第26話 冷たい君の手

 ソウタはいつでも自分の元に駆けつけてくれていた。ほんの些細なことでも命に関わることでも全力で走って来てくれた。

 だから自分だってソウタの元へ走って行きたい、すぐにでも彼の元へ行きたい。


 しかし裁縫や料理しか能のない自分にとって走るという能力は皆無なのだ。五分走っただけなのに息が限界だった。さすがに苦しくて途中で立ち止まって、何回も呼吸を素早く繰り返して歯を食いしばった。


 暗い道なのに、自分の荒い呼吸音が響いていると出会った人はびっくりするかもしれない。

 けれどそんなことはかまっていられない。ソウタの元に走るんだ、急ぐんだ、彼を見つけるんだ。


 そういえばあとで聞いた話だが。自分が高熱を出して学校を休んで、ソウタが家に差し入れを持ってきてくれた時があった。ベッドから起き上がれなくて、母さんが代わりにソウタからの差し入れを受け取ってくれたのだけど。


 あの時、ソウタはわざわざ部活を休んだのかなと気になっていたが。あとで部員に聞いたら、どうやら休憩時間に急いで差し入れを買って家に来て、また全力で部活に戻ったらしい。家と学校の距離はそこそこあるので休憩時間内に行き来できるのはソウタならではだよね、と。話をした部員はさすがだと感心していた。

 自分は無謀だよなぁと、ちょっとあきれたけれど、でもカッコイイことするなと思ってしまった。


 いつもそうだった、ソウタの走る姿はカッコイイんだ。走っている時の真剣な姿が、前を見る視線が、どんなに走っても余裕そうな表情が陸上部の後輩や自分という――見ている者の胸を高鳴らせるのだ。


 けれど出会った頃のソウタは何もやってはいなかった。いつからだったのだろう。ソウタが陸上部に入って走る姿を頻繁に見るようになったのは。


 一番最初に見たのは……ソウタが自分がなくしかけた五円玉を颯爽と現れ、拾ってくれた時。

 そして次は修学旅行で迷子になった自分の元に駆け付けてくれた時、それから……その他にも色々あったな。全部、助けに来てくれた時かもしれない。

 それで俺は何気なく、言ったんだよな、ソウタに『ソウタの走る姿、俺好きだなー、カッコよくてさ』って。


 深呼吸を繰り返してから、ヒカリは再び走り出した。暗い住宅街を右へ左へと路地を曲がり、自分の持てる力の限り、足を動かした。


 そうだ、ソウタはカッコイイんだ。ソウタの走る姿が俺は大好きだったんだ。

 そんなソウタが大好きなんだ……!


 無我夢中で走って、どれぐらい時間がかかったかもわからない。息も絶え絶えになっていたが、見慣れた大きな一軒家の前に来ることができ、ホッとしたのも束の間。膝に手をついて荒い呼吸を繰り返すほど、身体の酸素は足りなくなっていた。


 でもソウタに早く会いたい……!


 必死に呼吸を繰り返して酸素を取り入れ、目の前の家を見上げる。一軒家は暗い夜空の下、明かりも点けずに佇んでいる。すでに住人は寝静まったのではないかと思うが――見た目とは裏腹に住人は元からいなかったに等しいのだ。


 ソウタがここにいるかは、わからない。でもここにいるかも、そう思った。

 胸の中の早い鼓動を感じる。額からは汗が流れる。焦り、不安、緊張……全部の感情が混在している。

 ソウタの存在を願いながらヒカリが玄関ドアに手をかけると、 それはすんなりと開いた。

 中はしんとしていて空き家なのかと思うほど。今までソウタに「今日は誰もいないの?」なんて無神経なことを言ってしまったことを今さらだが後悔する。何も知らなかったとはいえ、一緒にはいない家族のことを聞かれるのは、いつも苦しかったのではないか。

 それでもソウタは笑っていたけど。


 廊下を抜け、スマホのライトを頼りに二階への階段を一段ずつ上がる。上に行くとちょっとずつ空気が冷たくなるような気がする。

 こんな寒いところにソウタはずっと一人でいたんだよね……ごめんね、心細かったんじゃないかな。わかっていたら、ソウタのそばにいたり、ソウタとずっと電話していたのに、なんとかしていたのに。


 それにソウタとつながっていた居場所通知アプリ、あれをオフにしていたのは俺の方だったんだよな。


 それはつい最近、気づいたことだ。あのアプリがずっと反応しなかったのはソウタのスマホのせいではない。自分がオフにしていたからだ。修学旅行が終わってしばらくして、もう使わないだろうとオフにして、ずっとそのままにしていた。


 それをこの前、ポケットに入れた五円玉に触れようとして指紋認証でのロックが偶然に解除されて、スマホ画面に指が触れてアプリがオンになった。

 そしてソウタの居場所を知らせてくれたんだ。

 オレはここにいるよ、オレは今起きたんだよ。そう知らせてくれるように。

 もしかしたらソウタはずっと気づいて欲しかったんじゃないかと思う。ほんの些細なものだけど何かしらのつながりをずっと持っていたかったんじゃないかと思う。自分はそれを遮断してしまっていたけれど。

 それを思うと胸が痛かった。


 階段を上りきると以前のように二つのドアがあった。奥の扉はソウタの父さんの書斎だった場所 。そして手前がソウタの部屋……ドアはまたしっかりと閉じられていた。


 この中に彼はいるのだろうか。彼はここまで歩いてきたのだろうか。また気づかれずに誰にも見られずに。ここにいるつもりなのだろうか。


 今度はそんなことはさせない。

 俺は彼を選んだ。彼をもう一人にはしない。


 ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開くと冷えた空気がスゥッと流れた。


「……ソウタ』


 ソウタはそこにいた。荒れた部屋の中、病院の患者用の白いパジャマを着て、ベッドの上で何もかけずにこちらに背を向けて横になってあた。寒い空気に耐えるように身体を丸くしていたけれど、その姿を見た途端ものすごく不安になった。


 寒い部屋で薄着で、ろくに食事も栄養も取っていないソウタ。

 まさかと思って彼の素足に手を触れてみた。

 冷たすぎる、氷みたい……やめてよソウタ。


 ベッドに歩み寄り、彼の元へ。その首にそっと手を触れる。

 ……よかった、首はあたたかい。

 けれど小さい呼吸が今にも止まるんじゃないかと不安になるぐらいだ。


「ソウタ」


 愛しいその名前を何度も呼ぶ。


「ソウタはいつもそばにいてくれたのに、ごめんね」


 背中を向けて眠るその存在を包むように後ろからソウタを抱きしめる。

 久しぶりに触れたソウタの感触。何も食べていないから痩せていて骨ばっている。


「ソウタ、また一緒にご飯食べようよ。おいしいもの、ソウタに色々作ってあげたい。ソウタの大好きなナポリタンも作ってあげたい、何度でも作ってあげたいよ」


 ヒカリは後ろから手を伸ばし、胸の前にある彼の手をつかむ。あまりの冷たさに驚いたが、あたたまってほしいと思って、ギュッと握った。

 すると彼の手がピクッと動いた。つかんだ彼の手とは反対の手が、自分の手にそっと触れてくる。力のない指先が自分をつかもうとしているかのように力が加わる。無意識なのかどうかはわからない。


 けれどソウタが自分を受け入れてくれたような気がして嬉しかった。嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。

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