第23話 再会と拒絶

 ヒカリは病院を訪れた。この街で一番大きな三階建ての総合病院は一階が診療科、二階が入院やリハビリ病棟となっている。一階の白を基調としている待合室は大きな窓からの光が差し込み、いつも多くの患者が待っているが、太陽の光があるせいか温かみもあふれている印象を受ける。


 受付を済ませ、ソウタのいる二階の病室へと足早に向かう。自分の息が緊張で震えていたが呼吸を整えようとは考えもせず、ひたすら足を動かした。一年という間、通い続けたことによって顔見知りとなった看護師たちに挨拶をされ、明るい電灯に照らされた廊下を抜け、スライドドアの閉められた病室の前へと来た。


 その途端、紀和神社から無我夢中で走ってきたこと、院内をハイペースで移動してきたことに自分の身体が酸素を求め、咳込んでしまった。上半身を折り、膝に手をついた姿勢でヒカリは目の前のドアを見上げた。


 このドアの向こうにはソウタがいる……。


 先程の通知が届いた瞬間、スマホの画面にソウタの名前と位置を知らせる情報が出た瞬間――どんなに自分の心に喜びというものがあふれたことか。この一年、まったく返信のない彼のメールフォルダを見る度に、まだかなと。何かしら反応がないかと、ずっと思っていた。願っていた、また笑顔が見たいって。


 だからどうか。この喜びをむなしさに変えないでほしい。このドアを開けた瞬間に「何やってんだ?」と言ってほしい。お願いだから、あのソウタにまた会いたいんだ。


 手をかけたスライドドアがするりと開き、中の様子をさらけ出す。一人部屋である病室は窓が開かれ、白いレースのカーテンがそよいでいる。窓から差し込むのは午後の傾きかけた太陽の光。そして流れてくる、春の暖かな陽気。病室はとても暖かった。


「ソウタ?」


 だが、そこにソウタの姿はなかった。空っぽになったベッドは白いシーツがピンと張られ、布団が足元できれいにたたまれている。

 毎日のように機械音を発生させていた周囲の機械はスイッチが切られ、眠る人物につながれていた命を維持させるためのチューブの先がクルクルと丸められている。


 ずっとここに寝ていた人物が。ずっとそばで寝顔を見せていた人物がいない。ソウタがいない。棚には布団と同じようにきれいにたたまれたソウタのパジャマやタオルが置かれている。


 頭の中が真っ白になりかけた。まさか、という嫌な暗い考えが一瞬頭をよぎったが、すぐにそれは消し飛ばした。

 違う違う、ソウタはきっと検査とかだ。大きな車椅子に乗せられて診察とかをされている最中なんだ。


 お願い、そうであってくれ、

 お願いだ、ソウタ。

 お前のそばを離れさせないでくれ。


 両手の指を組み、グッと握り合わせて目を閉じた。その時、自分のスマホがまた何かの通知音を知らせた。


 この病院の三階はちょっとしたテラスになっている。入院患者や見舞いに訪れた人がリラックスして過ごせるように。

 今日は珍しく、他にテラスを訪れている人はいない。使用した人が誰もいなかったのか、いくつか設置された丸いテーブルやそれを囲むように置かれた白いデッキチェアがきれいに並んだままになっている。


 見渡せる晴れた空の下、静かなテラスの端には一人だけ、車椅子に座った状態で背を向けている誰かがいた。

 見慣れた焦げ茶色の髪――入院している間に、何回かは訪問理容で切ってもらったけれど、また伸びてしまった後ろ髪が背もたれのちょっと上に見えている。

 後ろ姿で確認できる情報はそれだけしかわからない。でもそれだけでわかる、それが誰であるのか。


 驚かせてはいけないから。すぐに駆け寄りたい気持ちを抑え、ヒカリはゆっくり呼吸をしてから車椅子へと歩み寄る。いつも横たわっていただけの姿が座っているというのが、新鮮なような不思議な感じがした。


 なぜここにいるのだろう。どうやってここに来たのだろう。

 さっきの通知音はメールではない。ソウタのスマホから送られた居場所を知らせるためのアプリからだった。なぜその設定が再びオンになり、自分とのつながりが突然できたのかはわからない。

 だが場所は、また病院を示していて。自分が訪れていないのはここだけだったから、ここだと予想した。そしてこうして、彼を見つけた。


 彼は、本当に彼なのだろうか。かすかな不安に胸がチクリと痛む。一年ぶりに会う彼は以前のような彼のまま、なのだろうか。


 ソウタ、ソウタ……本当に? 右手をその肩に触れようと伸ばしかけたが、触れる直前で戸惑いがそれを邪魔した。

 何してるんだよ、ヒカリは自分が怖気づいていることに自分で自分をたしなめ、唇を噛む。

 会いたくてたまらなかったのに、なんで躊躇しているんだ。迷うな自分――きっと大丈夫だから。


「……ソウタ?」


 やっと発することができた彼の名前はとても小さい声になってしまった。けれど聞こえたのだと思う、車椅子から覗いている肩が軽く揺れたから。


「ソウタ、ソウタ……お、起きたの、いつから……?」


 それはどれほどに望んだことか。この一年、ずっと願ってきたこと。再びいつもの他愛もない日常を送りたい。ずっと待っていた。


 しかし様子が変だ。ヒカリは胸の高鳴りを感じながらも不安に唇を引き結ぶ。

 もう一度息を深く吸ってから彼の名前を呼ぶ。そして今度こそ、と伸ばした右手を彼の肩に触れようとした時だった。


「お前は今、幸せなのか」


 小さい声なのに、はっきりと聞こえる。

 突き刺すような冷たい声。

 その言葉に全ての動きが止まってしまった。


「お前は今、幸せなのか、ヒカリ」


 彼はふり向かないまま、もう一度同じ言葉を口にする。しかも名指しだから自分のことを言われているのは間違いない。


 血の気が引くとはこういうことを言うのか。彼に問われた言葉の意味がわからない。

 わからないけれど、その言葉が自分の胸に、心臓に突き刺さり、そのまま刺さったものがえぐられたように痛くて息ができなくなった。


「オレはヒカリが幸せになれば、それで良かったんだ。それなのに、なんでお前はここにいるんだ。オレの願いはお前の幸せだけだった。お前はただ幸せになっていればよかったんだ……それなのに……」


 彼の声が震えている。見ればソウタの手には彼のスマホが握られている。

 そうか、俺が送り続けたメールを見て、だから。


 そして「オレのせいだ」とソウタは力なくつぶやいた。


「お前が幸せになれなかったのは、オレの選択が間違っていたからだ、オレのせいだ」


「ソ、ソウタ、何を言ってるの」


 やっとの思いで言葉を発したヒカリはソウタに触れようと手を伸ばした。

 だがそれを察したのか、ソウタが「触るなっ」と声を荒げた。

 はじかれたようにヒカリの手は引っ込む。初めて見るソウタの拒絶。唖然とするしかない。


「もう帰れ、もう来るな。オレはお前を幸せにできなかった。オレのせいだ、だからもうここに来るな、オレに近寄らないでくれ」


 たくさんの言葉が自分を追い詰めてくる。冷たい氷水をかけられ続けているみたいだ、全身が震えてくる。


 なんで、なんでそんなことを言うんだ……!


 声をかけたいけれど、何も言えなかった。いてもたってもいられず、ヒカリは走り出していた。屋上を離れ、階段を駆け下りて廊下を抜けて、病院を出て。

 泣き出したいのを我慢しながら、なんとか自宅にたどり着き、ちょうど母親もいなかったから。ベッドに倒れ込んで枕に顔を埋めてから、思いっきり声を出して泣いた。


 すごく悲しくて、悲しすぎて。

 でも自分の気持ちがよくわからなくて。

 とりあえず、泣き続けた。

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