第17話 なんだかんだな先輩

 上着の前ボタンを止めながら、ヒカリは目的の公園へと足を進めていた。

 春への移り変わり中である夜はまだ寒い。というより、こんな時間に夜出歩くことがないので夜中は寒いんだということをあまり感じたことがなかった。


 時刻は夜九時の、ほんの少し前。向かっているのは橘学園の近くにある大きな公園だ。周囲を囲むように遊歩道も設けられている公園は、中に子供達の遊ぶ遊具もあり、日中は家族連れでにぎやかなものだ。


 しかしこの時間になると、もちろん人気などない。いたとしたら酔っ払いか、何かを企む変質者か。街灯は点いているけれど、夜は少し不気味だなと思わせる雰囲気がある。公園内の木々が影を作り、光を遮っているせいもあるかもしれない。

 瀬戸川先輩はもういるのかな。


 公園に面した歩道を歩きながら。月明かりと街灯に照らされた公園内に目を凝らしてみるが中は無人で、瀬戸川先輩の姿はまだ見えない、と思っていたが。


 ふと、バイクの音が響いてくる。遠くから聞こえていたのがだんだんと近づき、公園周囲の車道を走ったかと思えば――公園の入り口に、そのバイクは横付けされた。

 黒の中型バイクだ。ライダースジャケットを着て乗っていた人物は背が高い人のようだ。頭はフルフェイスで覆われているので顔が伺えない。

 フルフェイスってこういう時に暗闇で見るとドキッとするよね、顔がわからないし。


 だがフルフェイスの開かれた目の部分はこちらを見ている。なんだか嫌な予感がする。

 その人物はフルフェイスを脱ぐとバイクの上にそれを置いて、こちらに向かってきた。


「早いな」


「こ、こんばんは」


 近づくと相手の顔がはっきりとわかった。いつもと服装が違うが威圧感たっぷりの瀬戸川先輩だ。バイトがあると言っていたから、その帰りなのだろう。

 けれどいかにも人を寄せつけがたいその身なりに、ヒカリも後ずさりをしたい気分になる。でもバレたら失礼なので踏みとどまっておいた。


 瀬戸川先輩は何も言わず、ライダースジャケットのポケットに手を入れたまま公園に入っていく。ヒカリも先輩の動きに注意しながら後ろに続く。


 本当に埋められたりとかしないよね。

 そんな心配をしていると。瀬戸川先輩は公園内にあるベンチに座った。


「まぁ、座れよ」


 先輩が、自らが座っているベンチの隣を指し示す。ヒカリは即答できず、内心で焦った。先輩とこんな近距離にいて大丈夫かな。射程距離ではないのか。でも座らないともっとひどい目に遭うかもしれない。


 ヒカリは渋々、先輩の隣に腰を下ろす。すぐ隣の先輩の圧迫感がハンパない、絶対に射程距離だと手に汗握り、膝に置いた両手を握りしめた。


 しかし、それは取り越し苦労だった。

 先輩は「ん」と、ポケットから出した物――あったかい缶コーヒーをヒカリに手渡してきたのだ。


 礼を述べてそれを受け取ると、先輩はカチリとプルタブを開けてコーヒーを一口飲んだ。辺りにコーヒーの香りが漂ったので、ヒカリもつられて缶を開けることにした。


 でも先輩、何もしゃべらないんだけど……大丈夫かな。とりあえずコーヒーを口に含むものの、瀬戸川先輩は先程から缶コーヒーを口へと傾けてはいるが何も話さず、ただ時間が過ぎていく。

 恐ろしいぐらい、緊張感の漂う時間。早くこの時間から解放されたいと思ったヒカリは先に声をかけることにした。


「……先輩、何やるんですか?」


 昨日言っていた、勝負について。なんの勝負かはわからないが一応気合いを入れてこなければ、足がすくみそうだったので覚悟を決めてきたつもりだ。まだ気が引けているけれど負けてはいられない。骨を折ろうが海に沈もうが瀬戸川先輩を避けては通れないのだ。

 自分のためにも負けられない、と。ヒカリは静かに奮起していた。


「――くっ」


 だが予想外なことに。気を引きしめるヒカリの横で、瀬戸川先輩は口を押さえて笑い出した。


「うくくっ……お前、なんか緊張してる? 空気のピリピリが半端ないんだけどっ」


 瀬戸川先輩の笑いで、ヒカリはハッと目を丸くした。


「じょ、冗談、だったんですか?」


「いや、冗談というか、なんというか」


 初めて見たかもしれない、瀬戸川先輩の笑う姿。そしてそれを見ていると自分が失敗を犯してしまったような居心地の悪さを感じる。


 ヒカリは歯噛みしながら失態からきた恥ずかしさに耐える。叫びたい気分だったが夜だし、近所迷惑だからやらないでおく。


「悪い悪い、いや別にお前をバカにするつもりだったわけじゃない。ただお前の覚悟がどれぐらいあんのかっていうのが、知りたかったっていうだけでなぁ」


 そう言いながら瀬戸川先輩はもう一度ククッと笑う。そして落ち着いたのか「はぁ」と息をついて目を閉じた。


「そんなふうに思っていたってことは、だ。お前はあいつを深く想ってくれているんだろう。それなのに俺がどうこう言えるもんじゃねぇし、お前を叩きのめしたってイイってもんじゃねぇから」


 そう述べる瀬戸川先輩の口元は笑っている。


「そんなお前にはさ、あいつのことを少し話しておこうかと思ったんだよ。それでお前が幻滅すんなら、そりゃそれで仕方ないってことだ」


 瀬戸川先輩は缶コーヒーに一度口をつけた。


「あいつさ、昔は全然勉強ができないヤツだったんだ、中学の頃だ。んで好きな相手がいて、それが今のお前みたいに年が一個下でひょろっちい男でさ」


 ひょろっちいは余計だなぁ、と思いながら。ヒカリはコーヒーを含み、耳を傾ける。


「でも、あいつとは学年が違っても、よく話をするぐらい仲が良くて。んである日、そいつに告ったんだ。そしたら、その一個下の奴、なんて言ったと思う?」


 瀬戸川先輩は閉じていた目を開けると、あわれむように空を見上げて目を細めた。


「自分はもっと頭も良くて、なんでもできる完璧な人が好きなんです。だから先輩とは付き合えませんって言ったんだ……今、考えてもすっげぇ失礼な野郎だったなと思う、腹立つわ」 


「……そうだったんですか」


「それからだなぁ、あいつがあんなに上を目指して完璧になったのは。本当は意気地がない、怖がりなくせに無理してんだよ。でもお前のことは好きになったみたいで俺はホッしてる部分もある。また誰かを好きになれたんだなぁ、と思ってな」


 久代先輩の意外な過去。それを聞き、ヒカリは驚きもあったが、久代先輩にも負い目があったんだと共感みたいなものを感じた。


 だって先輩はなんでもできて頭も良くて。本当に完璧な存在だと思っていたから。優柔不断で何も決められない自分にとって、そんな存在は憧れでしかなくて、かっこよくて。優しい笑顔に心惹かれていて……久代先輩。


「――うわっ」


 久代先輩のことを考えて呆けていた時、頭に何かが乗っかって強い力でワシャワシャと髪がかき回された。見れば瀬戸川先輩の手が頭の上に乗っかっていた。表情は笑っている。


「ヒカリ、これは別に俺が言う義理じゃねぇんだけどよ。本当にあいつのことを想ってくれているなら、あいつのことをちゃんと考えてやってほしいと俺は思う。あいつが悲しむ顔は見たくないからな」


 そういう瀬戸川先輩の言葉には久代先輩に対する愛情が含まれていると、大いに感じる。ずっと一緒にいて、そばにいて見守ってきている存在。なんて頼もしいんだろう。

 けれど久代先輩は、そんな瀬戸川先輩の想いには気づいていない。実はなんだかんだで優しい気持ちが溢れているのに。


「瀬戸川先輩は辛くないんですか?」


 思った疑問を口走ると。瀬戸川先輩は「うん?」と落ち着いた様子でヒカリを見た。


 きっと辛いと思う。好きな人をずっと想っているのに、その人は他の人を好きでいるから自分の方を振り向かない。

 それでも想い続ける、なんて。


 瀬戸川先輩は「そうだなぁ」と言いながら、またコーヒーを口に含んだ。そして喉を鳴らしてからヒカリの質問に答えた。



「人間って近くにいるヤツほど、気づいてくれないもんだよなぁ」


 その一言がさびしそうにつぶやかれた。

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