第十九話 それは駄目だよ

 律軌の足元に現れたのは、黄金の杯。聖爵、聖杯などと呼ばれる儀式のためのものだ。一見すれば何の武器にもなりえないそれが、どのようにして絶望的な戦況を覆すのだろうか。

 先刻より響く天使の言葉に従って、律軌はブローチを聖爵の直上にかざす。そして、能う限りの魔力をそこに込め始めた。

 この聖爵は、舞華の持つ短剣ほど容易に扱えるものではない。ひとたび使うために時間をかけ、無防備を晒す必要がある。従って、今攻撃を受ければ戦況を好転させることはできない。

 既に舞華は鎧の各部に傷を負い、剣を握る力もわずかに弱まってきていた。少しでも意識を逸らそうものなら、フラウロスの発した炎に焼かれてしまう。だが炎ばかりに注意すれば拳や蹴りを回避できず、そういった細やかなダメージが徐々に、しかし確実に舞華の体力を奪っていた。

 無論、舞華もただ闇雲に攻めている訳ではない。フラウロスが放つ炎の魔法は、ひとつの制限に基づいていることを見抜くことができた。炎は必ず、生命でない物質を対象として発生する。体育館の床、律軌の放った弾丸といったように。銃は天使であっても、弾丸は律軌の魔力によって生成された純粋なエネルギー。だからこそ、天使が姿を変えたものである鎧や剣、舞華自身を発火させることはできない。

 しかし、その仕掛けを理解したからといって突発的に発生する炎を見切ることはできない。強く踏み込もうとすれば炎の壁や柱が軌道を阻み、隙あらば足元を発火させ機動力を削ごうとする。舞華ひとりでは、この状況を脱することは難しいだろう。

 幸いにもこの時、フラウロスは舞華との戦闘で律軌の方を見ておらず、ただ武器を喚んだだけの無駄な足掻きだと思っていた。もし炎の壁を突破する手段を身につけたとしても、二人を同時に相手取らないよう何度でも分断すればいいと。

 やがて律軌のブローチから、魔力が雫のように落ちる。十数ミリリットル程度の液体が聖爵へと注がれた、その瞬間。

 突如、その場を中心に光が吹き出す。全員が何事かと静止し目を向けた。

 ―――長方形の青い光の膜。体育館内のすべてを覆うような大きさではないが、今戦闘を行っている二人と一体を収めるには十分な大きさの結界が張られる。そして、それにより。


「炎が……消えた!」

「何を……!」


 今まで律軌を阻み、舞華の足取りを遅らせていた炎が、全て消えていた。これにはフラウロスも困惑の様相を見せ、再度炎を出そうと手を振るう……が、何も起こらない。

 律軌の魔力を媒介にして聖爵カマエルが張った結界―――原理としては、能天使の指揮官たるカマエルの力により、配下の天使を四方に散らすことでその間の空間を結界とするもの―――は、悪魔の魔法をその範囲内に存在させない、魔法少女たちにとって圧倒的な戦力となる切り札であった。

 状況を確認した三者は、この好機を逃すまいと、あるいはこの危機を脱さねばと行動を開始する。

 フラウロスは、結界の外へ逃れようと。舞華は、それを阻止し仕留めようと。律軌は、魔力を回復しつつも舞華の援護に回ろうと。ロザリオもまた二階から飛び降り律軌のためにとローブから液体の入った細いガラス瓶を取り出した。


「律軌、これを飲め! 応急処置にはなる!」

「っ、ありがとう」


 礼を言いながら律軌は栓を開け緑色の液体を一気に飲み干す。その効力は確かなもので、失った力が少し戻ってきた。それでも完璧と言うには程遠いが、なすべきことに変わりはない。

 全力を以て、何度も引き鉄を引く。左手で照準がぶれないよう抑えてはいるものの、それでも衝撃は大きい。

 舞華も強く踏み込み、致命傷を与えんと両手に力を込める。短剣を突き刺すことができれば、時間こそかかれどこちらの有利を確実なものにできる。例えそれができなくても、片腕だけでも落とす。


「逃がっ……さない!!」

「ぐうっ!」


 アドバンテージを一気に失ったフラウロスは、舞華の突き出した剣を間一髪のところでかわす。しかし、本命は右手の剣そちらではない。

 悪魔であるフラウロスからしても、他とは違う魔力を発する短剣は警戒の対象だった。あれで傷つけられれば不利になる、という漠然とした危機感があったからこそ、律軌を封じて舞華から仕留めようとしたのだ。

 だからこそ、たった十数秒の逆転を許すわけには行かない。


「おおおおっ!!」

「いっ……!」


 回避の動きで身を翻すと同時に、舞華の左腕を握って捻り上げる。そのままでは折れてしまうような姿勢に加えて、フラウロス自身の握力もあり舞華の腕からは軋むような音がする。それまでは怯えながらも戦闘を見ていた璃愛りあも、この光景には耳を塞ぎ顔を伏せた。

 舞華は、砕けそうな痛みに耐えながら必死に思考を巡らせる。腕と同じ方向に飛べば折れることはないか、この握力から逃れるにはどうすればいいか。

 魔法により強化された体である以上、簡単に折れることはない。しかしベースとなる舞華はただの人間、それも少女であり、悪魔とは単純な力の差で劣る。そして、壊れないよう耐えているからこそ、その痛みは舞華にとって未知の重さとなる。

 捻れ、引っ張られ、握られ。痛い。折れそうなのか千切れそうなのか砕けそうなのかわからない。ただひたすらに痛い。意識が強制的に左腕に持って行かれ、直剣を握る右手にもうまく力が入れられない。しかし、短剣を手放せば確実な勝利は遠のく。取り落とした剣を蹴飛ばされでもすれば相手の思うつぼだ。

 その様子を見ていた律軌も焦り、判断が鈍る。

 ―――どこを撃てば。腕、違う。誤射、命中率、胴体、盾にされたら、でも。


「あああっ!」


 とにかく注意を逸らし、攻撃を当てる。それだけが頭に残った律軌は、本能的に前進していた。近づけば回避は難しくなる。舞華が盾にされる可能性があるなら、懐にまで潜ればいい。

 フラウロスからすれば、それは滑稽にも映りうる光景だった。目先の理不尽を対処して、功を焦ったばかりにこれとは。

 舞華を盾にするついでに腕を折る。怯んだところに投げつければ軽傷では済まない。そう判断し律軌の方へ向き直ろうとした、その瞬間。


「行って! 今!」


 悲鳴とも怒号ともつかない大声を合図に、舞華の右手から直剣が。至近距離、かつ予想だにしない攻撃にフラウロスが対抗できるはずもなく、直剣がその脇腹を貫いた。

 たった一瞬の怯み。だが、それを見逃す律軌ではない。舞華の声で反射的に拳銃を構え、前進しながら撃ち込む。回復したとはいえ僅かな魔力で撃てたのは二発だけだったが、その二発はともにフラウロスの胸と腹に食い込んだ。


「っ……!」

「離、せっ!」


 一瞬の怯み。その隙を見逃さず、舞華と律軌は後ろに飛び退く。しかし、腕の状態を確認している場合ではなかった。律軌が持てる力を出し切ってしまった今、舞華が仕留めなければフラウロスは結界の外へ出てしまう。

 短剣を右手に持ち替え、投げつける。一直線にフラウロスの首筋目がけ空を裂いた銀色の残光は、勝敗を決するに値するだけの力と意味を持っていた。

 だがそれを理解しているのはフラウロスも同様。大きく上体を逸らすことで短剣をかわす。その刃は壁に突き立てられ、三者は再び固まる形になった。


「……なぜ邪魔をするのか」

「は?」

「これまでの悪魔は無情にも贄を操っていた。それに遺憾とするのは理解できる。だが彼女はどうだ、自らの意思でこの儀式を行っている……何も知らぬお前らに、それを咎める権利があるというのか?」


 ……はっきりと言ってしまえば、滅茶苦茶だった。まずもって論点が大きく食い違っており、舞華たちは悪魔を止めに来ている。璃愛の意思があろうがなかろうが、無関係な犠牲を出さないために行動しているのだ。

 フラウロスのこの言葉にどういった思惑があるのか、勘繰る律軌をよそに舞華は手を下ろし、璃愛の方へ睨むように視線を飛ばした。


「じゃあ本人に聞いてみようか? どうしてこんなことしたのか」

「…………」

「話せないような理由でやってるなら、それでいいけど」


 律軌は表情に出さないよう努めながらも、内心では恐怖に近い驚愕を覚えていた。今まで悪魔以外に悪感情を向けたことのない舞華が、他者を糾弾している。その光景は、脳が間違いだと判断してしまいそうなものですらあった。

 璃愛も舞華がそんな態度を取る人間だとは思っていなかったのか、短い悲鳴をあげる。しかし、震えながらも必死に声を振り絞って話し始めた。


「……そうよ、あんたたちみたいな、幸せ者からしたらっ……くだらない理由よ……」

「…………」

「私ね……もうこの学校にはいられないの」


 些か遠まわしな表現に、律軌は何か含みがあるのかと表情を変えるが、その横で舞華は静かに璃愛を睨んでいた。

 安美との会話で大方の予想をつけたものの、あくまでそれは又聞き。璃愛が行動を起こした実際の理由など舞華には知る由もない。しかし、こうして璃愛が二度同じ行為に及んだことで、舞華の中にある正義感と責務感は入れ替わっていた。

 今回だけは、どんな手段を使ってでも。三度目を無くすために動かなければいけないと。

 所詮フラウロスの問いかけは、結界から離れるための時間稼ぎでしかない。本当は理由などどうでもいいのだ。

 最初はつっかえながら小さい声で話していた璃愛だが、次第にその声は荒く、口調も激しくなっていった。


「お友達同士のつるみなんて御免だから、バカみたいに閉鎖的で厳しい学校に必死こいて、勉強して、入ったのに! 中学の時と何にも変わらなかった! 結局みんな友達だなんだってつるみだして、いつも私は一人ぼっち! 無理して入ったせいで成績は下がり続けて、進級できないって言われて先週には転校決定! 私が何をしたっていうの!? 友達できないことがそんなに悪いの!? 何よ何よ何よ!! みんなして仲良しごっこしてさぁ!! どうせ一歩離れたら陰口言い合って潰し合う癖に! バカみたい!! だからそんな奴らみんな死ねばいいって、大嫌いな私と一緒に心中させてやろうって思ってやったの! 新しい学校で成績不振の落第者って笑われる前に死にたかったのよ! くだらないでしょ、わからないでしょ!? でもこっちだって、私だって頑張ったのに! 誰も認めてくれないんだもの! 誰も私のこと人として見てないから」

「もういいよ」


 璃愛の言葉を遮りながら、舞華は不意打ちでフラウロスの首を蹴飛ばす。同時に剣へ命令を飛ばし、フラウロスの体から引き抜かせ手元へと戻した。

 無論、フラウロスとしてもただ話を聞いていたわけではない。問答は時間稼ぎのためであり、その中で隙があれば結界から逃れようと気を張り詰めてはいた。だが、それより舞華が動き出す方が早かった。それだけのことだ。

 結界の外へ出ないよう、怯んでいるうちに体当たりで内側へと押し戻す。たった数歩ではあるものの、位置関係の逆転とこれまで与えた傷が舞華たちの有利を確実なものにしつつあった。


「……大変だったと思う。辛かったんだと思う。誰にも話せなかっただろうし、溜め込んじゃって、抑えられなくなったんだって」

「……わかったような口」

「でもね。だからって無関係な他人を傷つけようなんて……」


 今一度、舞華は璃愛を睨みつける。それと同時に、背後の壁にあった短剣に命じることで、ひとりでに壁から抜けたザドキエルはフラウロスの元へ―――舞華の鼻先を通過して直進した。一度は身を翻しかわしたフラウロスだが、ザドキエルは急旋回しその右腕に食らいついた。

 感情の昂ぶりで璃愛の中に溢れた熱が、引いていくのを感じる。他のどんな正論よりも、実力行使という形をもって語られるその言葉には、当事者としての"重み"があった。


「それは駄目だよ」

「っ……! うるさいうるさいうるさい!! あんたみたいな大して苦労してない人間にはわかんないわよ! 幸せに生まれて才能に恵まれて勝手に人に囲まれてる癖して、私のこと知ったような口きかな」

「律軌ちゃん!」


 再び璃愛を遮って、舞華が叫ぶ。どうするべきかは明白だった。

 この結界の中にあれば、傷を治すこともできない。たとえ肉体の強さで勝っていたとしても、度重なる攻撃により負った傷と、駄目押しとばかりに左肩に食い込んだ短剣が最後に残った魔力を奪っていく。

 律軌はフラウロスに再び肉薄し、その両脚に素早く弾丸を撃ち込んだ。悪魔という理外の生命であろうと、人間と同じ形をしているのであれば、脚を負傷してしまえばもう、逃げられない。


「姫音舞華!」

「うん……ありがとう、行くよみんな」


 叫び声と共に律軌の手から離れた拳銃と、舞華の握っていた直剣、そして刺さっていた短剣が舞華の右手へと収束されていく。

 静かに呼吸を深めながら、舞華はおもむろにフラウロスへ近づく。一見すればあえてとどめを刺さないようにも見えるその様相は、璃愛からすればどちらが悪魔かわからないほど恐怖すべきものに見えた。

 遅くとも背を向け走り出し、最後まで逃げようとするフラウロスに対し、舞華は拳を構える。


「……人間がっ……私はっ、こんなところでぇえぇーーッ!!」


 最後の抵抗、クロスカウンターを狙った拳。瞬きのうちに行われた攻防の中で、舞華の拳はフラウロスの胸を貫き抉っていた。フラウロスの姿が消え静まり返った体育館の中で、蒼と薄紅の光の螺旋が、ただ尾を引いて揺れている。

 数秒の間を置いて、璃愛が呼吸することを思い出す。咳き込むように息を吸い込んだ後に、負けたという事実を再確認した。

 律軌はその間に聖爵を回収。舞華の元へ戻りながら、結界も聖爵を中心に動いていることに気がついた。


「動くのね、これ……」

「二人共よくやった! 舞華、腕は」

「ごめん、まだ」


 手甲を光へと戻し素手になると、舞華はステージ上へと歩き出した。そして、軽快な跳躍で璃愛の前へと着地する。

 律軌は、それを咎めようと手を出したが、うまく声が出なかった。これまで舞華のすることに関わろうとしなかった自分にその権利はない、と心のどこかで囁く声がしたのだ。

 しかし、同時に舞華を案じてもいた。いくら璃愛を睨みつけ凄んだとはいえ、言葉をぶつけるだけでは抑えきれない程の怒りが―――


「な、なに」


 璃愛が口を開いた瞬間、鋭い破裂音のような音が響き渡った。舞華が璃愛の頬を思い切り張り飛ばしたのである。

 何が起こったのか誰も理解できず、璃愛はあまりの痛みと混乱で首がどこか遠くへ吹き飛んだのではないかと顔をぺたぺたと触った。


「……どうして。どうして、あの時に諦めてくれなかったんですか?」


 舞華の声は、震えていた。それが怒りか、はたまた憐れみなのか律軌たちにはわからない。

 返す言葉もなく、璃愛はただ俯くしかなかった。


「こんなことしたって、何にも……何にもならないじゃないですか……」


 ……少しの沈黙のあと、ロザリオが舞華の肩を叩き璃愛に話しかけた。儀式や自分に関する記憶を消すことを、合意なく行うと説明するためだ。

 やや硬い動きで戻ってきた舞華に、律軌はどうするべきか迷った。こんな時にこの場にいるべきは優乃であって自分ではないだろうと、半ば自虐的な考えが頭をよぎった。

 近づいてくる舞華を見ながらあれこれと悩む中で、ふと閃くように過去の記憶が蘇る。


『頑張った! 頑張ったね、律軌』

『……』

『大丈夫、落ち着いて』


 気づけば律軌は、衝動的に舞華の頭に左手を寄せ、抱きしめるように撫でていた。無意識の行動に自分でも驚いたが、ここまでしてしまってはもう退けないと自分に言い聞かせ、右手で背中を撫でる。


「……お疲れ様。その……頑張っていた、と、思うわ」

「……えへへ。律軌ちゃんたちも、ありがと、ね……」


 本当は、舞華も律軌の行動に喜びたかった。しかし、それより先に感情が溢れ出たことで、呻くような声を上げながら律軌の体を強く抱き締める。

 理解はしていた。人間を相手にするのであれば、話など通じないことが当然だと。思想や意見などと言っている暇はなく、自分には相手を止める責務があると。だからこそ璃愛を睨み、次を起こさないよう実力行使に及んだ。

 しかし、その中でも舞華は、叶うのならばこんな手は使いたくなかったとずっと考えていた。それでも他に手が思いつかなかったことに吐き気のような罪悪感を覚え、自分を責めたかった。無論、勝手と勝手のぶつかり合い、理想論など通用しない。だからこそ舞華は、飾らずに律軌へ体を預け、思いの丈を吐き出す。


「……怖かったぁ……!」

「ええ……もう、大丈夫だから」


 ゆっくりと天使たちが帰っていく中、二人はしばらくの間そのままの姿勢で深く呼吸を続けた。

 その様子を横目に見ながら、璃愛は徐々に意識を失っていく。

 ―――あーあ、見せつけてくれちゃって。結局、私なんかが何やっても失敗するのがオチなのね……

 ―――ま、そうよね。止められてひっぱたかれて、ちょっと安心してるようじゃ、最初っから無理か。



 気が付くと自室、ベッドの上。窓からはやけに高い陽光が差し込んでおり、いくらか生徒の声が聞こえていた。何が起こったかの大筋は覚えているものの、具体的なことは思い出せない。

 窓に頬杖をつこうとして、頬の痛みがないことに気が付く。張り飛ばされた強烈な痛みは、切り取れば悪魔との関連性がないためにしっかりと覚えていた。

 慌てて鏡を取り出して確認すると、特に腫れたような様子も見当たらない、いつも通りの自分が映っている。

 髪は乱れ、驚いた自分の顔をまじまじと見つめてから、鏡を投げ捨てて呟いた。


「はーーーーーーー………………最っ悪」



 黒い表装の本を持って、図書室に向かう。こんなもの持っていればまた変なのに絡まれる、と投げ捨てたい気持ちを抑えながら、カウンター裏の愛莉めぐりに声をかけた。


「あの」

「はぁ~い……むに」

「これ、返します」

「ん……おやぁ、都灯つとうさん……何か吹っ切れましたぁ?」


 ぶっきらぼうに本を突きつけただけなのに、予想外の言葉で返され動揺する。

 ―――まさかこいつもグルじゃないでしょうね、とは思ったものの、それならそれで全部伝わっているだろうと考え流すことにした。


「知りませんけど」

「ふぅ~ん……ちょっとぉ、こ~やって輪っか、作れますかぁ?」

「は?」


 逸らした視線を戻すと、愛莉は両手の人差し指と親指で輪を作っている。

 無視しようかとも考えたが、にこにこと絆すような笑みを浮かべる愛莉の視線に耐え切れなくなり、言われるがまま輪を作った。


「……これでい」

「えんがちょ~」

「……はい?」


 差し出した指の輪を、手刀でおもむろに両断される。何が起こったのかまったくわからず怪訝な表情を浮かべる璃愛に、愛莉は続ける。


「いろいろ悩むことはあると思いますがぁ、こんな非~科学的な悪~いものに頼っちゃぁめっ、ですよぉ。だから、えんがちょ~」

「……はあ」

「うふふ、でも去年からず~っとここを使ってくれてぇ、お姉さん嬉しいなぁっていうのも本当なのでぇ、ゆ~っくりしていってくださいねぇ」


 ―――なんでそんなこと覚えてんのよ。

 思わず口から素の言葉が出かけたが、元々変わっている愛莉には言うだけ無駄だろうと飲み込んだ。

 しかし感謝を伝えられた手前、何も借りずに出て行くことにも気が引けたためあてもなく本棚の間をぶらりと歩くことにした。

 どうせ三月には荷物をまとめて出て行くことになるのだから、今のうちから何か読んでおくか、と適当に本を物色していると、背後から声をかけられた。


「あ……都灯さん」

「……檜枝安美ひのえあみ? 私なんかに何か用?」


 自分ではきっぱりと、つっけんどんにあしらったつもりでいるが、実際の璃愛は少し挙動不審にも見えるほど怯えていた。そもそも他人と話す機会がないため、急に話しかけられたことで心臓が跳ね上がるほど驚いている。

 そんな様子を見て余計に心配したのか、安美は少し眉をひそめて近づいてきた。


「大丈夫? 声、震えてるけど」

「……別に、あなたこそ保健室行かなくていいの?」


 ―――あんたのせいよ近寄ってくんな。

 叫びだしたい気持ちを抑えながら、どうにか言葉を返す。しかし、皮肉のつもりで言った言葉は大丈夫だよと一言で流された。


「昨日、ま……一年生の子が都灯さんを見かけて、すごい心配してたから」

「……一年って」


 今になって、璃愛は舞華に睨まれた理由を理解した。そうか、こいつがあることないこと吹き込んだのか。

 すぐにでも殴ってやりたくなったが、もしそんなことになれば今度こそ自分の首が飛ぶと自分を諌める。


「それで、私が成績不振で転校するって吹聴したわ」

「えっ!? 都灯さんいなくなっちゃうの!?」


 ―――しまった、やらかした。

 正確に言えば、転校は決定した訳ではなかった。春休みの頃から成績不振で担任に心配され始め、難しく感じるようならと夏になって転校の選択肢を勧められたに過ぎない。担任としては進学校が合わないのかもと純粋に璃愛を案じ、これから挽回があれば進級できるかもとは言ったのだが、璃愛自身今の環境が嫌になったこともあって投げやりな気持ちで両親に連絡していた。

 というより、四月の件は呼び出されて成績不振の話をされたという事実がとてつもないストレスになり、現実味がないからと悪魔の儀式に半ば衝動で走ったのが真相であったりするのだが。

 とにかく、今目の前の相手に知られたのは失敗だ。どう言い訳したものかと逡巡していると、安美は璃愛の手を強く握ってきた。


「何か私にできることない!? 勉強、見たほうがいいかな!?」

「は!? いや、え、ていうか痛っ!」


 意外と強い握力で手を握られたことと、またも予想だにしない言葉を浴びせられ困惑する。

 その一方でどこか冷静に、そういやこいつ出席率の割に成績ちょっといいんだったと思い出した。

 しかし、だからと言って転校が嫌な訳では―――どうせ馬鹿にされるんだろうなという気持ちはあれど―――ない。むしろ外出の制限される天祥ではストレス発散の方法がないため、危うく寮の壁を殴りつけそうになった璃愛にとってはバレないように離れたいという気持ちすらあった。

 しかし安美の方は璃愛以上に困惑しているように見え、あわあわと言葉を連ねる。ひとまずは手の痛みが悪化する前にと、璃愛は安美を振り払った。


「離して。とにかく、私はもうここから離れるって決めてるから。どうせお友達なんて一人もいないし」

「そうだったんだ……」


 まるで友人のことのように落ち込む安美を見て、どこか調子が狂うなと溜め息をつく。

 璃愛からすれば、保健室常連にも関わらず優しくしてくれる友人のいる安美など圧倒的勝ち組にしか見えず、そんな人間が自分を心配するのかが理解できない。

 どうせ今話したから何があるわけでもない、適当にあしらって


「じゃあ、私が都灯さんの友達になるよ」

「はぁ?」

「だって、このままじゃ天祥が嫌なことしかなかった場所みたいになっちゃうでしょ? せめてあと半年くらいは、何かいい思い出が作れたらって」


 ―――ああ、こいつもあの一年と同類なのね。

 もはや頭痛に近い感覚を覚えながらも、同じ教室で暮らす安美から逃げるのはほぼ不可能という事実を噛み締める。


「お昼ご飯一緒に食べるとか、少しでも一緒に勉強するとか、ちょっとでいいから」


 そのちょっとは璃愛にとって身長の三倍はあるハードルなのだが、それを伝えたところで諦めてくれそうにはない。

 思考の一切をシャットアウトして、璃愛は嫌味なほどに綺麗な空を眺めていた。



 その一方で、舞華の部屋では。


「そう言えば、律軌ちゃんの誕生日祝おうとして流れちゃってたな」

「え、宮下さんもう過ぎてたの?」


 数日後に迫った舞華の誕生日祝いについて話し合い……ながら芽衣と杏梨の課題を進めるという形で皐月を含めた四人が話し合っていた。

 祝うとは言っても、寮の広間を使って何か食べて飲んで夏だしついでに怪談でも、とどちらかと言えばパーティーがやりたいという方が主であるが。


「宮下さんの誕生日は七夕でしたね」

「えーやば、べりーべりーろまんちっくじゃん、べりべろじゃん」

「そうそう、テスト近かったせいで当日祝い損ねちゃってさ……何語?」

「じゃ舞華ちゃんと一緒に祝っちゃえばいいっしょ」


 誕生日祝いという口実があれば、夜でも少しは広間を使うことが許されるらしい。もっともそれを行うくらいなら外出してどこかの店で祝うという生徒も多く、寮はめったに使われないそうだ。

 今週中は優乃がいないという問題はあったが、先にやってしまってくださいと本人に言われたために当日決行の連絡が行き渡っていた。


「じゃ決定~、舞華ちゃん誘える?」

「大丈夫、任せといて」

「ふふ、賑やかになりますね」

「とびっきりのホラー仕込んでおこー!」


 一層の盛り上がりを見せる部屋の中で、ふと舞華の頭に何かがよぎった。

 ―――あれ、何か忘れてるような……

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