第27話 君がいいんだ……
どれくらいの時間、そうしていただろうか。でも寒いからそんなに長い時間ではなかったかもしれない。
ヒカリは自分の着ていたジャケットをソウタにかけるとスマホでタクシーを呼び、病院に電話をかけた。
ソウタが無事でいること。そして今日だけはソウタのことを自分に任せてほしいこと。
それを伝えると病院の看護師は快く申し出を受け入れてくれた。
少し時間が経過し、タクシーが来る時間を見計らってから「ソウタ」と声をかけると。彼は身体を小さく動かし、ゆっくりと身体を起こした。
「ソウタ、一緒に来て。大丈夫だから」
ソウタはうなずかないが、自分が先に立ち上がるとふらつく足取りで立ち上がり、身体をフラフラと揺らす。まだまともに歩ける状態じゃないのに、なんでここに来たのだろう……全く、ソウタは。
彼の肩を支えながらヒカリはゆっくりと移動した。部屋を出て階段を降り、そのまま外へ向かうとすでにタクシーが待っていた。ソウタを手前に座らせて自分は反対から乗り込む。
行き先として告げたのは自分の家の住所だ。走行している間、ソウタは何一つ言葉を発さなかった。
もしかして話せなくなってしまったってことはないよね、と不安になるものの、今はソウタのそばにいてあげるんだと思い直した。
自宅は住宅街にある二階建ての小さなアパートだ。部屋は自分と母の部屋とリビングと……トイレと浴室。決して広くはないけれど、ずっと暮らしている我が家だ。
鍵を開け、玄関に入ると母がびっくりした顔で立っていたので。事情を説明すると「そうね、ゆっくり休ませてあげなさい」と言ってソウタを迎え入れてくれた。
ひとまず自分の部屋へ行き、ソウタを休ませなければと思って自分のベッドに座らせる。そして冷えた身体をあたためるため、毛布を身体に巻いてあげた。頭からすっぽりとかぶせてやると、抵抗しないから子供みたいで愛らしいと思った。
次に一度台所へ行き、あったかいホットミルクを作ってから、また部屋に戻る。ソウタにカップを手渡そうとしたがソウタは受け取らず。仕方なくそれはテーブルの上に置いた。
他に何をしてあげればいいだろう。座ったまま遠くを見て、身動きしないソウタ。今の彼に必要なものは、なんだろう。
とりあえず……そうだな、とりあえず。
ヒカリはベッドに座るソウタの前にしゃがみ、彼の膝に置かれた彼の両手を、先程と同じように握った。まだ少し冷たかったが、さっきよりはあたたかくなっている。
とりあえず自分の体温でもっとあたたまれ、と思って両手をギュッと包んだ。
下からソウタの目をのぞき込む。
ソウタは何回かまばたきをしたあと、戸惑うように視線を左右に動かしていたが、少ししてからやっと自分と目を合わせてくれた。
久しぶりにソウタと向き合うことができた。口を閉じたままのソウタに、まずなんて声をかけようかと思った。聞きたいことはたくさんある。話したいこともたくさんある。でもまずは何を言ったらいいだろう。何を言ったらソウタがもう逃げずに話をしてくれるだろう。
ソウタの虚ろな目を見ながら、ヒカリは考える。
そして思いついたのは言葉がいらない行動だった。
ヒカリは膝立ちするとソウタに顔を近づけた。そして閉じられた唇に自分の唇を重ねた。
ソウタとこうしてキスをするのは二度目だ。でも自分はソウタ以外にそんなことをした経験はないから、どうやるのが正解なのかわからない。テレビとかの見様見真似でとりあえず唇をくっつけてみる感じになったけど……いいのかな、これで。すごくドキドキする……ソウタ、まだ冷たいや。
唇が触れた時、ソウタの身体が驚いたようにビクッと強張ったのがわかった。驚いたのかもしれない、自分だって思いつきでキスしてしまって、ちょっとびっくりだ。でもこれならソウタが受け入れてくれるだろうと思ったから。
唇を離すと、ソウタの視線が目前にあった。ヒカリはその瞳を見ながら自分の思いを口にする。
「ソウタ、俺、ソウタといるのが幸せなんだ」
ソウタの瞳が驚いたように揺れた。けれど、目をそらさずに見つめ続けてくれている。
今が自分の気持ちを伝える時だと思った。
「ずっと今までもそうだったよ。俺はソウタといると幸せだったんだ。それにずっと気づけないでいた。自分が幸せだったんだって気づいたのは割と最近で……でもソウタのことを何も知らずに、ずっとソウタのそばにいたから……ソウタには苦しい思いをたくさんさせちゃったよね……ごめんね」
君の環境を何も知らずに。なのにもっと知りもしろうとしないで。君の明るさに自分は甘えてきてしまった。
だから、だから今度こそ、自分は迷わない。
「本当に望むのはソウタと一緒にいることなんだ。だから、ソウタ……一緒にいて欲しいんだ」
ヒカリは膝立ちをやめ、もう一度ソウタの前にしゃがみ込んだ。少し距離を置くとソウタの表情がよく見えた。
だが重なり合っていた視線を、ソウタはフッとそらしていた。
俺のことは気にするな。
それはソウタがいつもやる癖。自分のことは気にしないでいいんだ、と。彼が無意識でやっているものだ。
そんなことはさせない。ヒカリはソウタに伸ばした手を彼の頬に当て「こっちを見て」と言う。
恐る恐るソウタの視線がこちらを向くと、再び視線が交わった。
その途端、ソウタの目から涙が溢れ出した。それを耐えようとしているのか、唇をギュッと引き結んではいるが涙は止まらず、身体が小刻みに震えている。
それはきっとソウタがずっと色々なものに耐えてきたという証拠だ。
ソウタは「オレ」と小さく口を開いた。
「……あの家が嫌いだった。帰っても誰もいないし、家族は誰も来ない。そうしたのはオレだってわかってるけれど嫌いだった……でも俺はあそこにいるしかなかったから、他にいられる場所はなかったから」
震えながらつぶやかれる言葉に、ヒカリは「うん」とうなずく。
「母さんと住んでた家は、もうないんだ……狭いアパートだった。けどあっちの方があたたかったな……父さんは仕事ばっかりでほとんどいなかったけど。でも帰ってくれば、あったかかった。今の家はずっと寒くて暗かった……」
「うん……」
「わかってる、わかってるんだよ……父さんだって幸せになるためにいるんだ、幸せになる権利があるんだ……でもオレ、どうしても……受け入れられなくて……新しい家族、良い人なんだけど、そんなすぐには……」
「そうだよね」
「でも、ヒカリと出会ってヒカリがたまにあの家に来てくれるようになって、オレ嬉しかった。ヒカリがあったかいご飯作ってくれるのがすごく幸せだった……お前はオレに幸せをくれた。だからオレも、お前の幸せを願っていた、応援してた。ちょっと苦しかったけど……いつも応援していたんだ」
「幸せか……ねぇ、ソウタ。あの絵馬は一体いつ飾ったの?」
この前、紀和神社に行ったら真新しい絵馬がかかっていた。そこにはソウタという名前があって『ヒカリが幸せでありますように』という願いごとが書いてあったのだ。たまたま同じ名前の人物が書いたにしては偶然がすぎる、ということは、書いたのは――。
「オレが書いた。目が覚めて、お前のメールを見て何があったかを全部知って。病院を抜け出して……書いたんだ。でもお前の幸せをオレが壊したんじゃないかと思ったら、自分がやってきたことはお前のためにならなかったじゃないかって。そう思い始めたら、全てどうでもよくなった。お前の幸せのためにオレはいらないと思った、だから――」
だから自分を遠ざけたのか。拒絶したのか。
バカだなぁ、ソウタ。そんなことする必要なんてないのに。
「ソウタ、そんなことはないから。そんなことは絶対にないから。気づくのが遅くなっちゃったけど、ソウタがずっとそばにいたから幸せだったんだ」
ヒカリはそう言い、ソウタの手をもう一度握りしめた。ソウタの手は先程よりもずっとあたたかくなっている。涙で濡れている頬も赤みを取り戻していた。
ソウタは戸惑うように「ヒカリ」と名前を呼んだあと、こう言った。
「……今、幸せなのか?」
願うような小さなつぶやきだ。そんなのソウタらしくない。ソウタはいつも元気で調子がいい、それがいいんだ。
そうしてあげられるのは、自分だけだ。
ヒカリは笑みを浮かべた。
「うん、今、目の前にソウタがいるから。俺は幸せだ」
それを聞いたソウタが目を細めると、また涙が流れた。その口元のはにかむような笑みが「オレでいいのかな」と申し訳なさそうに言ったから。
「もちろん、ソウタがいい」
俺は、もう一度君を選んだ。
「ねぇ、ソウタ。何か食べたいものある?」
その答えは決まっている。
でもずっと何も食べてなかったから、まだ少ししか食べられないけど、と。ソウタは遠慮がちなことを言いながら笑顔を見せてくれた。
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