くしたけれど、そんな委員長が返す刃も鋭かった。


「ずっと無表情でいる方が、きっと疲れちゃうよ」


 それは、誰のことを言っているのだろう。


「早川さん、あのときからずっと表情が変わってなくて。だから楽しくないのかなって。あんなことがあった後だし、仕方ないかもしれないけど、日誌には楽しかったことが書かれているかなって期待してたんだ」


 ごめんね、と委員長は謝る。


 ずっと見ていたんだ。周りを、クラスを、私も。

 私はどうだ? 見えていたか、周りが、クラスが、自分が。


 少なくとも私は委員長のように、人の表情まで細かく見ることはほとんどない。


「早川さんに楽しいことがないなら、わたしがそこにいれば少しくらい賑やかしにはなるかなって思った。それだけなんだ」


 言い終えた委員長は満足げな顔をして、やはり笑っていた。


「……委員長が謝ることじゃない、ごめん。カッとなった」


「いいよ別に。勝手なことをしたのは本当だもん」


「だって嘘だもんね」


 話を聞いていて気になったところをつついてみる。そうすると委員長は慌てた様子で言葉を考えていた。


「で、でもほら、今日手伝ってくれたでしょう?」


「バケツ持っただけだけどね」


 毒気が抜かれてしまった。苛立ちは焦りとか、嫉妬のようなものだったのかもしれない。そんな感情を表に出してしまったことが恥ずかしい。委員長は少なくとも自分を持っていて、煌めいているように見えていたから。


「これ、今日の人の。忙しいらしくて預かった」


 建前の目的をこなす。委員長の笑顔の前だとそれさえも見透かされているようで落ち着かない。恥ずかしいという気持ちすら見抜かれていそうだ。


 準備を済ませていた鞄を手に取り、教室を後にしようとする。


 最後に一つ、気になったことを聞いてみることにした。


「私を見て、空っぽだと思わなかった?」


 彼女は不思議そうな顔をして、こう答えた。


「早川さんが空っぽなら、そこに何だって入るってことでしょう?」


「そっか。ありがとう」


 今度こそ教室を出て、後ろ手に扉を閉める。窓から差し込む西日がまだ少し熱く、廊下を焦がしている。そのまま光の線に沿って私は帰路に就いた。


 ふと教室の方を振り返る。


 どうしてあの花瓶、水しか入れなかったんだろうな。



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その花瓶を満たすのは 時任時雨 @shigurenyawa

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