第二十話 思い出すのは影か陽か

 暦は八月十七日。天祥学園の中でも校舎以上の面積を誇る学生寮の、普段は静かな一階広間が今日は騒がしくなっていた。

 一年を通して広間に人が集まるのはほぼ年末―――クリスマスと年越しのみとなっている。規則の上ではいつ集まるも自由、かつ一応はテレビが設置されているのだが、あまり人気がない。

 白い壁にフローリングと、カジュアルな内装の部屋は暖色の照明に照らされ、薄緑のカーペットと低い正方形のテーブルが四つ、二人用のソファ八つほどが設置されている。ソファよりもテーブルの方が低い位置にあるため、あえて勉強には向かない団欒のための場所としているのだろう。

 普段は四つのテーブルがバラバラに置かれ、複数のグループが集まれるようになっているが、今日は全てのテーブルを繋げるように置くことで、物の置き場と人の座る場所を広く取っていた。


『てか、寮に広間みたいのなかったけ?』


 綺麗な割に誰も使わない、その現状を知ってか知らずか、芽衣と杏梨が提案したのが広間を使った舞華の誕生会であった。

 最初は部屋で祝うか外出しようとしていたのだが、試しに参加するかと聞いたところ思った以上の人数が確保できてしまったため予定を変更。更に参加予定のなかった律軌の誕生祝いも兼ねるということで広間は賑やかになっていた。


彰子しょうこちゃんも来てくれたんだ」

「当ったり前や! ライバル同士、激励し合ってこそやけん!」

「あ、あの、姫音さん。御門みかど先輩からも、プレゼント、預かってます」

「うぇっ、綺麗な箱……ちょっと後で開けるね、ここだとやばそう」


 ソファの前でクラスメイトに囲まれ、口々に言葉を投げかけられる。そんな舞華の様子を、律軌は数歩引いた位置に立ち見守っていた。

 彼女からすれば、正直なぜ自分が呼ばれたのかわからない。舞華の誕生祝いなら自分抜きでやればよく、自分の誕生日を―――舞華だけならともかく―――クラスメイトが祝う必要があるのかと。

 しかし、そんな律軌の心配もよそに、舞華に声をかけた面々は次いで律軌にも声をかけに来る。それも混じりけの見えない笑顔で。


「あのっ……宮下さん、も……おめでとう、ございます……」

「宮下んこともしっかり祝うけん、あたいに負けんごと数学頑張りな!」

「はあ……」


 ―――わからない。

 どう考えても、自分に声をかける理由が見当たらない。ほとんど付き添いのようなものであるにも関わらず、みんなして生真面目すぎやしないかと当惑する。

 思い返せば、昔からそうだった。自分から人に話しかける理由が見つからず、他人がなぜ自分に接してくるのかわからず、結果として一人でいることに慣れてしまった。だから誕生日など祝ってくれる人は家族だけ―――


『律軌ー、誕生日おめでとう!』

『おめでとーきぃちゃん!』

『え……』

『お祝いだよお祝い!』

『今日は一緒にプレゼント買いに行こう』

『え、いい……悪いし……』

『遠慮しないの、私も律歌もきぃちゃんが好きで祝ってるんだから!』


「っ……」


 刺すような頭痛。思わず片手で頭を抑えると、すぐに気付いた舞華が人を分けて歩み寄り、肩を叩いた。

 顔を上げる前に、眉間のしわを伸ばして平静とした表情を作る。大勢に心配されるわけにはいかない。そんな空気は、最も苦手だ。


「大丈夫?」

「……ええ」

「体調悪いようだったら言ってね、無理はしないで」

「問題ないわ……あなたこそいいの?」

「なにが?」


 思わず聞いてしまったものの、口を閉じてすぐに視線を逸らす。いらないことをした。

 舞華が純粋に律軌を祝う以外の理由で、この場に律軌を呼ぶことなど有り得ないだろう。少しはわかっていたはずなのに、口をついて本心が出てしまった。

 すぐに訂正しなければ、と思ったものの、瞬時に何をどう言えば? と思考が混線し始める。少し視線を戻すものの、舞華の瞳を直視できずに目を閉じた。


「……いいえ、野暮だったわ。ごめんなさい」

「無理かも知れないけど、気負わなくていいんだよ。友達のお祝いに、深い理由なんていらないし。ほら、鯛も一人は旨からずって」


 予想だにしなかった言葉に、思わずふっと息が漏れる。お見通しだよと言わんばかりに、舞華は口の前で人差し指を立てた。

 あれこれと悩んでいたことが、少し馬鹿らしく思えてしまい、思わず口角が上がる。

 少しだけ、軽くなった自分の背中を押すように、律軌はもう一度深呼吸し、舞華へ笑いかけた。


「……ずるいわね、あなたって」

「えー?」

「なんでもないわ……私も座ろうかしら」


 二人が席に着くとほぼ同時、集まった人をかき分けて一際大きな声が広間に響き渡る。芽衣と杏梨が、二段もあるケーキを持って現れたのだ。

 市販のスポンジにクリームを塗り、カラースプレーやチョコレートソースで少し行き過ぎたくらいのデコレーションが施されたそれがテーブルの上にゆっくりと置かれた。

 芽衣たちは両手を広げて、これでもかとその存在をアピールする。


「んじゃーーーん!!」

「スペシャルバースデースペシャル~!」

「センス雑くねー?」

「スペシャル~!」


 輝かしいまでの笑みを見る限り、相当な自信作なのだろう。褒めて褒めてと表情が語っている。高さにして約九センチ、飾るだけでも簡単な仕事ではない。

 促されたような気になった律軌は、舞華の後を追って呟くことにした。


「おーっ! やるじゃん二人共ー!」

「塗ったのはほとんど皐月だけど、ま細かいことはいっしょ」

「……手作りなの。凄いわね」

「手作りっつーにはちょい恥ずかしーけど、美味しけりゃ問題ナッシン!」


 満足そうな顔でエプロンを外し、ソファへと飛び込む二人。そこへ、美南がやや慌てた様子でペットボトルの紅茶を差し出した。

 律軌は返された言葉を受け、首を傾げてから舞華へ向けて囁く。


「……これは手作りじゃないの?」

「え……まあ焼いてはいないけど……手作りだと思うよ?」


 ―――何か違うの、という言葉は喉元で止まった。これ以上余計な口を滑らせるのは、何かまずい気がする。

 舞華の返答で納得することにした律軌の前で、一足遅れてやってきた皐月が刃渡りの長いナイフでケーキを切り分けていく。そしてケーキから視線を外さずに、落ち着いた声色で律軌に問いかけた。


「宮下さんは、甘いものは苦手ですか?」

「え……わ」


 危ない、と脳が警笛を鳴らした。つい反射でわからないと言いかけてしまった。いくらなんでも、自分の好みがわからないでは返答にならないだろう。

 誤魔化すように前髪をいじりながら、難儀なものだな、と自分に呆れる。


「……私は、特に好きでも嫌いでもないわ。少し小さくしてくれるかしら」

「ふふ、では可愛いサイズにしますね」


 少し口角を上げ、柔らかい微笑みと共に、丁寧な所作で皐月はケーキを皿へ移す。次いでその皿を渡された美南が、律軌と舞華の前へフォークを添えて運んできた。

 手渡された皿の上のケーキに視線が落ち、そのままなんとなくスポンジの断面を見つめる。ケーキなど食べるのはいつ以来だろうか。一人でいれば絶対に手を出すこともないだろうその存在が、心に違和感のような何かを生んだことに、律軌はまだ気付いていない。


「配膳、終わりましたっ」

「ありがとうございます」

「そんじゃ、せ~の……」


「誕生日おめでとー!」


 掛け声と共に、どこに隠し持っていたのか、芽衣と杏梨によってクラッカーの音が鳴り響く。突然のことで驚いた律軌は大きく肩を跳ねさせてしまった。もし皿を手に持っていたら、ケーキには甚大な被害が出ていたことだろう。

 普段は滅多に感情を出さない律軌の意外な反応に、場の視線は一気に彼女へ注がれた。


「……大丈夫?」

「……姫音舞華」

「なに?」

「……あれはフィクションで使う小道具じゃないの?」

「そんなメルヘンな感じじゃないと思う……」


 急な心拍数の上昇で、胸に手を当てて浅い呼吸を繰り返す律軌の背を、舞華がそっと撫でる。

 その一方で、

 ―――やっちゃったか。

 ―――べりーべりーやばばじゃね。

 と芽衣たちは顔を見合わせていた。固まった空気に耐え切れなくなったのか、美南が散った紙吹雪を掃除しようと動き出すも皐月が止めにかかる。


「ですから、宮下さんのことも考えなさいとあれほど……」

「いやー……」

「定番かなーって……」

「掃除は自分たちでやると言いましたよね?」


 人形のように綺麗な姿勢と笑顔を崩さないまま、皐月が凄む。背筋の冷えた二人は、引きつったような顔で背を丸め、いそいそと掃除を始めた。

 二十秒ほどを経て律軌が呼吸を整えると、改めて祝いの言葉が投げかけられる。そして気を取り直しケーキを食べ始めた。

 小さなフォークを突き立て、スポンジを一口大に切り取る。舌の上に乗せると、いかにも市販といった甘いクリームと卵の味がした。市販品をほとんど食べたことのない律軌でも、ある種安心できるような食べやすい味で、大人数に振舞うにはちょうど良いものだと思いながら飲み込めた。


「……美味しいわね」

「だね、二人ともよく―――」

「ねーあたしらも食べたいんだけどー!」

「なら早く終わらせなさい」

「……作ったよねー」


 カーペットの上に落ちた細かな紙を拾う芽衣たちをよそに、ふたり分を残してケーキは平らげられていった。

 その後はプレゼントの受け渡しが行われ、夕方より始まったパーティは気づけば夜まで続いていた。

 そして、七時を回った途端に芽衣が広間の照明を落とす。


「さーて……それでは夏の定番~~」

「ホラートークのお時間でーす!」


 テーブルの中心にキャンプ用のランプを置き、雰囲気たっぷりの芽衣と裏腹に杏梨が元気に宣言する。合わせて舞華も拍手した。

 それは今日のメインイベント。せっかく夏に集まるのだから、怪談のひとつでもして盛り上がろうというのが二人の主張だった。同じ流れの経験がある舞華と、それくらいのことならと皐月も了承していざ始まったのだが。


「……どういうこと」

「うぇ、どしたの律軌ちゃん震えてな」

「あなた私を騙したの……!?」


 この時になるまで、舞華は律軌が怖がりであることをすっかり忘れていたのだった。否、確証を得た訳でもなく、もしかしてと思った時は悪魔により孤立させられていた。ごく僅かな状況証拠しかない状態で覚えていろという方に無理があるだろう。

 とはいえ、律軌からすれば怪談などもっての外であり、ただ誕生祝いと聞かされていたのが唐突にこれでは、


「一ヶ月も空いてるからおかしいと思った……そういうことだったのね」

「うぉお落ち着いて落ち着いて、知らなかったんだって……律軌ちゃん怖いのダメだったんだ」

「……悪い?」


 怒りを覚えて当然だ。強く睨み返され、思わず両手を上げて仰け反る。悪気があった訳ではないが、これでは舞華としても後味が悪い。

 ひとまず、この状況にあって彼女が取れる行動は一つだ。腕を下げ、顔を覗き込みながら尋ねる。


「じゃあ、先に帰る?」

「……そうしたいところだけど」

「だけど?」


 口を尖らせながら、律軌は不満げな視線を芽衣たちへ向ける。機嫌よくプリントアウトしてきた紙を取り出し、どれから読むかと話している様を見れば、確かに気が引けてしまう。

 せっかく自分のために準備してきたのだから、そこは甘んじて―――


「ここで帰れば明日から色々言われるんでしょう」

「そんなことははないと思うなぁ!?」


 普段の付き合いが薄い律軌からすれば、そう思ってしまうのも無理はないかもしれない。とはいえその極端な考えには、舞華としても突っ込まざるを得なかった。

 しかし、決めるのであれば早くしなければいけない。なにせ既に雰囲気が出来上がりつつあり、盛り上がってしまえば抜け出すのは至難の業となる。


「んー……私が上手く言っておくよ?」

「……怯えて逃げたと思われるのは……癪なのよ」

「結構イメージ大事にしてるんだ……」


 意外な一面、と思っている暇もなく。律軌としては聞きたくないが動きたくもない、ということはわかった。ぴんと立てた人差し指の先に唇を乗せ、どうしたものかと思案する。

 そもそも、芽衣と杏梨がそんなに怖い話を仕入れ、あまつさえ人が怖がるように話せるとは思えないが、感情は個人差。怖いのであれば仕方がない。であれば何も無いよりはと、舞華は美南に手招きした。


「な、なんでしょうっ」

「ブランケットか毛布みたいなのある?」

「あ、はい。わたしので、よければ」


 ソファの裏に置いてある荷物の中から、美南が若草色の膝掛けを取り出し、舞華に渡す。次いで舞華がそれを、律軌に対し包むようにして被せた。事情を理解していない美南と、何をされたのかわからない律軌は揃って首を傾げる。


「ほら、これならなんとなく……耐えられそうじゃない?」

「意味がわからないわ」

「あ、わかります……怖い時って、お布団にくるまると、ちょっとだけ、落ち着きます、よね」


 わからない、に対してわかる、と言われたことで、律軌はどういうわけか逃げ場を潰されたような気分になってしまった。しかし事実として、律軌の答えようのない要望に、舞華なりに対応した形がこれなのだろう。そう考えれば、これ以上わがままを言うわけにもいかない。

 むすっとした表情はそのままに、膝掛けを握る。ここから先は、律軌にとっては戦いだ。


「さーさ、それではまず一本目ー!」


 かくして、一時間半に及ぶ怪談の語り合いが幕を上げたのである。



 午後八時三十五分。怪談は終わり、誕生会の場は解散となった。今は芽衣や杏梨たちが後片付けに勤しんでいる。公共の場である以上、紙くずの一つでも残してはおけないだろう。

 さて、律軌はどうなったのかと言えば。


「……大丈夫?」

「そう見えるかしら」

「あんまり……」


 周囲にばれないよう努めてはいたものの、度々舞華の腕を掴んだり、わざとらしい大声に驚いたりと、少なくとも落ち着けていなかったことは確かだった。

 舞華からすれば、芽衣たちの集めてきた話はどれも少し作り話じみたものばかりで、人の怖がるような雰囲気を作るのも苦手な二人では、むしろ笑わないよう堪えていたほどなのだが。

 それでも、借りた膝掛けを強く握りしめる律軌の怖がりようは、見ていて心配になってしまうこと請け合いだ。このままで部屋に帰れるのだろうかとさえ思えてきてしまう。


「部屋まで送ろっか?」

「……そうね、頼もうかしら」

「ん、じゃあ私たち帰るね! 今日はありがと!」


 立ち上がり手を振ると、舞華は律軌に歩くよう促す。律軌もやっとのことで膝掛けを手放し、美南に返却してから歩き始めた。

 二人の姿が見えなくなったあと、せっせと掃除に励む芽衣たちを横目に、テーブルを拭きながら美南が皐月に向けて呟く。


「宮下さん……すごく、大変そう、でしたね」

「そうですね。ああいったことが苦手とは、舞華さんも知らなかったようですし」

「わたし、自分より、怖い話が苦手な人……初めて見たかも、しれません」



 夜は深まり、月が昇る。往々にして、現実というものは時や場合を考慮してはくれないものだ。

 時刻は二十二時十四分、舞華は小さな気配を感じて飛び起きた。


「使い魔だ」


 天候の不安定な日が続くと、使い魔は発生しやすい。忘れてはいなくとも、思い出すのはいつも気配のあとだ。

 優乃の帰りは明日、今日までは二人だけで学園を守らなくてはいけない。急いで外に出ようと扉に手をかけ―――律軌が精神的に参っていることを思い出した。

 アミーとの戦闘で、律軌が廊下の一角に縛り付けられた時。今日のように強がっていただけで、本当は怯えていたと推測するならば、戦闘に支障をきたす可能性があるかもしれない。

 ひとまず連絡を、と念じる。


『律軌ちゃん、大丈夫?』

『なにが?』

『いやほら、怖かったんだよね。戦える?』


 正直なところ、何を言っても煽り立てているように聞こえてしまうため言葉に詰まる。舞華としては、無理をしてまで命の危険に晒されるくらいなら、部屋で待っていてもという考えなのだが。

 律軌自身、舞華ならそうやって気を使うだろうと想像できていた。しかし、優乃のいない今では話が変わってくる。


『一人にして、怪我でもさせたら、寝覚めが悪いでしょう』

『そっか、無理しなくていいからね。迎えに』

『来て頂戴』


 こちらが言葉を言い切る前に切り返され、思わず苦笑いがこぼれる。扉の音を立てないように部屋を出て、早くしなければと律軌の部屋へ駆けながら、舞華はひっそりとロザリオだけに向けて念じた。


『律軌ちゃん今日はデリケートだから、あんまり触れないであげて』

『え、ああ。わかった』


 同じ一年生である以上、部屋はそう遠くない。すぐに部屋の前へ着いた舞華は、扉をノックしようとし寸でのところで思いとどまった。

 ―――あの怖がりようじゃ、夜中のノックとか多分ダメだな。


『着いたよー』


 念じた声を遮るように、扉が少しだけ開く。なぜかかけられたドアチェーンの下から、毛布に身を包んだ律軌の顔が覗き込んだ。

 既に言いたいことが頭の中で渋滞を起こしているのだが、下手なことを言えば反感を買うのも間違いない。


「えーっと……それ、効果あった?」

「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ」

「声すごい震えてるけど本当に大丈夫? 待ってる?」


 どうにか本調子を取り戻してもらいたかったが、明らかに戦える状況ではない声色に心配が先行してしまった。

 それでも、律軌の方もプライドを捨てきれないらしく、むっと唇を結ぶと毛布を後方へ投げ捨て、これまた震える手でドアチェーンを外して廊下へ出た。


「なめられたものね」


 長い黒髪をかき上げ、鋭い目で舞華を睨みつけ―――たあと、暗い廊下が怖かったのかすぐに舞華のパジャマの裾を親指と人差し指でつまみ、後ろに隠れるようにして先を促した。


「行くわよ」

「あーうん、そだね、行こっか」


 かくして、少し歩いては早いと言われ、しかしそれでも急がねばならないという歯がゆい状況の中、舞華と律軌はなんとか寮を抜け、校舎へと入っていった。

 消灯時間を過ぎ、生活の活気が抜け舞台セットのように時が止まった廊下。もはやこの四ヶ月で見慣れてしまった、のだが。

 一度スイッチが入ると慣れも何もなくなってしまうらしく、律軌は露骨なまでに震え始めていた。


「二人共! ……大丈夫かい?」

「あー、私は」

「私が駄目みたいな言い方しないで」


 追って校舎へ入ってきたロザリオも、これは本当に触れない方が良さそうだなと察した。できるならば今すぐにでも逃げ出したいとわかるほど腰が引けている。否、抜けそうなのかもしれない。

 しかし、相手が使い魔であっても事態が一刻を争うことに変わりはない。


「律軌ちゃん、ほら、変身」

「あ、ああ、ああそうね、そうよ。別に問題ないから」


 促されたことで、とてつもなく名残惜しそうに舞華のパジャマから手を離し、律軌はどうにかブローチの中からギターを取り出す。対して舞華は一歩前に出ると素早く詠唱を始めた。


《魅せよ、第一の舞・契約の主天使達! 悪を打ち砕き、正義を貫く我が身に光を! ドミニオンズ!!》

《轟け、第一の戦慄・契約の能天使達。掟に従い、悪しきを正す我が手に武器を。エクスシーアイっ!》


 装いを変え、武器を手にして。それでもなお恐ろしいのか、律軌の震えは止まらない。普段の様子からは想像もできないほどの怯えようで辺りを見渡している。

 これは早いとこ片付けないとな、と思い直した舞華は気配のする方、三階の端へと走り出した。

 しかし、律軌にとってその行動は完全に予想外だったようで、引けた腰のまま弱々しく舞華の背中へ手を伸ばしたものの、間に合うはずもなく置いていかれてしまった。

 言葉にならない音を漏らしながら狼狽する律軌に、ロザリオはどうにか言葉をかける。


「えっと、律軌。辛いなら休むかい?」

「ふ、ふざけないで、それ、それで姫音舞華に、何かあったら、ど、どうするの」

「確かに、君がこんな調子で何かあったら優乃もなんと言うか」


 何気なく放った言葉。ロザリオとしては、友人である優乃の名前を出すことで少しでも気を紛らわせつつ、戦闘に向かうようにという気遣いと誘導を込めたものだった。

 だがそれを聞いた刹那、律軌の脳裏に思い浮かんだのは普段通りの笑顔、で謎の殺気を発しながら棘のついた鈍器を振り回す優乃の姿だった。

 ―――それで? まいちゃんが怪我をしてしまった時に? あなたは何をしていたんですか?

 ―――怯えて? 何も? してなかったんですか?


「急ぐわよ!」

「わぁっ、急だな君は!」


 力強く拳銃を握り直すと、律軌は空いた左手でロザリオの腕を掴み全力で階段を駆け上がり始めた。あまりにも唐突に、魔法少女の力で引っ張られたロザリオの体が少し浮く。

 一階廊下からひとっ飛びで踊り場へ、返しのひとっ飛びで二階へ。軽やかでありながら力強いステップで飛び上がり、いざ三階へたどり着く。

 右を向いてすぐ、既に多数の使い魔の中剣を振るう舞華の姿を見つけた。相手は夢魔よりも下級の使い魔で、黒みがかった緑の肌色や、翼を持った人型という点は同じであるものの、取り立てて強いということはない。

 すぐにでも加勢し、終わらせなければ。律軌は颯爽と駆けつけるべく照準を―――

 ……合わせたところで、校舎の外で飛んでいた使い魔が大きな音を立てて窓に張り付いた。


「きゃあああぁぁぁぁあああぁあ!!」

「ぎっ……!」

「うぇぇちょっと大丈、あぁもう構ってる暇ないって!」


 幸いにも、舞華の言葉の後半は迫り来る使い魔に向けて放たれたものであり、律軌も人の言ったことが耳に入る状況ではなかったためにすれ違うことはなかった。ロザリオはと言うと至近距離で悲鳴を浴びた挙句、律軌が両耳を塞いでしゃがみ込んだため廊下に肩を打ち付ける羽目になったのだが。

 舞華は床へ剣を突き立てると、そこを重心に自分の体を振り回して多数の使い魔を蹴飛ばす。


「っ、律軌撃て!」

「どこを!!」


 けたけたと笑いながら襲い来る使い魔を見て、ロザリオが叫ぶ。目を開けたくない律軌はただ叫ぶしかない。

 すると、天使たちが見かねたのか律軌の右手はひとりでに動き出し、迎撃を始めた。

 駆け寄ろうとしていた舞華も、それを見てひとまずは安心だとばかりに新しい集団に向き直る。


「舞華! 窓から入って来ている、儀式は外かもしれない!」

「外ぉ!?」


 剣と手足を振りながらも、舞華は意識を校舎の外へと向ける。戦いながらではあるが、魔力の流れる源を探った。

 動いている使い魔ではない、その大元。動かずにそこにある大きな魔力。

 それは、二階と三階間の外壁。


「よっしきた!」


 目標を見つけた舞華は、まとわりつく使い魔を剣の一閃ではね退け、深夜にも関わらず開いている窓の縁に手をかける。そのまま窓の外へ飛び出すと、左手の力だけで自分を支えながら、思い切り反動をつけて真下の壁、そこにある魔法陣へ向けて剣を突き立てた。

 減っていく気配と音が収まって、はじめて律軌は顔を上げる。目が慣れても真っ暗な廊下の中、舞華を引き上げるロザリオの姿が見えた。


「ふー終わったぁ。儀式近くて良かった。律軌ちゃん大丈夫?」

「だ、いじょうぶ、よ。大丈夫」

「一人で帰れる?」


 ぐっ、という声と共に恨めしげな視線を送る律軌を見て、舞華はこらえきれなくなったように吹き出す。つられたのかロザリオも口元が緩み、律軌は思わず頬を少しだけ膨らませた。

 すぐにごめんと謝りながら、舞華は律軌の手を取って言う。


「ね、今日は一緒に寝ようか?」

「……意味がわからないわ」

「一人だと不安でしょ? 別に一日くらいなら気づかれないって」


 変身を解いた舞華の笑顔を見て、律軌の中でなにかが解けたような感覚がした。彼女がそれに気付くのはもう少し後のことだが、意識する前に自然と言葉に出していた。


「あなたがそう言うなら、そうするわ」

「ふふ、じゃ一緒に帰ろっか」


 先を行く舞華が、律軌の手を引く。そう言えば、昔はよく手を引かれて歩いていた。自分より少しだけ大きな手の暖かさが、まだどこかに残っている。



 その夜、律軌は久方ぶりに夢を見た。姉に手を引かれて夜道を歩いた、いつかの日の夢だった。



 翌日、優乃が寮へと帰ってきたのは昼過ぎのことだった。連絡を受けた二人は入口で彼女を迎える。


「おかえりー。羽伸ばせた?」

「ただいまです。ゆっくりできましたよ」


 一言目は笑顔で返した優乃だったが、次の瞬間ふとその表情が変わる。しばらく舞華と律軌の二人を交互に見て、不思議そうな顔で舞華に訪ねた。


「二人から同じ匂いがしますが、何かあったんですか?」

「うぇ、えー、さぁ? なんでだろうね?」

「知らないわ」


 声に出して驚いた舞華と、露骨に視線を逸らして髪をいじる律軌。

 その様子から誤魔化されたと判断した優乃は、一転して舞華に詰め寄った。


「何してたんですか」

「な、なんでもないって! あ、一昨日だっけ、シャンプー貸したから」

「髪じゃなくて全身です。柔軟剤も貸したんですか?」


 その後、数分かけて本当のことを聞き出すまで、優乃は離れてくれなかった。

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