第8話 互いに臆病で

 フレームの薄い眼鏡の向こうにあるその瞳を見た途端、驚きと緊張のせいで口からつむぐはずだった言葉が引っ込んでしまった。

 久代先輩も一瞬何があったかわからないといった感じで、何かを言おうとした唇を半分開いたまま唖然としていた。


 お互いに何を言おうとしたのか。再び話し出すきっかけがないままに無言の時間だけが過ぎていく。窓からの景色は、この空間にいる者は誰も見ていないのに次々とスライドショーのように景色を変えていっている。

 そんな中でどうしようかと思っていると。

 先に時を動かしたのは久代先輩の苦笑いだった。


「ごめん、何か言おうとしてたんだけど……今ので忘れちゃった」


 先輩はそう言うと同じように緊張していたのか、ため息を吐きながら肩を落とした。昼間、自分を誘う時もそうだったが先輩は意外と緊張するタイプなのかもしれない。いつも生徒の前で講演とかになると堂々と演説をしたり、意見を述べたりしているのに。


 自分の言いたかった言葉も再び引っ込んでしまい、行き場をなくして胸の中であちこちにぶつかっていた。これが再び出せるチャンスは再びくるのか、いやもう今はないかも……そう思うとまた決意が揺らぎ、モヤモヤしてしまう。


 だからだろうか、頭の中で「どうしたらいい?」と。聞こえるはずのないとある人物に向かって自分は無意識に語りかけていた。


 ねぇ、どうしよう。ソウタに練習した時みたいに、すんなり言葉が出ないよ。それとも言わない方がいいのかな、どう思う、ねぇ……。

 情けないとは思いつつ、モヤモヤをどうにかしたくて、いない親友に助けを求めてしまう。こんなことでは「自分で決めたことだろう」と、また怒られるだけだ。

 しっかりしなきゃ、決めなきゃ……。


「あの、ヒカリ君」


 色々なことに脳をフル回転させていた時、先輩が恐る恐る声をかけてきていた。先輩は話題を変えようと思ったのか「そういえば君といつも一緒にいる友達はすごく仲が良さそうだね」と思いがけないことを聞いてきた。

 今それを聞きますか、と思ったが。先輩に聞かれたのだから答えなければならない。


「あ、はい。あいつは中学からの同級生です。何かと一緒に行動するヤツで今日もこのあと――」


 そこまで言いかけてヒカリはハッとした。なぜそこまで言おうとしてるんだ、それは余計だ、と自分で自分を注意した。

 先輩は窓の外に向けていた視線をチラッとこちらに向けたが、すぐにまた窓の外を見た。


「そうか、中学からの……じゃあ俺と瀬戸川と同じだね」


「久代先輩たちも中学から一緒なんですか?」


「そうだよ。君たちと一緒で俺と瀬戸川も何かといつも一緒にいることが多い。あいつと一緒は楽だし、気も使わないからかな。別に何を話すわけでもない時でも一緒にいたりする」


 それは自分とソウタも同じだ。何かを話したい時や別に何も話すわけでもない時でも、自然といつも一緒にいる。空気のように当たり前のようにいる気兼ねのしない存在だ。


「でも瀬戸川先輩と久代先輩は進む大学は別々ですよね。離れるのはイヤなんじゃないですか」


「そうだね。でもあいつはやりたいことが別にあるし。俺も学力に合わせて大学を選んじゃったから。でもきっとなんだかんだで、またいつも一緒にいるんだろうなぁと思う」


 そう言う久代先輩の表情はとてもやわらかい。それだけ瀬戸川先輩に気を許しているということだろう。


「あいつの方が性格もさっぱりしているから、話していて気持ちがいいよね。俺は一度怖いなと思ってしまうとなかなか……再び自分の気持ちが奮い立てられなくて」


「え、久代先輩がですか? だって先輩、いつも堂々としてカッコイイのに」


 伏し目がちになった先輩の視線がこちらを向く。見れば少し寂しそうな色をしていて、まずいことを言ってしまったかなと、ヒカリは息を飲んだ。


「……本当? 俺は堂々とできているかな。ちゃんと、しっかり、しているかな?」


「は、はい、先輩はいつもなんでもできる、俺にとっての憧れですよ」


「ヒカリ君から見て、俺はカッコよく見えているかな」


「もちろんです、それは俺だけじゃなくてみんなもそうだと思いますけど。先輩はもちろん、カッコイイです……とても」


 そういう言葉を口にするだけで、ものすごく緊張してきてしまう。昨日ソウタに「カッコイイなぁ」なんて口にした時は全然そんなことなかったのに。それだけ自分が目の前の存在に身構えているということか。


「ヒカリ君にそう思ってもらえるのは、とても嬉しいよ」


 久代先輩はそう言って笑ったが、次には申し訳なさそうにふぅっと息を吐いていた。


「でも、もしそうじゃなかったら俺はカッコ悪いかな。俺がそう見せてるだけで実は何もできない怖がりだったら、ヒカリ君はイヤだなって思う?」


 突然の問いに、ヒカリは先輩の顔を見ながら動きを止める。

 先輩、今日はどうしたんだろう、すごく考えが後ろ向きな気がする。二人きりだからか? いや、これが先輩の本当の考えだったりするのか。それともただの世間話みたいなものなのか。


 とりあえず思うのは。自分にとって先輩はいつも完璧だ。なんでもできる、なんでもこなせる。ずっとそれが素敵だと思っていた。

 その先輩がなんにもできない存在だったら?

 もしそうだったとしたら自分は先輩に目を向けていただろうか。


 初めて出会った時、初めて自分を助けようと手を差し伸べてくれる存在を見た。見上げる姿、優しい笑みを、自分は目を細めて見惚れてしまった。あたたかい手に触れて、自分は一瞬にして心の全てを持っていかれた。


 そのあとは何かあるたびに先輩を目で追いかけていた。スポーツ大会で活躍する姿、研究発表会で熱く語る姿、廊下に張り出される表彰された名前。

 偶然、廊下ですれ違わないかと教室移動の度に上級生の教室がある廊下でそわそわと周囲を見渡してみたり。

 どんな時でも自分は先輩の姿を探していた。先輩はどんな時でも目立っていた、なんでもできていたから。


 だから先輩が何もできなかったら、目立たなかったら、俺は……先輩を、見て……?


 先輩の問いに即答できないでいる自分に気づき、ヒカリは罪悪感に唇をかみしめた。

 なんでそこですぐに答えない。そんなんじゃイヤな思いをさせてしまうのに。


「ご、ごめんなさい、先輩っ。今ちょっとボーッとしちゃって」


 慌てて謝罪をすると、先輩は首を小さく横に振りながら笑った。


「ううん、いいんだ。ごめん、俺の方こそ変な質問をした。俺も緊張しちゃってるから自分で何言ってるかよくわからない……ヒカリ君、俺は君が思ってるほど完璧じゃないんだよ。その証拠に俺はさっきまで言おうと思ったことも言えなくなっているから」


「それは……それは自分も同じです。勢いに任せて言ってみようと思ったけれど、 やっぱり言えなくなっています。 先輩の問いにすぐに答えられなかった自分が恥ずかしいです。どんな時でも先輩は先輩であるはずなのに何も言えなくて……すみません」


 お互いに何も言えない時間が流れる。落ち着いたオルゴールのBGM だけが耳に届き、自分の心臓が速く動きすぎていて苦しい。先輩が何を思っているのか不安でならない。

 何か言わなきゃ。何か話さなきゃ。先輩との時間なんだ、楽しまなきゃ。

 そう思っていると先輩が先に名前を呼んだので、ヒカリは「はい」と顔を上げた。


「君が初めて俺に声をかけてきてくれたのは、俺が制服のジャケットをどこかに引っ掛けて裾が破けていた時だったね」


 先輩は思い出を懐かしむように言葉を続ける。


「破けていますって声かけてくれて、君は持っていた道具ですぐに直してくれた。すごいなって思ったよ。用意周到な君も、そんなことが手早くできる君も、そういう気づかいをしてくれる君のことも」


 それは偶然でもある。放課後、家庭科部である自分は部室に移動しようと自前のソーイングセットを持っていた時だったから。たまたま――いや、あえて目で追いかけていたけど。見かけた先輩の背中を見て、ジャケットの裾のほつれが目に入り、慌てて追いかけた。


 少しでも先輩の役に立ちたいと思って「すぐ直せますよ」とそれを受け取った時、自分のよりも肩幅が大きなジャケットと鼻をくすぐる先輩の匂いにドキドキしてしまって……糸通しの際にちょっとだけ針で指を指してしまったっけ。


 我ながらその時の自分はずいぶん積極的だったなと感心してしまう。それからはもっと先輩の役に立ちたいと思って、何かあるたびに服がまた破れていないかなとか、ジッと観察をして。でもそういう機会はなかなかなくて。

 家庭科部で作ったお菓子を持って廊下をうろつき、偶然を装って先輩に「あまったんですが食べますか」と声をかけたりしたこともあったけれど……それはちょっとストーカーっぽかったかもしれない、反省点だ。


 けれど会うたびに先輩は笑ってくれて。それはいつも舞い上がってしまうぐらいに自分の心を震わせてくれて。


「……ヒカリ君が声をかけてくれるのが俺は嬉しかった」


 先輩の言葉が聞こえて、ヒカリはハッとして先輩を見つめた。

 そこには外からのライトアップで照らされている先輩の優しい笑顔があった。

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