第9話君の名前まであと九回 澤谷と紫陽花
「というわけで……その、」
とあるマンションの一室。そのリビングで、澤谷は隣り座る恋人、紫陽花の顔を見ながら、ゴクリと喉を鳴らした。
「デート、しよ?」
「長ぇよ。その一言までが」
紫陽花は大きくため息を吐きながら、仕方ないなと了承した。
デートのお誘い。たったそれだけの事に、気が付けば三十分もの時間が費やされていた。
ゲッソリとする紫陽花を横に、澤谷は満面の笑みで「ありがとう」と繰り返していた。
それから幾週間経った初夏の日。紫陽花と澤谷は連れ立って上野に降り立った。
目的地は上野の森美術館。そこで開催されている、世界の書物を集めた展示会へと、澤谷は紫陽花を誘ったのだった。
紫陽花は自他ともに認める読書家だ。本人曰く、読書以外に楽しいと思えるものが無いのだそうだが、そんな一生をかけて楽しめる趣味があることを、澤谷は羨ましく思っていた。
そんな澤谷も、人並み以上には読書を嗜む方だ。それを覚えていた会社の先輩から、今回の展示を紹介され、澤谷は悩みに悩んだ挙げ句、勇気を振り絞って紫陽花を誘った。
何故そこまでの勇気を必要とするのかと言うと、まず一つに、紫陽花のライフスタイルがある。
紫陽花はバーの、いわゆる夜のお店の店員だ。自ずと生活は昼夜逆転になる。
美術館へのデートとなれば、深夜に行くわけにはいかない。遅くとも夕方、出来れば昼に訪れたい。しかし、その時間帯は紫陽花にとっては就寝の時間帯だ。澤谷はそこが気になった。
その次に、紫陽花は人混みが嫌いだということだった。
紫陽花は、お店と自宅以外の場所に赴かない。例外として澤谷のマンションと、親友である嶋倉のアパートには訪れるが、それくらいなものだ。つまり、行動範囲が極端に狭い。そしてそれは、本人が望んで狭めているということを、澤谷は聞いたことがあった。
紫陽花は、とにかく人目を引く。その見た目もさることながら、彼には人目を惹きつけるオーラがあった。気に留めていなくても、視界に入ってくる。そして彼の大きな瞳に、モデルのような身体に、人は目を奪われる。
ただ、奪われるだけなら、紫陽花もここまで行動範囲を狭めることはないだろう。しかし今日日、一人一台……どころか、人によっては二台でも三台でも、カメラを持っている時代だ。そしてそれは自然と、なんの教育も罰則も施されなければ、自分が撮りたいもの、ネットに上げれば注目を浴びそうなものを、際限なく記録に残すようになる。
紫陽花は、そういったモノの餌食になりやすかった。
彼は常に大きめのキャップで顔を隠しているものの、無遠慮なシャッター音は、何処にいても聞こえてくる。わざわざ顔を覗いてくる不届き者も、後を絶えない。
そういう輩には、蹴りの一つ二つをお見舞いするのが彼の常ではあるものの、そういうならず者ほど、相手の反抗的な態度に怒りを覚えるもので、結局身を守るためには、紫陽花が行動範囲を狭めるしか無いのだ。
主にその二つ。澤谷が紫陽花を日中のデートに誘う事に迷いに迷った理由だった。
澤谷は展示の内容はもちろん、どの時期、どの曜日、どの時間ならば、人が少ないか。もし、紫陽花へ何らかの危害があった場合、自分はどこまで対応できるか。調べに調べ、練りに練り、そうして三十分かけてプレゼンを行い、ようやく今日へとこじつけた。
美術館は、多少の賑わいはあるものの、人との距離も適度に保たれ、澤谷と紫陽花は並んで、ゆっくりと展示物を楽しんだ。もちろん、幾度か視線を感じることはあったが、それでも来場者の目当てはあくまで展示であり、澤谷が警戒していたほどの事は起こらなかった。
展示も終わりに差し掛かかり、澤谷はショップに寄りたい旨を紫陽花に伝えようとしたが、すぐ横に居たと思っていた紫陽花が見当たらなかった。出口付近は混み合っており、いつの間にかはぐれてしまっていた。
「紫陽花?どこ?」
澤谷は少しだけ声を大きくして、周りを見回した。
「紫陽花……」
「あじさい?」
後ろから、キョトンとした声が聞こえた。振り向くと、初老の女性が、澤谷を珍しそうに見ている。
「あぁいえ、友人の……あだ名で」
「そうなの。綺麗な名前ね」
女性は笑顔を向けると去っていった。
そうだ、ここはバーでもなければ、自宅でもない。「紫陽花」が人名だなんて思う人の方が、少ない。
「澤谷」
ふ、と気がつくと、紫陽花の頭が視界の端にあった。澤谷とおおよそ頭一つ分小さな紫陽花が、澤谷の袖を握っている。
「混んでたから先に出てた。なんかあった?」
「いや……、ショップに寄りたいんだけど」
「いいよ」
先程の出来事を話そうかとも思ったけれど、わざわざ話題にするほどのことでもないと、二人は連れ立ってミュージアムショップへと向かった。
「なかなか良かったな」
その後二人は、それぞれショップで思い思いの品物を買い、上野恩賜公園内のカフェでアイスコーヒーをテイクアウトして、空いているベンチに座った。
朝はまだ長袖でちょうど良いほどの気温だったが、昼を過ぎた今は長袖では暑く、澤谷は薄手のジャケットを、紫陽花はジップアップパーカーをそれぞれ脱いで、木漏れ日の下で涼を取っている。
「本、俺の鞄に入れておく?」
「ありがと。まさかこんなに買うとは思わなかった。美術館の本のチョイスって面白いな」
紫陽花はご機嫌で、澤谷に本を手渡す。
ショップに寄った二人は、澤谷は展示会の図録を、紫陽花は文庫本を三冊ほど購入した。
「薬草の本に、日本画……古代ギリシャの文化か」
「うん。そういうの読むのはガキの頃以来かも」
「楽しんでもらえたかな」
「とっても」
紫陽花は満面の笑みで澤谷を見つめると、美味しそうにアイスコーヒーを飲んだ。
澤谷も、今すぐにでも踊り出したいくらい昂ぶっている感情を抑えるべく、冷たいアイスコーヒーに口をつける。あぁ、なんて幸せ。神様、ありがとうございます。
そして二人はしばらくの間、展示物について意見を交わした。
「紫陽花、眠い?」
「……少し」
会話の勢いも下火になり始めた頃、紫陽花は何度か小さく欠伸をした。
「今は寝てる時間だもんね。今日はその……付き合ってくれてありがとう」
「いいって。でもちょっと寝たい」
「うん、いいよ」
ここなら、とても気持ちよく昼寝が出来そうだ。澤谷は、自分も少しだけうたた寝をしようかと考えていると、トンっと紫陽花の頭が肩にもたれ掛かってきた。
「えっ、そう寝るの?」
「一番楽……」
「そうかもだけど……でも、ここ外……」
「……」
紫陽花は小さな寝息を立て、早速眠りの世界へ旅立ってしまったようだ。
(相変わらずの速さ……)
澤谷はどうしようもなく、うたた寝をするのも諦めて、周りを見渡す。
周囲のベンチには、夫婦と思われる老人、大学生と思われる男女が座っていた。大学生の二人も、おそらくはカップルだろう。今の澤谷と紫陽花ほどの距離で、お互いのスマホを見せあっている。
(まぁ……紫陽花は女性にしか見えないから、大丈夫だとは思うけど……)
澤谷は、少しだけ前職でのトラウマを思い出した。こうして二人で愛を育んでいる所を、盗撮され、ネタにされ、脅された過去。
しかし、今の二人は、男女に見ようと思えば見える。紫陽花はそれほどまでに華奢で、女性らしい外見をしていた。
(中身は誰よりも男らしいけどね)
澤谷は、紫陽花が女性に見られることを心底嫌っている事を思い出して、心の中で少しだけ弁解をした。
(大丈夫、俺たちの方を見ている人はいない。そう、大丈夫……)
澤谷は深呼吸をして、落ち着こうとした。今の自分は昔とは違う。会社だって、精神疾患にも性指向にも理解を示してくれているし、それに仲間もいる。
澤谷は鞄から購入した図録を取り出した。そよ風と共にパラパラとめくって、気になる所を読み始める。
三百年前の本の製本技術、偉大な先人が書き残した初版の内容を、澤谷は興味深く読み進めていく。
二人はしばらくの間、穏やかな公園の一部となった。
(ん、こんな時間)
あらかた読み終えた澤谷は、腕時計の示す時間に目をやった。十三時四十五分。お昼のピークを過ぎた頃だ。
(今なら、お店の席も空いているだろう)
人混みが嫌いな紫陽花のために、澤谷はあえて昼食の時間をずらすようにした。肩の上では紫陽花が、未だ気持ちよさそうに眠っている。
(まだ寝かしておいてあげたいけど……。俺の空腹もそろそろ限界だ……)
澤谷は、紫陽花の肩に手をおいて、声を掛けながら揺すろうとした。
「あじさ……」
そこで澤谷は、ふと、紫陽花の名前が気になった。
紫陽花は、出会ったときから自らを「紫陽花」と名乗り、客はおろか雇い主の姐さんでさえも、紫陽花を紫陽花と呼ぶ。むしろ紫陽花以外の名で呼ばれる所を、澤谷は見たことがなかった。
けれど、どのように考えても、「紫陽花」は本名ではないだろう。あだ名……仕事を考えると、源氏名の方が近いのだろうか。少なくとも、偽名である。
(紫陽花の、本当の名前……)
それを知っている者は、居るのだろうか。
もちろん、雇い主である姐さんは知っているだろう。雇用をするにあたって、本名を知らないということはない。それに関しては、澤谷も異論はない。
ただ、他の人は?
例えば、紫陽花と一番付き合いの長い、嶋倉蓮。彼は、知っているのだろうか。
しかし、彼が紫陽花ではない名前で呼ぶところなど、見たことがない。もしかすると、二人きりの場面では、本名で呼ぶのかもしれないが……。
(それは、少し……)
澤谷は、心が熱くなる感覚を覚えた。気持ちの良いものではない。苦しい、ジリジリと心臓が灼かれているような熱さ。
コレは嫉妬だ。そう気がついたものの、だからといって、治まるものではない。
(あぁ……こんな日に)
先程まで、幸せだった。大好きな人と、寄り添い、同じものを見て、共有して、心はすっかり満たされていた。というのに。
「……紫陽花」
澤谷は、自身の嫉妬を振り払うかのように、紫陽花の肩を揺らす。紫陽花はうぅん……と小さく唸りながらも、すぐさまパッチリと目を開いた。
「あぁ、寝た。なに?移動する?」
「うん、お昼ごはんにしようかと思って」
そんな時間か、と紫陽花は伸びをして、そして澤谷の異変に気がついた。
「なに?お前。そんな顔して」
「えっ……。変な顔、しているかな」
「なにを溜め込んでんだ?」
言ってみろよ、と紫陽花は澤谷の方向へと身体を向けた。これは話すまで、お昼はお預けになりそうだ。
「いや、今日、展示の出口付近で、はぐれたじゃない?その時に、紫陽花って呼んだんだ。そうしたら、珍しそうに俺の方を見る人がいて……」
澤谷は、どう話したものかを考えあぐねながらも、とりあえず時系列順に話すことにした。
「そこで気がついたんだ。紫陽花って、一般的には、花の名前だなって。で、その……」
「俺の本名が気になった、と」
いつものように、くくくっと喉を鳴らしながら、紫陽花が最後のセリフを攫っていく。
「あぁ、違うな。例えば嶋倉辺りは俺の本名を知っている、かもしれない、が許せないんだ」
そんなにも、思っていることが顔に出やすいのか。
澤谷は少しの恐怖を覚えつつ、「そう、です」と素直に認めた。
「くだらね。紫陽花でいいじゃん。それで俺も分かるんだから」
「そうだけど」
「知ってどうするの?俺の過去でもネットで調べる?」
「そんな事はしないよ!」
ただ……。澤谷は言い澱んだ。ただ、自分はどうしたいんだろう。あぁ、空腹過ぎて考えがまとまらない。俺は、紫陽花の事なら……。
「君のことを、知りたいだけで……」
ふぅん、と紫陽花は澤谷から顔を逸らす。先程までキラキラと輝いていた瞳も、今はすっかり暗い森のような静けさを取り戻していた。
「知りたがるよなぁ。お前らって。知って、所有した気になって、で、どうすんの?監禁でもする?」
「だから、そんな事をするつもりはなくて……!」
澤谷は、また自分を他の男と重ねている紫陽花に、少々腹が立った。確かに、自分は他の男達と同じことを気にしているかもしれない。けれど、所有とか、監禁とか、そんな物騒な話ではなくて、俺は、つまり。
「好きな……だけなんだよ」
澤谷は、下を向いて、絞り出すようにそう告げた。もちろん、もっと沢山の言葉を重ねたかった。今回のデートのプレゼンのように。
しかし、澤谷には出来なかった。嶋倉へ嫉妬してしまった自分が情けなくて、いつも他の男と重ねられて、これ以上の言葉が出なかった。
「わかったよ。泣くなよ」
紫陽花はそう言うと、澤谷の顔を覗き込んだ。澤谷は泣いてな居なかったが、紫陽花は瞳の奥に涙を見た。
「ごめん、こんなところで」
「いいよ。聞いたのは俺だし」
しばしの間、二人の間に沈黙が流れる。澤谷の心落ち着かせるためだろうか。公園では変わらず、葉の擦れる音と、子供の騒ぎ声が響いている。
「よし」
紫陽花は軽く手を叩くと、再び澤谷の方へと向き直った。
「教えてやるよ、俺の名前」
「え」
まさかの展開に、澤谷はポカンと口を開けた。いいの?そんな簡単に?
「ただし、気安く口に出すなよ。呪われるからな」
紫陽花は悪戯っぽく笑いながら、澤谷に顔を近づける。
澤谷は、どんな名前なの?!と突っ込みは入れるものの、急な展開について行けておらず、また迫りくる紫陽花の顔にもときめいてしまい、パニックの状態に陥った。
紫陽花の顔は、澤谷の頬を過ぎ、耳元へと唇を寄せる。
澤谷は、紫陽花の声に身構える。
「あと九回」
ぎゅっと目を瞑っていた澤谷は、その言葉の意味が理解しきれずに、目を開け、すぐ目の前にある紫陽花の瞳に疑問を投げかけた。
「えと……あと、さん?」
「違うよ。あと九回、デートに誘ってくれたら、教えてあげる」
紫陽花は笑いながらそう言うと、飯にするかと立ち上がった。
「え?そんなにデートするの?」
「したくないの?俺とデート」
「したいけど!」
未だ混乱している澤谷を面白そうに眺めながら、紫陽花は自らの口に人差し指を当てた。
「安売りはしない主義なんでね。それに、今日のデートは良かったし。こういうのなら、いつでも歓迎だ。だから、あと九回。俺を誘って、満足させてよ」
そうしたら、何でも教えてあげる。
そう、妖艶に笑いながら語る紫陽花に、澤谷はクラっとした。期待を裏切られたからではない。その楽しげな表情に、艶やかな仕草に、そしてなにより、あと九回ものデートが約束された事に対してだ。
「う、うん。頑張るよ」
「期待してる。あぁ、でも、人混み対策とか痴漢対策とか、長々しいプレゼンはいらないからな。子供じゃないんだ。自分のことは自分で出来る」
「分かりました……」
「ま、デートだし。二人で考えてもいいじゃん」
「……そう、だよね」
澤谷は、思わず手で口元を隠した。ニヤケ顔が止まらない。
「さぁて、飯はどこへ行く?エスコートよろしく」
紫陽花が手を差し出してくる。澤谷はその手を取って、立ち上がる。
「古い喫茶店があるんだ。きっと気にいると思う」
「へぇ、それは楽しみだ」
歩き出そうとして、紫陽花は何かを思い出したかのように、立ち止まった。
「あ、あと、嶋倉も知らねぇよ。俺の名前」
「そうなんだ」
すっかり有頂天になっていた澤谷は、つい先程まで自分の心を灼いていた嫉妬さえも忘れていた。
「だからあいつ、美容院で俺の予約を入れる時に、「紫陽花」で入れてんの。だから、あいつの店でも紫陽花って呼ばれてる」
そうなんだ、と同じ返事をしながら、澤谷はそう語る紫陽花の目が、表情が、とても穏やかな事に気がついた。
紫陽花は、紫陽花と呼ばれるこの場所を、人達を、とても気に入っているのだろう。
彼の過去に、何があったのかは知らない。何故紫陽花なのか。何故、本名を隠しているのか…。
けれど、紫陽花がそれで満足しているのなら、それでいい。好きな人が幸せなら、それ以上に必要なものはない。澤谷は、紫陽花の手をしっかりと握った。少し汗ばんでいる、小さな恋人の手。
二人は手を繋いだまま歩き出した。老夫婦を、男女のカップルを、親子連れの間を、堂々と。
そんな二人を、青葉が優しく見守っていた。
東京・新宿・紫陽花の花 こなしあかや @konashi-a
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