その花瓶を満たすのは

時任時雨

第1話

「中原さん、ちゃんと掃除してください! ほら隣の中村さんも! みんなでやった方が早く帰られるよ!」


 委員長の声が響く中、私は机を持ち上げる。ちょうど委員長の机で、その机はやけに重かった。ちらと見てみると教科書がたくさん詰まっている。真面目な委員長らしいなと思うが、あまりにも重い。後ろのロッカーに入れるなりなんなり対策してほしい。

 他にもほうきで床を掃いたり雑巾がけをしたりしているうちに掃除の時間は終わり、委員長がやりきった表情で締めのあいさつをする。


「皆さん掃除お疲れさまでした。また明日からもがんばりましょう!」


 元気が余っている委員長の姿を横目に見ながら、私は帰りの支度を済ませてある鞄を手に取り教室を後にした。真面目で元気、疎まれそうだけど委員長は皆から好かれている。私とは大違いだなと思った。


 チャイムが鳴る。放課後の合図だった。暇になったのでいろいろとやってはみるものの、それが自分のやりたいことでなければ時間は空気に溶け込むように希薄になっていく。椅子を折り畳んで片づけるように、毎日は日常という形に淡々と収まる。

 今日は売店に行ってみた。もう閉める直前だったようで、売店のおばちゃんからイヤそうな顔をされたけど気にせずにパックのコーヒーを買った。ストローをさしてのどに流し込む。


 久々に飲んだけどやっぱりおいしくない。苦いだけだった。


 苦いものでも飲んで気を紛らわそうと思ったけど逆効果だった。だっておいしくないから。余計と気が滅入ってきて、昨日のことを思い出してしまう。

 この学校は私立の女子校で、近隣の人たちからは冗談混じりに『お嬢様学校』なんて言われていたりする。その所以は今私が所属している普通科ではなく、特別推薦で入学してきた人が集う『特待科』の存在だった。言語、スポーツ、バレエといった様々なことで記録を残したり、他にも学校側から勧誘した生徒の集い。

 その特待科と普通科は率直に言って仲がよろしくない。昨日のこともその仲違いが原因で起きたことだった。


  〇


「調子に乗ってるんじゃないわよっ!」


 耳をつんざくような大きな声が一年生教室前の廊下に響きわたる。

 その発生源は私と同じクラスの、少し感情的で活発な性格をした生徒だった。高い位置で一つ結びにした髪が体の動きに合わせて激しく揺れる。


「調子に乗ってなんかいません。もし調子に乗って見えるのなら、あなたがそう見えるような形で自分を認識してるだけでしょう? 私に言い争いをしてる暇はないんです。あなたの勝手な感情に私を巻き込まないでください」


 言い争っているのは特待科の一年生、ピアノでの推薦枠でこの学校に入った西園寺梨香だった。彼女は竹を割ったような性格をしているけど、あまりにも直截に物事を言いすぎるため、相手を無自覚に煽ってしまうことがよくあった。今回もそういうことらしい。

 こういった普通科と特待科のいさかいは日常茶飯事で、多いときで週に二回は学校のどこかで見られる光景だ。だから先生たちも特に注意するわけでもなく、問題が尾を引きやすい。


「あなたね、特待科だからって偉いわけでもなんでもないでしょ!」


「そういうことは言ってませんが……」


 そんなことを考えている間に彼女たち、というよりも同じクラスの女子はどんどんヒートアップしていく。下手したら手が出かねないような感じになっていた。暴力はよくない。何故なら暴力沙汰にまでなるとさすがに先生が出てくるし、怪我なんてしたら目も当てられない。最悪停学処分もあり得る。


 それに見知った顔が言い争いをしている様は精神衛生上あまりよくない。しかしいさかいはどうしても起きてしまう。それはそうだ。多感な時期で価値観も一人一人違う女子たち、それを一緒くたにまとめていさかいが起きない方がおかしい。法則でもあるかのように、それは必然として起こるだろう。


 言い争いを終わらせる方法はあるのだけど、あまり気が進まない。私が薄情だから、というわけではないと思う。誰だって周りのことよりも自分のことの方が大切だ。身を切るようなやり方を積極的に好む人というのはそうはいない。

 そして私は、たぶんそうはいない人間なのだろう。なんだかんだと思いつつ、結局は仲裁しに向かうのだから。


 肩をトントンと叩きながら声をかける。


「そのへんでやめときなよ、西園寺」


「あら早川さん、久しぶり」


 何事もなかったかのようにあいさつをしてくる西園寺が末恐ろしい。自覚のない煽り屋とは厄介にもほどがある。火種を抱えたまま走るオシャレな車といった印象を受けた。


「私たちみたいなの、相手にしてるだけ無駄なんじゃない。練習にいった方がいいよ」


「それはそうですね。私にとっては話すよりも鍵盤を叩く方が有意義な時間になります」


「じゃ、行ったら。音楽室。他の人も待ってるでしょ」


 納得の表情を浮かべる西園寺。言っていることと本心の乖離が少ないから扱いやすくて助かる。他の特待科の生徒だとここまで簡単にはいかない。プライド高い人が多いから、私のような人に話しかけられることをよしとする人は少ない。

 一端特待科の教室に戻ろうとする西園寺を見て安心したが、しかし教室に入る直前、西園寺はこちらをまっすぐに見据えてこう告げた。


「私は自分を下げるような発言は嫌いです、沙織」


 昔の呼び方を使うことに、何の意味があるのだろうか。教室の戸はいつもより乱暴に閉められたように感じる。それから少し間が空いて、言い争いをしていた活発なクラスメイトからも声をかけられた。


「ご仲裁、どーもありがとうございました。元・特待科さま」


 皮肉しか込められていないそのお礼の言葉に、私は「どういたしまして」と返した。面白くなさそうな顔で彼女は自分の教室に帰っていく。やはり教室の戸は乱暴に閉められた。

 こうして二人の間で起きていた言い争いはなくなり、後には二人から嫌悪を向けられた私が残る。もっと器用なやり方があると思う。けれど私はこれ以外の方法を知らなかった。空っぽな私にほんの少しでも詰まるものがあるなら、今はそれいいと思う。

 それが嫌悪であれ、何であれ、何もないよりはマシだから。


  〇


「元・特待科か……事実だけど改めて言われるとキツイものがある」

 どうせこの時間、他の人は部活やら遊びやらで忙しい。閉まった売店の前で時間を潰す暇人は私だけだ。独り言くらいなら何も問題はない。


 少しだけ冷たく感じる風が肌を撫でる。もう十月、私が特待科ではなくなってから既に三ヶ月ほどが経過していた。


 ピアノの特別推薦枠は二人。一人は西園寺で、もう一人は私だった。昔からの顔なじみが同じ推薦枠でいるということに多少の安心感を覚えながら、私は特待科で穏やかに、けれど充実した毎日を送っていた。放課後は遅くまで鍵盤を叩いて、合唱部の練習に呼ばれたりもして。西園寺と切磋琢磨して。ピアノが常に私を埋めていた。


 これから本格的に高校生活が始まる、そんな時期にそれは起こった。


 六月、雨続きの通学路。目の前の信号機は青色をしていたと思う。今となっては確認のしようがないけど、そのときに見た最後の信号は確かに青だった。

 道路の横断中、私は車にはねられた。

 左手、左腕、右足の骨折程度で済んでよかった方なのだろう。あれだけ派手にはねられて命がある。運がよかったのだ。

 ただそれはあくまで不幸中の幸いだ。不幸なことに変わりはない。事実、私の手は日常生活を送れる程度には回復したけれど、ピアノを弾くことが出来なくなってしまったのだから。


 特別推薦の生徒がピアノを弾けなくなるという事態は初めてなのだろう。話し合いが何度か行われ、結論として私は普通科に移ることになった。別にそれはどうでもいいのだ。特待科であることに優越感を覚えていたわけではないし、ふつうかに不満があるわけでもない。

 ただ私は普通科からは『元・特待科』という扱いを受け、特待科からは『普通科に落ちた』と見られるだけ。どっちつかずの半端者で、まるで物語の主人公になったような気さえしてくる。


 それもどうでもよかった。


 特待科、普通科というくくりは関係ない。私のおおよそを埋めていたピアノという要素が、私から抜け落ちてしまった。唐突に奪われたそれは容易に埋められる穴ではなく、穴は今でも私を覗き込んでいる。

 底の見えない穴。それがずっと心の中に居座っていて何とも気持ち悪い。

 意識しなければ自然と閉じていくはずのその穴は、『元・特待科』だとか『特待科くずれ』だとかいう言葉で無理矢理に意識させられてしまう。

 いさかいに割って入る度に言われる。何なら割って入らなくても言われる。傍から見ても空っぽな人間だ。そんなことを言われても仕方がないと思う。


『私は自分を下げるような発言は嫌いです』


 今日告げられた西園寺からの一言が脳裏をよぎる。


「私にどうしろと」


 それでも私は生きるしかない。生きる糧を失ったとしても、死にたくないから。

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