第9話 ざわつく心

 笑顔の先輩がさらに嬉しいことを言ってくれるんじゃないかと期待していたが。無情にも観覧車は既に一周の旅を終え、係員によってガチャリとドアが開かれていた。


 ありがとうございました、と係員に促されると。先に外に出た先輩が、あとから続く自分のことを「気をつけて」と気にしてくれる姿が紳士的だなぁ、と静かに心をときめかせていた。


「終わっちゃったね。なんだかすごく早かった気がする」


 頭上でゆっくりと回り続けている観覧車を見上げ、先輩はつぶやく。止まっているように見えるけれど観覧車は確実にゆっくりと動いている。今さっきまでたくさん並ぶ球体の一つに自分たちはいたのだ。景色を楽しむ間なんてなかったけれど。


「……そろそろ戻らないとかな」


 先輩の言葉に「そうですね」と返し、スクールバッグに入れていたスマホの時計を見やる。観覧車の明かりで辺りは華やかに照らされているが空はすでに真っ暗だ、風も冷たい。

 卒業式の前に卒業生代表として挨拶をする予定の先輩に風邪を引かせるわけにはいかない。


 結局、何もお互いに言えないままだった。先輩との時間は楽しかったけれど、もっとこう、何かがあればよかったなと思ってしまうのは欲深だろうか。先輩と出かけられただけ、よかったと思えばいいのに。


 別に本来伝えようとしていた言葉は卒業式の日に言うって決めていたんだ、だからこれでいいんだ。先輩と話ができただけでいいんだ。


 先輩と共に歩き出し、エスカレーターで階下に降りて、出入り口である噴水の広場に戻る。

 まだまだ人はたくさんいる、仲睦まじ気な恋人同士ばかり。これからの時間帯はそんな人たちの憩いの時間なのだ。


 両開きの自動ドアが開き、外からの冷たい夜風がすっと頬をなでた。

 名残惜しいけど帰らなくては。

 そう思ってヒカリが先に歩き出した時だった。後ろから先輩の呼ぶ声がした。


「ヒカリ君っ、ごめん……本当は言おうと思っていたんだ。ごめん、俺、意気地ないからっ」


 急に先輩が焦ったように話し始めた。振り返って先輩を見つめると。

 そこには笑顔のない先輩がいて、苦しげに眉を歪めていて。見たことがないくらい不安そうな表情をしていた。


「ヒカリ君、俺……初めて見た時から気になっていた。だんだん話をするうちに、君に破れた服を直してもらったり、君がたまに差し入れですと言われて作ってくれたおいしいお菓子を食べたり。君と話して、君の笑顔を見るうちに――」


 先輩が必死に言葉をつむいでいる。周囲には人が行き交い、人の足音や車の走行音が響いているというのに、この場には先輩の声しか聞こえないかのように、先輩の声だけがよく聞こえる。つむぐ一言、一言がゆっくりと自分の頭の中に入っていく。


 先輩……? 久代先輩、どうしたんだろ。一体、何を言おうと? 

 心臓がバクバクしてきた、唇が強張ってしまった。先輩、待ってください、待って。


「俺は君のことがたまらなく好きになっていった」


 ひときわ大きく心臓がはずむ。その言葉は先輩に誘われた時点で、もしかしたら言われるかもしれないと期待していた言葉だ。

 言われたよ、言われてしまったよ、先輩に……ウソでしょ、本当に? こんなことが起こっていいの、これは夢じゃないの、本当なの?


 心臓のバクバクと、動揺と、色々なものが止まらない。黙って先輩を見つめるしかできない。


「卒業して離れてしまう前に、君に想いを伝えたかったんだ。そしてもしできたら、俺の恋人に、なってほしい」


「こっ――」


 言おうとしたけれど言葉が出ない。口から出ようとした瞬間に言葉が舌の上で瞬時に蒸発してしまった。


「ごめん、こんな場所で言われても、だよね。本当はもうちょっと早く、二人きりの時に言いたかったんだ、ごめんね」


 先輩は申し訳なさそうに頭を下げる。そんなのは先輩のせいじゃない。だってこんなふうに想いを伝えるなんて決断、そう簡単にできるものじゃない。自分だって悩んで悩んで、やっと決めたのだ。それでもまだ揺らいでいるのだ、先輩に告白をしてもいいのかどうかを。


 けれど先に言われてしまった、ならばどうするべきか。返事をすればいいだけだ。自分も好きで、とても嬉しいことに先輩も自分を好きだと言ってくれたのだ。応えるしかないだろう。


 それなのに自分の口からは言葉が出てきてくれない。なんで、なんで出てこないの。自分も好きなんです、って言えばいいだけなのに!


「……ごめん、急に言われても、困るよね」


 先輩が苦笑いする。違うんです、となんとか言おうと思った時だ。

 自分に歩み寄ってきた先輩が、小さな紙のような物をそっと自分の手の中に収めてきた。


「ごめん……あの、俺、今この場で君の返事を聞くのが、実は怖くてたまらないんだ。だから卒業式の日に、君が俺の気持ちに応えてくれるなら。ここに連絡をくれたら嬉しい」


 先輩はそう言いながら後退り、距離を保つ。

 手を軽く動かしてみると折りたたまれた紙片の感触がした。先輩に渡された紙には電話番号かアドレス的なものが書いてあるのかもしれない。


「突然のことで驚いたよね、でも考えてほしい。俺、本当に君が好きなんだ。君と一緒にいたいんだ……今日はありがとう、また、ね」


 先輩は頭を下げると足早にこの場から離れて行ってしまった。残された自分は紙を落とさないようにギュッと握りしめ、考えがまとまらない頭のまま雑踏を抜けて、無心で歩いた。


 しばらく歩いて人気のない暗がりに来てから「はぁ」とため息をついた。身体を前屈みにして膝に手を突いて肩を上下させた。

 走ってもいないのに息が切れていた。苦しい呼吸をなんとかしようと呼吸を繰り返した。まだ心臓がバクバクしているし、さっきの出来事に対してどうしようと自分の頭がパニックを起こしている。


 ひとまず気持ちを落ち着かせなければ、とヒカリは持っていたスクールバッグの中からスマホを取り出し、スライドしてロックを解除する。

 震える指で電話帳のお気に入りフォルダを開き、ある人物に電話をかけた。


『はいはいー、どうした』


 相手はコール二つで出た。こっちの状況などおかまいなしのその明るい声は緊張で震えてしまう身体に「大丈夫だよ」と、背中に手をポンっと優しく置かれたような安心感を与えてくれた。


「ソウタ、あの――」


 ヒカリは言い淀む。何を言ったらいいのか、電話をかけた時点からわからなくなっている……いや、このあとソウタと会うのだから、その時に話せば良かったのだけど。

 なんとなくソウタに早く言いたい気分で電話をかけてしまったのだ。


 言葉の続かない自分を妙だと察したのか『どうした』と落ち着いた口調が語りかけてくる。


『なんだぁ、もしかして来られなくなったとか?』


 電話だけれど、ヒカリは首を横に振った。


「違う、そうじゃない、そうじゃないんだ。先輩に……先輩にさ……」


 嬉しいことのはずなのに、そこから先の言葉は怖いものでも口にするかのように出てこない、その事実はとても嬉しいはずなのになぜだろう。

 なぜ自分はそれを不安に思っているのだろう。


 自分が先輩の質問に即答できなかったから?

 もし先輩が完璧じゃなかったら自分は先輩を見ていなかったかも、と一瞬だけでも思ったから?


 先輩のことが好きだ。好きなのに、おかしい。そんなたとえ話くらいで、心がぐらついてしまうなんて。自分の考えはおかしいんじゃないか。


『ヒカリ、大丈夫だから』


 耳に響くその声に反応し、ヒカリはハッと顔を上げた。


『とりあえずさ、こっち来れば?』


 落ち着く声。自分をゆっくりと答えのある方向へ導いてくれる声。


「うん、わかった」


 自然と返事をしていた。

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