第5話 久代先輩の誘い
朝、ふと目が覚めたら。
朝日の光が窓から差し込んでいる自室の白い天井を見て、熱が出た時のことを思い出した。
あれは毎年流行するインフルエンザにかかった去年の冬のことだ。高熱で当然学園にも行けず、この自室で高熱にうなされながら同じように天井を見上げていた時だった。
『ヒカリ、ソウタ君がお見舞いに来てくれたけど』
自室のドアが少し開かれ、廊下に立つ母がそう言った。朝からずっと寝ていたから気づかなかったが、もう夕方になっていたらしい。放課後か――あれ、あいつは部活があるんじゃないかな。
『……その状態だとまだ会えないわね。ソウタ君には伝えておくね』
返事はできないままに。母がドアを閉めると廊下をスリッパで歩くパタパタという足音が遠退く。
少ししてから再びドアが開かれ、今度は母が手にビニール袋を持って室内に入ってきた。
『ヒカリ、これお見舞いの品だから渡してって。ソウタ君、本当に優しいお友達ね。お礼は今度言っておきなさい』
母はそう言いながらベッド脇にあるサイドテーブルにビニール袋を置くと『何かあったら呼んでね』と言って部屋を出ていった。
ヒカリは熱い息を吐きながら、ビニール袋に手を伸ばす。中には冷えたスポーツドリンクと栄養補給ができる吸うタイプのゼリー。
そして生クリームがたっぷり入った、やわらかいパン。このパンはコンビニに行くたびに買ってしまう自分の大好物だ。でも舌の感覚が麻痺している今は食べたいと思わないけれど。
とりあえず冷えたスポーツドリンクがおいしそうだったので寝転がりながら手に取り、口にした。ほんのり甘くて冷たい感じが熱い身体にとてもありがたい。
身体に冷たいものが染み渡る感覚にホッとしていると、枕元のスマホがメールの着信を鳴らした。ドリンクをテーブルに置いてからメールを確認すると、送り主は今来たばかりの人物だった。
『早く治せよ、パンは食欲が出たらな。へんふよ』
短い文章、へんふよ――返信不要のあとには笑った顔の絵文字。
あいつらしいと思い、苦しいのに自然と笑ってしまう。もしかしたら、ここに来るために部活を休んだんじゃないだろうか。陸上部のエースなのに。
『……気ぃ使いすぎ』
フフッと笑いながら、ヒカリは『ありがとう』と文字を打ち、手の親指を立ててグッドという意味を表したスタンプを送った。
その直後、すぐに画面には既読した証拠の既読マークがつき、ソウタからはニッコリ顔のスマイルスタンプが返ってきた。
なんで急に去年のことを思い出したんだろう。
ヒカリはベッドから起き上がり、変な寝癖がついていないかと自分の髪を手で確かめてから壁にかかっている時計を見た。
時刻はまだ朝の七時。いつも通りだ。手早く支度をしてご飯を食べて登校しなくてはならない。
そうだ、今日は久代先輩に昼休みに話したいと言われているのだ。なんの話かはわからないけれど絶対に登校しなくては。
卒業まで残り二日。久代先輩との貴重な、二度とない時間を共にしたいから。
準備を終えて登校し、なんの問題もなく午前の授業を終えた。授業中もずっと昼休みのことを考えてボーッとしていたら何回か先生に怒られてしまった。
久代先輩とは屋上で待ち合わせている。昼休みが始まったばかりのこの時間は、みんな昼食を取っているから、まだ誰も屋上には来ていない。ちなみに昼食を屋上で取るのは校則で禁止だ。だから誰もいないのだ――あの人以外は。
階段を上がった先、開いたままの鉄製のドアを抜けて晴れた空を見渡せる屋上に出ると。
久代先輩は手すりに背中を預け、少しうつむき加減に目を閉じていた。まるで雑誌に出ているモデルのようなたたずまいだ、見ているだけでドキドキして緊張に身体が強張る。
ヒカリは一つ深呼吸をしてから先輩に声をかけた。
「久代先輩、お待たせしました」
先輩の長い睫毛がスッと開き、瞳が自分を捉える。その途端、先輩はいつものように優しい笑顔で迎えてくれた。
「あぁ、ヒカリ君。昼食前なのに悪かったね」
手すりから離れた久代先輩はヒカリの元へ歩み寄り、あと一歩のところで立ち止まる。
間近に感じる先輩の存在感、それはやわらかくて温かいものが目の前に現れたようで。安心感を与えてくれる一方、胸の高鳴りが身体を熱くも苦しくもさせる。
「ふふっ、なんだか不思議な感じだな。君とこうしてここにいるのが――いや、今までも望めば、こうしていられたんだろうけど」
そんなことを言いながら先輩は笑い、そしてふぅっと息をついた。なにやら緊張しているようだ。
そんなまさか、あの久代先輩が?
なんでも完璧にこなしてしまう久代先輩が緊張するなんてこと、あるのか。
見慣れない久代先輩の様子に自分も気が張ってしまう。困ったように笑みを浮かべる先輩を見、緊張で心臓がはじけそうだなと思いつつも、なんとか耐えるように足は踏ん張っている。
「時間があまりないから手短に話そう。ヒカリ君、実はね――」
「は、はい」
「実は……その」
久代先輩が、自身の身体の横に下げていた拳をグッと握りしめた。
「ほ、放課後、少し時間あるかな。君とできたら出かけられたらな、と思って」
その言葉が脳内に到着するまでには、すごく時間がかかったような気はするが、実際は数秒の世界のことだ。
だが先輩が発した言葉の意味が一瞬わからず、ヒカリはポカンと口を半開きにしながら頭をかいた。
「ヒカリ君、だまらないでくれよ。なんか恥ずかしいじゃないか……だって卒業したら、君とはもう簡単には会えなくなるだろう。その前に君との思い出を、もう少し作りたいなって思ったんだ」
ヒカリは頭が真っ白になり、何も考えられない状態でも全身の血の巡りが活発になるのを感じた。熱い、身体が熱い、汗が吹き出てくる。
久代先輩が自分を誘ってくれている?
俺、卒業式の日に何事もなく、ただ玉砕するつもりだったのに。
こんなふうに誘われて期待を持たされて、そこから告白に挑んでもいいの? こんな展開なら告白したあとの答えを期待しちゃうじゃないか、玉砕じゃないかもって。
「ヒカリ君、ダメかな?」
うろたえて何も言えないままの自分を前に、先輩が先に動く。手を軽く持ち上げられ、ギュッと優しい力で握られる。
そんな軽く触れるだけの行動なのに、喜びで頭が破裂しそうで、唇が震えてくる。でも返事をしなければ先には進めない。頑張れ、自分。一言でいいんだ、口にすればいいんだ。
「あ、は……はい、あの、放課後、はい……」
顔の全面が真っ赤になっている気がして顔を上げていられず、ヒカリはうつむいたまま答える。
すると前にいる久代先輩はクスッと笑って「よかった」と安心したようにつぶやいた。
握っている先輩の手に、かすかに力がこもる。皮膚にわずかな動きを感じただけなのに自分の呼吸が緊張で止まりそうだった。
けれど先輩の感触のおかげでまだ生きているなという実感も、逆に感じた。
「じゃあ、ヒカリ君。放課後、校門で待っているから。もしくは終わったら待っててくれる? 急いで行くから」
未だに顔が上げられず、うんうんと何度もうなずいた。先輩は困ったように笑っていたが「ヒカリ君、顔上げて」と言われてしまったので渋々顔を上げるしかなかった。震えそうな唇を噛みしめているから、自分の顔は今とんでもなく変な顔をしているだろう。
それでも久代先輩は自分のそんな表情を見ても怪訝な顔をせず、むしろ嬉しそうに眼鏡のレンズ向こうにある目を細めた。
「ありがとう……じゃあ、あとでね」
最後ににっこりといつもの笑顔。それだけで心臓がもう限界に達する、もう止まりそうだ。
先輩の手が離れ、小さく手を振られ、先輩は去っていく。先輩の足音が、存在が屋上からなくなったのを感じてから。
ヒカリは脱力して膝からゆっくりと崩れ落ちた。
「はぁぁぁ……」
情けない声が出てしまう。まさか、まさか、先輩からそんな誘いを受けてしまうなんて。放課後に自分と出かけたい、なんて。
「先輩が……」
ヒカリは何度も、その言葉を呟く。
嬉しさよりも驚きの方が勝っていて、深いため息が出てしまった。
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