第十八話 それは嫉妬か、それとも自棄か
―――それでは、しばらくのことは任せましたよ。
と残し、優乃は一週間ほどの一時帰宅に入った。暦は八月、強い陽射しに目を細める日々が続いている。
天祥学園は、当然ながら夏休みでも校内に多くの人がいるため、あまり長期休暇の実感が湧いてこない。課題について教員に尋ねに行ったり、吹奏楽部の練習を遠目に聴き入ったり、庭園へ美化委員の手伝いに行ったり……生徒たちは思い思いのやり方で校内の夏を過ごしている。
して舞華はと言えば、体育館でバレー部やバスケ部の練習を横目に芽衣や杏梨たちにダンスを披露したり、定期的に図書室に寄っては本を借りて読んだりしていた。図書室は冷房が効いており静かなため、課題のために利用する生徒も多い。
その日も図書室を訪れた舞華は、カウンター裏で寝ている
「西之園先輩、本返しに来ました」
「ん~? あぁ~、姫音さぁん……ふぁ、受け付けましたぁ……」
寝起きだというのにてきぱきと仕事をこなす愛莉に見送られ、図書室内の階段を上る。これといって探している本はないため、適当に歩き回って目に付いたものを借りているのだ。
ふと、「宗教・民俗学」の棚が目に止まり、これまでの戦いが脳裏をめぐる。多少の知識を身につけても、実物の悪魔を前にすると咄嗟にをそれを引き出すことができない。たとえ今まではそれで上手くいっていても、いつか知識不足が原因で、誰かを死なせてしまうかもしれない。実際、これまでも何度も息の詰まる思いをしており、優乃や律軌、ロザリオに頼らなければ何度死んでいたかわからない。
責務感に突き動かされるように足を進め、大小様々な横表紙を眺めていると
―――突如、近くにいた生徒に腕を掴まれ本棚に押し付けられた。完全に予想外の衝撃で混乱し、何が起きたか理解するまでに二秒を要する。幸いにも本が落ちてくることはなかったが、両手の甲と後頭部を本棚に打ってしまった。
相手は水色のリボンを制服の胸につけた二年生で、やや癖のあるボブカットの黒髪とすこし青白い肌、そしてつり上がったきつい目は舞華を睨みつけていた。
しばらくは何の心当たりもなく戸惑っていた舞華だが、その容姿をじっと見て、そして自分に向けて放たれた言葉でようやく思い出した。
「あんた……
「……あっ!」
舞華が魔法少女になった日、アンドラスによって体育館の天井に囚われていた生徒。制服姿を見たことが無かったせいで思い出すのに時間がかかってしまった。しかし、次いで襲いかかる違和感は言葉の中。
「……喚んだって、まさか……」
「やっぱり! 余計なことしてくれて……おかげで
ここが図書室であること、そして話の内容を知られないためか押し殺したような声だが、声色に多分に含まれる怒りが、舞華への怨嗟を物語っている。その言葉通りであれば、意味することは明白。
彼女は、アンドラスを自らの手で召喚し、その手によって殺されようとしていた。
舞華の内側で、沸々と怒りが湧き上がる。もし、舞華や律軌があの場にいなければ。悪魔が野放しになれば、その被害を受けるのは目の前の生徒一人ではない。それを知ってか知らずか、この生徒は破滅願望を以て悪魔を喚んだのである。
決して、許されるべきではない。
「……なんであんなことしたんですか」
「黙りなさい……! あんたに口答えする権利なんかやらないわよ! なにが気に食わなくて邪魔してきたのか知らないけど、二度とあんなことしないでよね……!」
「あの悪魔を放っておいたら、他の生徒にも危害が及ぶんですよ!」
「……だから何よ。どうでもいいでしょ、そんなこと」
腕に力を込め、掴む手を振り払う。力技で抜けられることを予想していなかったのか、生徒は二歩後ずさった。
本当なら、今すぐここで殴ってやりたかった。無関係の人間を巻き込むことすら良しとするような相手を許せるほど、舞華は底抜けのお人好しではない。
生徒は依然として睨む目を逸らさずに、捨て台詞を吐いて歩き出した。
「次邪魔するようなら、こっちだって許さないんだから……!」
去っていく背中を、舞華は少し遅れて追った。生徒が図書室を出たところで、愛莉をたたき起こす。
一見すれば無意味な行為だが、実は愛莉には足音で入退室の人数を把握し、貸し出し・返却した相手の顔と名前を全て記憶するといった優れた感覚と記憶力が備わっている。もし今の生徒が借りた本を返却していれば、あるいは生徒の少ないこの学校なら、割り出せるかも知れない。
「先輩、先輩」
「ふぁ~い……? あ~、貸し出」
「今出てった人、名前わかりますか。二年生で癖っ毛ボブの」
きょとん、という音が出そうな具合に愛莉が首を傾ける。が、舞華の力がこもった視線を受けてただごとではないと感じ取ったのか、すぐに口を開いた。
「多分~、足音が怒ってましたし~……二年生なら~……
「ありがとうございます!」
礼を言うが早いか図書室を出て、早歩きで寮へと向かう。その間に強い念で、律軌たちへ向けて呼びかけた。
『律軌ちゃん、リオくん、緊急事態』
『どうしたんだい?』
『……寝て、いたの、だけど』
『もう十一時!!』
☆
寝起きで到底外に出られない格好をした律軌の部屋に押しかけ、図書室で起こった事の顛末を二人に話す。髪の乱れたままうんざりとしていた律軌も、詳細を聞くにつれて真剣な表情になっていった。
一通りの話を終えると、ロザリオの声が頭に響いてくる。
『……僕のする記憶の処理は、その時に行った儀式と悪魔に関わる一切を忘れさせるものだ。受けた当人が自らの意思で悪魔を喚んだとなれば、失敗した事実は記憶に残るし、もう一度同じことを行おうとしてもそれを止めることはできない』
「難儀ね」
「あの口ぶりだと、近いうちにもう一度やる……どうするつもりかはわからないけど、対策をとってくると見て間違いないと思う」
今一度、璃愛の言動を思い返す。二度にわたって悪魔を召喚しようとしていること、理由は不明だが悪魔の手で自らの命を断つことが目的であること。そして、そのために他人の命すら厭わないこと。
なぜ悪魔にこだわるのか、邪魔が入るとわかっていてなお動くのか、動機も含めてわからないことは多いが、それでも止めなければ少なくない被害が出る。いかなる理由があったとしても、無関係な他人を傷つけていいはずがない。
「とにかく止める。何が何でも絶対」
「……そうね」
『僕も次がないよう準備しよう、こうなってしまえば話は別だ』
拳を握りしめる。爪が刺さりそうなほどに力を込めた手は震え、焦燥と怒りが溢れて出ているようだった。
おもむろに、律軌が立ち上がる。窓の外を見るように数歩進んだあと、そっと舞華の頭に手を置いた。
「あなただけで思い詰めることじゃないでしょ」
「……うん」
「私達は、一人じゃないんだから」
☆
―――半年も離れていないはずなのに、久しぶりの自室はどこか他人の部屋のように感じた。自分がこの家にいたという実感が遠のいているのは、それだけ学園生活が濃密だったからだろうか。
二階建ての一軒家、生家に帰った優乃は両親とテーブルを囲んで話していた。
とはいえ、その雰囲気は決して明るくなく、優乃を見つめる二人の瞳にはさざめくような不安が浮かんでいるのが見て取れる。
「……そう、楽しく過ごせてるのね」
「うん」
「それは良かった」
少し大袈裟なほどの安堵を見せる両親を見て、針に刺されたような感覚を覚える。それが彼らにとっては当然の感情、不安でも、それを抱かせているのが自分だとわかっていれば辛くないはずがない。
欲を言うのなら、もう少し楽観していてほしかった。
「優乃が友達と楽しくやれてるなら、何も心配いらないな」
「お友達との写真とか、見せてもらえる?」
「あ、うん。ちょっと待って」
スマホの写真フォルダを見て、思い返す。四月まではほとんど写真など撮っておらず、数少ないものはほとんどが風景や学校行事の予定など、家族以外が写った写真はまったく無かった。
しかし、入学式から先になると舞華とのツーショットがあり、徐々に皐月や芽衣、杏梨や美南たちと一緒に写った写真が増えていく。夏休みに入った直後、律軌に料理を教えた時に撮った写真は「お気に入り」のフォルダにただ一枚入っていた。
「ここから先」
「……こんなに」
「もっと大人しい子ばっかりだと思ったけど……ふふ」
母の言葉は、天祥学園のことか優乃の交友関係のことか。しばらく写真を見ていた両親も、噛み締めるように笑顔になっていった。
心の中で静かに、舞華の顔を思い浮かべる。彼女が手を握ってくれなければ、今の優乃は無かっただろう。友人としての肩入れが無ければ、魔法少女にはなっていなかったかも知れない。そう思うと、人の手を恐れずに握って引ける舞華の眩しさが沁みる。
「本当に、楽しくやれていますよ」
―――あなたのおかげで。
☆
璃愛がどの夜に仕掛けてくるかはわからない。ひとまず、舞華は情報を集めることにした。悪魔と結託して心中しようというからには、何かただならぬ理由があるはずだ。その断片だけでも掴むことができれば、説得することも―――
―――おかげで死に損ねたじゃない。
―――どうでもいいでしょ、そんなこと。
まとわりつく不安を払うように、首を振る。冷たさというより、璃愛は切羽詰って焦っているように見えた。悪魔の召喚を手段として利用するのではなく、それに縋るしかないように。
一度立ち止まり、呼吸を整える。優乃がいない今、立ち向かえるのは自分と律軌だけだ。自分までもが焦って失敗すれば惨事は免れない。
既に目的地は目の前だ。スマホを取り出し部屋の番号を確認した後、扉を叩いた。
「はい、どうぞ」
「すみません、お時間取らせてしまって」
出てきたのは安美。現状、舞華にとっては唯一の二年生の知人だ。璃愛について知っていることは少ないが、力になれるならと協力を受け入れてくれた。
部屋の中は殺風景で、最低限の家具と小物しか置かれていない。テーブルの上には常備薬と思われる小箱があった。
「それで、都灯さんのこと?」
「はい。その……ちょっと様子がおかしかったので」
全ての事情を話せるはずもないため、安美には「ただならぬ様子をした生徒を見た」としか伝えていない。それだけのことでわざわざ話を聞いてくれる彼女も、自分同様お人好しだな、と感じた。
しかし、他者の時間を奪っていることに変わりはない。手早く話を聞いて帰ろう。
「よくは知らないし、陰口みたいになっちゃうけど……あんまり、人と一緒にいるところは見ないな」
「そうですか、他には?」
予想のつく答え。はっきり言って、舞華を納得させるような大きな理由で動いているようには見えなかった。となればその動機は生活や勉学に起因するのでは、と舞華は睨んでいる。自暴自棄になるような、当人にとっては重大な何かがあるはずだ。
「なんていうか、目立たないし人と関わらない感じの人だよ。勉強でも運動でも上の方にはいなくて、誰も話そうともしてないっていうか……近寄りづらい雰囲気で話しかけられない、みたいな」
「ああ……」
思わず納得してしまった。舞華を敵対視していたからこそのきつい態度だったのかも知れないと思ってはいたが、安美の話を聞くにそうでもないらしい。普段から誰にでもあのような態度で接していれば、人とのかかわり合いは少なくなるだろう。
となると、原因は
「……そうですか、ありがとうございます」
「え、もういいの?」
「はい。あーっと……私の思い過ごしだったみたいですし」
言葉を濁して、部屋を後にする。
もしも、璃愛の動機が舞華の推理した通りであれば。もしも、璃愛が本当にもう一度悪魔を喚ぶつもりであれば。もしも、自分が死ぬことへの恐怖が薄れていれば。
止めなければ、被害は通常の悪魔より拡大するかもしれない。ひとたび心に空いた悪意という穴は、あまねく理性を宙へと吐き出す。自らの意思でその手を汚せば、染み付いた痕が取れることはない。
今にも暴れだしそうな心臓の鼓動を押さえ込むように拳を握って、舞華は今一度歩みだした。
決戦は、その日の夜。
☆
夜の帳が降りる。ロザリオらの手によって二十二時を過ぎた校内は静まり返り、熱帯夜の気温すら凍りつく箱庭の中で「それ」を見る者はいなくなる。
あるいは、魔に取り憑かれた少女。あるいは、憎悪に落ちた炎。あるいは、希望を振り下ろす剣。言葉を交わすだけでは理解しえない、激情と責務の鍔迫り合い。
奇しくもその場所は、あの日と同じ体育館。
「肩の力を抜きなさい、姫音舞華」
「わかってる……いくよ、みんな」
昼間よりも重い扉を開く舞華の言葉には、信頼と祈り。その背に続く律軌の視線は、覚悟。そして二人を見守るロザリオは、悔いるような無言。
一日の間もなしに今日を選んだのは、焦っているからだろうか。それとも、勝てるという確信があるのか。月明かりの差し込む広い館内に踏み込むと、中にいる璃愛がこちらを向いた。
―――取り憑かれたような、という表現が、今までで最も当てはまる様だった。背は曲がり目は暗いながらも血走っている。今まさに人の道を踏み外そうとしているその様相は醜悪といって差し支えず、相対する二人に凍えるような感覚を覚えさせる。
「っひ、ふひ……本当に来たのね。しつこい奴ら……」
「言いましたよね、犠牲はあなた一人じゃ済まないって」
「だから何? どうせあんた達だって自分の身だけ守りに来たんでしょ……本当は他人なんてどうだっていいのよ、そうやって都合つけて人を叱ればサマになると思って……」
距離があるにも関わらず、呟くように話すせいであまり聞き取れない。むしろ一人で喋っているようにも見えるその様子は、最早話など通じないことの裏返しだろうか。
既に魔法陣は書き上がっている。詠唱が始まれば、もう引き返すことはできない。
「どうせ死ぬなら誰が道連れでも同じ……他人の事情に首突っ込んだこと後悔しなさい……!」
小さい声でまくし立てると、璃愛は大きく息を吸い―――右手に持ったホイッスルを吹き鳴らした。甲高い長音が体育館の中を駆け回り、その音を号令とするように魔法陣に光が走る。
すかさず舞華たちもブローチに手をかけ、その身を翻した。
《魅せよ、第一の舞・契約の主天使達! 悪を打ち砕き、正義を貫く我が身に光を! ドミニオンズ!!》
《轟け、第一の戦慄・契約の能天使達。掟に従い、悪しきを正す我が手に武器を。エクスシーアイ!》
幾度も悪魔と対峙した二人には何の驚きもないが、記憶を消された璃愛は
援護のため二階に上がったロザリオが、その名を叫ぶ。
「フラウロス……!」
名前を呼ばれた悪魔……フラウロスは口角を歪ませ笑うと振り返り、魔法陣から出て璃愛の前へ歩み寄る。その一歩ごとに璃愛は怯え、痙攣するように肩を震わせた。
やがて足を止めたフラウロスは、丁寧な仕草で璃愛に一礼し、よく通る低い声で諭すように問いかけた。
「さあ、お呼びでしょうか我が主よ。何なりと申し付けを」
「……ぇ、ぁ……」
その光景を見ながら、舞華の脳裏をある本の記述が駆け抜ける。それは優乃たちと悪魔の情報を共有していた時のこと。優乃が目をつけたのがフラウロスであり、その内容は
―――召喚した者の敵対者を焼き尽くすとも言われますが、魔法陣の中にいない時は真実を言わず嘘をつく、そうです。
もし、それが本当のことであれば。今取っている態度は嘘、ということになる。一見すれば丁寧な所作に見えるそれも、璃愛の警戒を解いて取り入りやすくするためのものだろう。
あれ以上喋らせてはいけない。そう感じた舞華は律軌に目配せすると渾身の力で跳躍した。剣は腹の前でフラウロスの方を向くように構え、腕を広げないことで空気の抵抗を減らす。身体を守る天使たちへ指示を出し、脚へ魔力を込め打ち出すことでより飛距離と速度を伸ばす。
「フラウロォォォォォオオス!」
「おっと」
「ひぃっ!」
突き出した剣はかわされ、舞華の身体は軽く浮き上がるようにしてゆるやかに着地した。主天使が持つ指示の力も、上手く使いこなせるようになっている。勝てる。
栗色の髪を揺らして、半人半豹の悪魔と対峙する。相手の能力が知れない以上、簡単に踏み込めば大火傷を負う可能性が高い。しかし、璃愛の近くで戦闘を行うのは不要な危険が伴う。どうにかしてフラウロスをステージ上から引き離さなければならない。
「はっ!」
右手に握った剣を大振りに横へ薙ぐ。反対方向に飛び退いてくれれば目論見通りだが、果たして。
「なんだ?」
困惑、ではない。舞華の意図を理解したような一言と共に、黒い肢体はステージを降りる。璃愛と舞華から離れたことで誤射の危険性が薄れたと判断した律軌は、フラウロスの脚を狙って引き鉄を引いた。
通常の射撃において、脚を狙うというのは得策ではない。胴体と比較して面積が狭く、命中率が大幅に低下するためだ。まして今の相手は人間の比にならない運動能力に加え魔法の力を使う悪魔。まず当たることはないと見るべきだろう。無論、律軌もそれを理解していない訳ではない。
狙ったのは着地の瞬間。床に足をつけるのであれば、その一瞬は回避が困難になるだろうという判断が一つ。そして、大人しく攻撃を受けるはずもない、あわよくばその能力の片鱗が拝めれば御の字というのが、もう一つの理由。
弾丸は空を切って漆黒の肉体へと向けて飛び―――
「っ」
「消えた!」
「……おお、危ない。今のは致命傷だ」
炎に包まれ焼失した。
やはり何かがあると確信した律軌は、続けて弾丸を撃ち込もうとする。
だがその刹那、律軌を取り囲むように床から炎が上がった。炎はフラウロスの身の丈ほど、律軌からすれば身長の一回りほども高く、消えることなく燃え盛っており飛び越えるようなことはできそうにない。
ならば多少のダメージを覚悟して突っ切れば、と身を投じようとした時、ロザリオの声が響く。
「触れるな! どうなるかもわからない!」
「っ!」
反射的に足でブレーキをかける。ロザリオの言う通り、この炎は悪魔の使う魔法だ。安易に触れれば、何が起こるかわからない。しかし、四方を囲まれている以上触れずに抜け出すことは不可能だ。
しかし、優乃がいない今、律軌が動きを封じられれば戦えるのは舞華ひとりになってしまう。舞華の腕を信用していない訳ではないが、既に想定外が起こっている戦場で悪魔と一対一で戦うのは危険すぎる。
「さて……不利になったな」
「どうかな……! 第二の舞・慈悲の短剣!」
舞華は右手に直剣、左手に
しかし、時間がないこともまた確かだ。律軌は追い込まれ、戦えるのは自分だけ。少しのミスが大勢の死に繋がる―――
―――いつものことでしょ、急ぐな休むな。
力技にも近い言葉で自分の思考を押さえつけ、舞華は跳躍する。ただ跳ぶだけでは通じないと断じ、床を蹴った地点とフラウロスの間に直剣を投げつけ、床に刺さった剣の柄を足場にして再び跳ぶ。ほぼ頭上を取り、上半身を丸めると一回転して右脚を伸ばし、踵落としの体勢を取った。
「ぬうっ!」
強靭な右腕で防がれる。ならばと畳んでいた左脚を伸ばして腕を蹴り付け距離をとった。着地する先は直剣の隣、すぐに引き抜いて構える。
どうにかして短剣を突き立てることができれば、ザドキエルの力で力関係を逆転させることができる。しかしそれは、裏返せば舞華ひとりで勝つためには他の方法がないという一縷の望みでもあった。
当然、遠距離かつ突発的な攻撃手段を持っているフラウロスの方が圧倒的な優位にあり、状況は絶望的となったまま。
やって見せると歯を食いしばり、舞華は再び走り出した。
一方、律軌は炎の中で唇を噛む。敵が見えない今、自分にできることは無い。攻撃自体はできたとしても、相手の位置がわからないのであれば無駄でしかなく、万一舞華に被弾でもすれば一巻の終わりだ。
焦燥のまま思い返す、これまで自分がどれだけの戦果を上げただろうか。まったくの無ではないことは律軌自身もわかっているが、それでもほとんどの成果は舞華によって挙げられてきたのではないか。
自分に、自分に、何ができたと。何ができるというのだろうか。
「……」
体が冷えていくような感覚。呼吸が浅くなるのは炎の中で酸素が薄れるからか、はたまた自分の無力さを痛感してか。
唇を噛みちぎってしまいたかった。このまま炎の中に身を投じてしまいたかった。舞華より数刻とはいえ先に、そして―――明確な目的を持って魔法少女になったというのに、この様だ。
自分を取り残して、世界が遠くへ行くような感覚に襲われる。
―――
どこか遠くなる音たちの中に、何か聞こえた気がする。床を蹴る音か、空を切る音か、殴打の音か、誰かの声か。
―――
やけに大きい、誰かの声。ロザリオか。それとも璃愛が止めを刺しにでも来たのだろうか。しかしそのどちらにも似つかない。
―――
そんな大声で響かないで。頭の中に直接響き渡るようで無視せずにはいられない。ならばせめて冴えた手立てを
「っ!」
顔を上げる。意識を急速に現実まで引き揚げると同時に、理解した。天使の声が聞こえる。ここまではっきりと語りかけてくるのは律軌にとっては初めての経験であり、それゆえに気付くのが遅れてしまった。
この状況で聞こえるということは、何かあるに違いない。静かに呼吸を整え、耳を傾ける。何を語ろうとしているのか、自分に何かできるのか。
正に天啓、というのだろう。舞い降りたまたとない機会に喜びに似た感情すら湧き上がってくる。急ぎギターを取り出した律軌は、思い切りそれをかき鳴らした。
《轟け、第二の旋律・天罰の
蒼き波動が集まっていく。詠唱の波動でさえ炎を消すには至らない。しかし、それでも。
律軌の足元に現れた黄金の杯は、確かな希望の現れであった。
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