第二十一話 あなたらしい歌声で

 長くも短くも感じた夏休みが終わり、暦は九月に入る。

 まだ暑い日の続く中での授業再開に、生徒からは少なからず不満の声が上がったものの、それと同じ数だけ喜ぶ生徒も見られた。寮生活の退屈さや積まれた課題との別れ、そして最たる理由として、九月から年末にかけては、毎月学校行事があるのだ。


「九月は合唱コンクール~、十月んなったら体育祭~、そしたらその次文化祭~!」


 移動教室の合間、芽衣と杏梨が跳ねるように歩きながら機嫌よく口ずさむ。その通り、九月末には校内での合唱コンクールが開かれ、音楽の授業はそのための練習に宛てられていた。

 普段の扱いが扱いであることもあり、この連続した学校行事は生徒の数少ない楽しみとなっている。

 しかし、全ての生徒がそうでないことも確かだ。跳ねる二人を見ていた舞華は、ふと自分たちの後ろで肩を落として歩く律軌を見つけ、顔を覗きこみながら声をかける。不機嫌そうであるが、顔色は悪くない。


「律軌ちゃんどうかした? 体調悪い?」

「別に、そういうのじゃないけど」

「あー、合唱とか好きじゃない感じ?」

「それもそうだけど……あの人苦手なのよ」



 音楽室は、他の教室と比較して三倍近い広さを誇る。やたらと種類豊富に揃えられた楽器を置いていることもあるが、合唱や演奏をより本番に近い状況で練習するために、教室全体に三段の段差が設けられた造りとなっているのだ。

 そして、そこに集まった生徒へ教鞭を振るうのは


「さっ! 一年の練習はもうあと五日。三日で仕上げる気で行きましょ!」


 音楽の担当、三年二組の担任、宮野智治みやの ともはる。生徒人気の非常に高いこの教師、何を隠そう心は女性なのだ。

 スーツが逆に似合わないと言われるほどの高身長と、細めのラインながら美麗に引き締まった筋肉。おまけに顔立ちは「結構キレイ」との評価を受けるくらいに整っている。そして何より面倒見がいい。

 そんな訳で生徒から好かれているのも確かだが、教員とは思えない濃いキャラクターから苦手意識を持つ生徒も少なくない。


「ソプラノはほとんど完成、これは優乃ちゃんのおかげね。全体がキュッと引き締まっててすっごくイイ! メゾソプラノも仕上がってきてるから、皐月ちゃんを中心に細かいトコ直してって頂戴。で、アルトはあとも~~~少し足りない部分があるから、アタシが付いて見てるわね。それじゃ開始!」


 多くの場合、女性のみで行う合唱は三部合唱と呼ばれる三パート構成のものになる。

 それぞれ高音のソプラノ、それに次ぐ中音域のメゾソプラノ、低音のアルトというように分かれ、このうちソプラノに優乃、杏梨、美南、メゾソプラノに皐月、芽衣、舞華。アルトに律軌と彰子が振り分けられる形となっていた。

 元より実力の高い優乃を中心としたソプラノは、早い段階で完成に近づいており、宮野からの評価も問題なし。メゾソプラノにおいても皐月が非常に高い素養を見せ、平均の底上げに一役買っていた。

 しかしアルトが問題で、このクラスでは低音域を得意とする生徒が少ないことと、優乃や皐月のように飛び抜けた歌唱力と教え上手を備えた生徒がいないことで、あまり力を出しきれない状態が続いていた。

 宮野を前にして歌う中、律軌は棒読みのような歌声をとりあえず出して、事の成り行きを見守る。

 歌声が収まってすぐに、宮野は彰子の元へ歩いていき、一言断ってからその肩をそっと掴みながら話しかけた。


「ん~、彰子ちゃんはアレね、ちょっと肩の力が入りすぎ。もう少しリラックスして歌ってみて?」

「んぐぐ、難しかもんばい……」

「で」


 彰子の肩を掴む宮野と目が合ってしまい、思わず逸らす。律軌はこの宮野が苦手だ。テンションの高い人間であるというのもあるが、今までの人生で出会ったことのないタイプの人間なためできるなら関わりたくない。

 しかし、願って叶うことではない。ちょうど良かったとばかりに宮野は靴音を鳴らしながらこちらへ歩みを進め、笑顔のまま語りかけてくる。


「律軌ちゃんは声がちっちゃいのがネックね。いい声してるんだからもっと自信持って!」

「……はあ」

「お腹に力入れてね、キュッて引き締める感じ。普段声出さないかも知れないけど、頑張ってみて」


 なぜかはわからないが、話している間は妙に緊張してしまう。距離感を掴み損ねているからか、それともやはり接しづらい相手だと感じているのだろうか、自分でもわからない。

 そのうえ、律軌は合唱など苦手もいいところであり、意識的に大きな声を出すこともそうないために自分の気持ちを合わせられずにいた。

 これが璃愛りあであれば、高評価を受けずとも無駄な指導は避けようとそこそこの努力を見せていた。それが実を結ぶかはさておき、彼女なら「避ける努力」をする。

  しかし、律軌は違った。これまでの十六年における対人経験の少なさも手伝って、彼女は苦手なものを回避する方法を知らず、ことコミュニケーションにおいては人一倍無知であった。


「……わからないわ」


 拗ねたように髪を指で梳かしながらひとりごちる。まだ問題は解決の兆しを見せないようだ。

 そんなアルト組の様子を遠目に見ながら、ソプラノ・メゾソプラノ組は全体を合わせていた。指揮者の位置に優乃と皐月を置き、中心となる人物が欠けていても問題なく歌声を整えられるのかを見ている。

 元より厳格な部分のある二人は、まるで審査員でも務めているかのような緊張感を相対する生徒に与える。目を閉じて聴くことに集中しているのもまた、合わせというよりテストでもしているかのようだった。

 ―――歌声が収まったあと、少しの間を置いて優乃が目を開く。


「合格点です。これならきっと、上級生にも負けない成果が出せますよ」

「私からも、指摘する点はありません」

「おっしゃ!」

「いえーっす!」


 思わぬ高評価に、生徒たちは声を上げて盛り上がる。杏梨と芽衣はハイタッチして抱き合い、美南はほっと胸を撫でおろした。

 義務教育の間に経験があったとしても、普段から歌わないのであれば合唱のために身につけた事柄は忘れられてしまう。そのため、どうあっても最初はバラバラの状態から始めなければならない。

 そこで幸いとなったのが優乃と皐月の存在だった。個々の歌声を聴き分け、適切な指導を行うことで、まずまずの出来を磨き上げられたレベルまで持ち上げることに成功した。

 練習の成果にクラスメイトたちが湧き上がる中、優乃は席を立ち舞華の元へ歩み寄る。


「お疲れ様です」

「ゆのちゃんこそ。ここまで大変だったでしょ」

「そんなことないですよ、皆さん要領が良かったものですから」


 謙遜はしたものの、溜飲が下がったこともまた間違いはない。自分の得意分野だからと言って、多くの人間をひとつの基準に収めるよう指導するのは難しいことだ。当初は不安の大きい課題だったが、なんとか手応えを感じることができた。

 しかし、これで全てが終わった訳ではない。宮野の指導を受けながら四苦八苦するアルト組へ目をやり、頬に手を当てため息をつく。


「向こうは苦戦してるようですね」

「だね。律軌ちゃんとかこういうの苦手そうだし」

「なんとか、形になるといいんですが」



「はいっ、今日はここまで。次の授業からは、優乃ちゃんと皐月ちゃんもアルトの指導に付き合ってもらうわね。みんな今日覚えたこと忘れないように。解散!」


 三十分後、宮野の号令で生徒たちは教室へ帰りはじめる。疲れや不出来から露骨に肩を落として歩く律軌と彰子には、舞華が付き添って話を聞いていた。

 そんな中ひとり、優乃は宮野に呼び止められる。自分も職員室に行くし、と歩きながら言葉を交わす相手を探していたようだ。

 並んで廊下を歩きながら、宮野は柔らかな笑顔と声色で優乃に礼を言う。


「おかげで助かったわ、ありがとね」

「いえ、全体のことですし」

「ううん、教えるの上手だから出番なくて参っちゃったわよ。中学の時もやってたの?」

「……いいえ、始めてです」


 他愛もない質問に、少し目を逸らして答える。その様子を見てか宮野も言葉を止め、少しの間沈黙が流れた。

 何か次の話題を、と少し慌てる。わかりやすい反応を見せたせいで、空気を悪くしてしまった。思わず、教科書を握る手に力がこもる。

 しかし何を話せば、と考え出すのと同時、宮野が先に口を開いた。先ほどと違って、落ち着いた声色で諭すように言う。


「アタシも、一年のみんなも助かってる。今に胸を張っていいのよ」

「先生……」

「それに、ちゃんと自分に自信を持てなきゃ、いざって時にチャンス逃しちゃうわよ?」

「ふふ、なんの話ですか」


 緊張が解けたことも、予想だにしていなかったこともあってか、この時の優乃はを冗談として受け止めることができなかった。

 返答を受けた宮野はきょとんとした顔で、さも当然のように問いかける。


「好きなんでしょ? 舞華ちゃんのこと」

「―――はぇ?」


 閑散とした渡り廊下に、空気の抜けたような間の抜けた声が響き渡った。



 昼休み。いつも通り二人で昼食をとる優乃と皐月だが、今日は様子が違った。


「……気付いていなかったのですか」

「なんですかその顔はっ!」


 周囲に……特に舞華には気取られないように、優乃は強く言い返す。

 優乃としては、ただ宮野に言われた言葉を話の種として出しただけで、悪い冗談を言われたとしか思っていなかった。しかし、それを聞いた皐月は心底驚いた顔で言葉を漏らす。

 実際、皐月からしてみれば、今まさに顔を赤くして声を荒げている優乃に自覚がないとは思えなかったため、完全に素で驚いているのだが。

 当人に自覚がないのなら仕方なし、と皐月は箸を置き、頬を引き締めて言葉を紡ぐ。


「ですが実際、かなりわかりやすいかと」

「っ、私がですか」

「ええ。私と話していても舞華さんの話題は多いですし、よく視線は送りますし」

「それは……付き合いの問題で」

「あだ名で読んでいるのは舞華さんだけですよ?」


 反論を潰す勢いで淡々と自覚していなかったサインを告げられ、優乃は行き場のない感情に襲われた。何かに当たる訳にも行かないため、目の前の弁当をとにかく口に運び咀嚼する。もはや味もわからない。

 自分の感情がどうであれ、他者から見ても容易に想像がつくような立ち振る舞いをしているというのは、まるで好きですと言って回っているようなもの。彼女でなくても恥ずかしい話だ。

 それに、そう見えると言うことは自覚がないだけで本当に舞華を―――


「んぐ!」

「大丈夫です?」

「……舌を少しひたをふこひ

「噛んでしまいましたか」


 どうにも思考に意識を持って行かれてしまう。食べ終えるまでは考えないようにしよう。そう考えながらも、優乃は釈然としない表情で速度を落として咀嚼を続ける。

 そんな様子を見ながら、皐月は密かに微笑んでいた。

 ―――可愛いところがあるんですね。


「……人のこと言う前に、皐月さんはどうなんですか」

「芽衣は親友です。友情はあっても恋慕はありません」

「むぅ」



「ゆのちゃーん? おーい」

「ふあい!?」

「うぇ、っとと、通り過ぎてる」


 夕飯の買い出し中も、二人から指摘されたことが優乃の思考を阻み続けている。それにこれが一人ではなく、問題の舞華と一緒なのだから大変。顔を覗き込まれ大声をあげてしまった。思わぬ反応に舞華も後ずさる。

 明らかに朝と比べてどこか上の空。そんな露骨な変化は舞華もすぐに感じ取っていた。

 ―――最近二人とも調子よくなさそうだな……

 優乃の様子に加えて、今朝の律軌も心配になった舞華は、よし、と小さく呟いて優乃に問いかける。


「今日は律軌ちゃんと三人でご飯食べよっか」

「え、あ……はい」

「うんうん、今律軌ちゃん誘うね」


 舞華が律軌に向けて念じるのを聞きながら、優乃は余計な心配をさせた、といたたまれない気持ちになった。普段から三人で夕食をとることは少なくないのだが、今日は明らかに心配させたことが原因だ。

 上手く感情が処理できず、もどかしさからカートの持ち手を強く握る。自分はここまで簡単に動揺するような人間だったのか、と大きくため息をつき視線と肩を落としていると、後ろから声をかけられる。


「あら、優乃ちゃんに舞華ちゃん!」

「宮野先生……」

「あ、先生こんばんは~」


 優乃からすれば、今日の不調の元凶である宮野がそこにいた。思わず睨みをきかせそうになったものの、相手に悪気はないのだからと思い直し、なんとか堪える。

 宮野は数点の食材が入った買い物かごを持ったまま昼と同じ調子で話を続け、舞華も笑顔でそれに返す。スタイルのいい宮野とスーパーで買い物という状況はどこかミスマッチにすら見えた。


「これから二人でご飯かしら?」

「律軌ちゃんも今誘ったところです」

「あらあら、仲良しでいいじゃな~い!」


 他愛もない話をする舞華と宮野を横目に、ばれないようため息をつく。今朝までは舞華と普通に話せていたのに、今では顔もまともに見られない。

 ―――別に、好きと決まった訳でもないのに。

 心の整理がついていないだけ、と何度も言い聞かせてみるも、気持ちは一向に落ち着かない。むしろ心臓は嫌な早さで動くばかりだ。

 そんな中、宮野がおもむろに背後から歩み寄り、ひっそりと問いかけてきた。


「どう、上手くいきそう?」

「っ!」


 反射的に本気で睨み返してしまう。誰のせいで今こんな気持ちに、という行き場のない怒りをついぶつけてしまった。

 しかし、鋭く細められた目はすぐに大きく開き、息を呑むことになる。奇しくも、強く睨んだことがきっかけとなり優乃は気付いた。

 宮野に悪魔が憑いている。


「っ……!」

「あらら、そんな怖い顔しないで」

『まいちゃん!』


 こうなれば何に構っている暇もない。今の今まで気付けなかったということは、それだけの力を持った悪魔である危険性が高い、ということは、舞華やロザリオから聞いている。

 感じた力からするに、今夜すぐには出てこない、だが対処が遅くなってはいけない。優乃からの念を受け取った舞華はすぐに事情を察し、強く頷く。それから一度深く呼吸を整えて、笑顔を作り宮野に言った。


「せっかくですし、先生も一緒にどうですか? ご馳走しますよ!」

「え、いいの? それじゃご一緒して自慢の料理、いただいちゃおうかしら!」



『……姫音舞華』

『あー……』

『居心地が悪いわ』

『えーと、ごめん。耐えて』


 四十分後、舞華の部屋。出来上がった回鍋肉ホイコーローを盛り付けながら、舞華は背中に刺すような視線と念話の直接攻撃を受けていた。

 律軌としては、舞華の料理を食べられるということで足取り軽く来てみれば苦手とする宮野がいた、という状況のため、夕飯のために引くにも引けず、聞けば悪魔が憑いているということで恨むにも恨めず、やり場のない感情から口を尖らせ露骨に不機嫌な顔になっていた。

 誤魔化すように舞華はそそくさと皿と茶碗を並べ、熱いうちに食べるよう促す。


「いただきまーす……いい香りね~、ごま油使ってる?」

「はい、塩分控えめで」

「…………」

「律軌さん、ちゃんと噛んでから飲み込んでください」


 さっきまでの不機嫌はどこへやら、あるいは不機嫌だからこそなのか、律軌は黙々と箸を進める。その速度の早いこと、ろくに噛まないうちに喉奥へと流し込んでしまうので優乃は苦言を呈した。

 こっちはそんな気分じゃないと無視しかけた律軌だったが、優乃にじっと睨まれると途端にぴたっと動きを止め、冷や汗を流しながら数秒間口だけを動かし、しっかりと咀嚼してから飲み込んだ。

 まったく、と嘆息し優乃は食事を始めながら警告する。


「そのうち喉に詰まらせますよ?」

「まーま、これだけ美味しかったらがっついちゃうわよ。ねぇ?」

「……んぐ」

「もう詰まってない……?」


 実際のところ、宮野の言葉にどう返したらいいかわからず適当な音を出しただけなのだが。律軌は詰まったふりをしたまま麦茶を飲んで誤魔化した。

 一見すれば、平和な食卓の風景。しかし今はゆっくり食事をしている場合ではない。舞華は優乃にそっとアイコンタクトを送ると、宮野に探りを入れるため話を振る。


「にしても先生、この時期大変そうですよね」

「んー? まあねぇ。うちは生徒多くないから、よその中学高校よりは遥かに楽だけど」

「大変なことに変わりはありませんよ。ストレスとか、溜め込んでませんか?」


 相次ぐ疑問に何かの思惑を感じ取ったのか、宮野は箸を止めると舞華と優乃の顔を交互に見る。それからふっと笑うと、箸を置き麦茶の注がれたグラスを手に取った。

 憂うような視線の痛みに耐えながら、グラスに映る自分の顔を一瞥し、自嘲気味の笑顔で言葉を紡ぐ。


「生徒に心配されちゃうなんて、アタシもまだまだかしらね」

「あ、いえ、そういう訳じゃ……」

「いいの。この季節になるとどうしても悩んじゃうから」

「悩み、ですか」


 話を引き出すことには成功した。思わず全身にこもっていた力が少し抜けていく。

 舞華と優乃も、つられるようにして箸を進めるペースが遅くなる。律軌だけがペースを落とさず咀嚼を続ける中、宮野はまるで酒でも飲むかのように麦茶を一口流しこみ話を続けた。


「アタシね、優柔不断なのよ。うちって結構行事の勝ち負けを気にする先生多いじゃない?」

「ああ……」


 合唱練習が始まる日、担任の間宮がやけに気合いを入れて臨むよう念押ししてきたことを思い出す。単に間宮が勝気なだけかと思っていたが、そうでもないらしい。

 密かに、律軌は勝ち負けの押し付けが来月も続くことを悟り、箸を進めながら辟易とした。


「当然ね、アタシもクラスの子たちに勝って欲しいわよ。でもね? 頑張ってるのはみんな同じ。やりたくなくたって参加してくれる子たちもいる……結局、みんなに勝ってほしくなっちゃうのよね」

「……それで心を痛めるほど悩んでしまうんですか?」


 優乃が思わず漏らした言葉に、おかしい話でしょ、と言わんばかりに宮野は笑みを向ける。自分でも理解はできており、だからこそ余計に辛く感じてしまうのかもしれない。口に出すべきではなかったと思い、優乃は背を丸めて目を逸らした。

 少しの沈黙。グラスの中で氷が立てた音だけが、どこか侘しく響いた。空気が重みを帯び始めたタイミングで、舞華が口を開く。


「千の倉より子は宝、って言うじゃないですか。そうやって本気で悩んでくれる先生だから、みんな信頼して、ついていけるんだと思いますよ」

「……なに?」

「どれだけ多くの財宝でも敵わない、子供は何より大切な宝物。という意味の言葉です」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない。そうね、アタシにとって生徒たちはみんな宝物。卒業してった子も、これから入ってくる子もみんなそう。だからこれは、嬉しい悩みでもあるのよ」


 生徒思いが故。その思い悩みが悪魔に付け入る隙を与えてしまっていた。

 杏梨の時と違い、解決できるような問題ではない。それでも、話すことによって少しでも宮野の気が和らげばそれに越したことはない。こちらの目的は果たすことができたと言えるだろう。

 話を終えて雰囲気を和らげるためにも、そろそろ食事に戻ろうと舞華が箸に手を伸ばしたその時。宮野も空気が重いと感じていたのか、わざとらしく手を叩いて明るい口調で言った。


「そう、あとやっぱり距離感ね! この間二年の子にボソッとうざいって言われちゃって。やっぱりアタシのこと苦手な子と距離詰めて指導するのはお互い気まずいわよね~」


 一人だけずっと同じペースで動いていた律軌の箸が、ぴたりと止まった。止まったはずの冷や汗がぶり返してくる。

 思わず向けられた気まずそうな舞華の視線と、何かを察して様子を見るような優乃の視線を浴びながら、律軌は辛うじて念じた。


『姫音舞華』

『……うん』

『居心地が悪いわ……!』

『いや本当、なんか……がんばって』


 宮野の与かり知らぬところで事態は変に悪化したが、幸か不幸か、当人がそれに気付くことはなかった。

 全身から汗が滲むのを感じながら、律軌はひっそりと視線を落とす。何か飲んで落ち着こうとするも、見るからに手が震えている。今、宮野に怪しまれる訳にはいかない。

 話す口調を見るに、宮野も話の終わりに冗談で済む雑談を入れただけだろう。が、それはそれ、これはこれだ。


「そもそも喋るのが苦手な子もいるじゃない? そういう子たちとどう接したらいいか、永遠の悩みよねぇ」

「先生、まだ若いんですから。悩むってことは本気だってことだし、伸びしろってことだと思いますよ」


 少し焦りながらも、なんとか舞華がフォローに入る。続いて優乃が再度箸を手に取り、食事を再開した。

 それにならって宮野と舞華も食事に戻り、話はそこまでで終了となる。律軌も慌てて残った米と回鍋肉を口に運び、詰まらせた。



「美味しいご飯ありがと、それじゃまたね」

「また食べにきてください」


 食事が終わり、宮野は職員寮へと帰る。舞華はついでだからとタッパーに入ったおかずを手渡し、優乃と律軌は見送りが終われば後片付けを手伝うという手筈になっていた。

 部屋に入ってきた時と比べて、宮野に憑いた影は少し薄くなっている。今回は解決できるような問題ではないが、できるだけのことをするのに変わりはない。

 別れ際、宮野は思い出したように言い残す。


「優乃ちゃん!」

「はい?」

「頑張ってね」


 ―――やっぱり一度殴ってでも止めるべきだったろうか。

 密かに怒りに震える優乃の横で舞華はひらひらと手を振り、律軌はただならぬものを感じてそそくさと食器の片付けに退散した。

 少しむくれながら視線を横に移すと、事態の解決に向かったせいか表情を緩めた舞華の横顔が見える。

 その顔を見て何を思ったのかは自分でも定かでない。だが、優乃は自然と言葉を落としていた。


「まいちゃん、ああいった男性が好みなんです?」

「うぇえ!? どしたの急に……」

「別に。親しくされてるなーと思って」

「普通だと思うけど……好みかぁ、考えたこともなかったな」


 部屋に戻りながら、舞華が最後にこぼした言葉。真面目に考え込むようなそれを聞いて、優乃は少し反応した。

 それが自分にとって良い意味なのか、悪い意味なのかはわからない。それでも、どうせ伝える予定のない想いなら。

 ―――今は都合よく解釈して、いいですよね。


「律軌ちゃん早いねー」

「気が気でなかったからよ」

「無理して来ることもなかったんですよ?」

「……背に腹は代えられないわ」

「そんな身を切る葛藤してたの?」


 三人で並んで台所に立ち、食器を洗い始める。その時が来るまでは、彼女たちは少女のままだ。

 日は落ちる。決戦は、明日。

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魔法少女Artist! 天音 ユウ @Amane_you

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