16 大人の階段を登ったのか落ちたのか
止まない雨はない。
だからきっと、どんな物事にも終わりは来るのだと俺は信じたい。
「ねぇ、ちょっと上向いて背伸びしてみて?」
「こ、こうか?」
「二階の人のパンツ見えるでしょ」
「やめい!」
とかまぁずっとこんな調子の同級生との。否、変態との買い物にだって、必ず終わりはくる。
……早く来てくれ。
「そろそろ昼にしないか?腹減った」
「そうねぇ。ここで食べるなら定食屋ばかりだけど、出たところには喫茶店もあるわよ」
「いや、ここでいいよ」
「私、あの店が気になるわ。喫茶店に行きましょう」
「……わかったよ」
「でもノーパン喫茶じゃないけどいいの?」
「今の時代そんなのねぇわ!」
いやあるのかもしれないが、高校生には立ち入れない場所だ。
とか真面目にツッコむのはやめよう。
一旦外に出て、道を挟んで向かいにある個人経営の喫茶店に入る。
小さな店で、中も外も古びてはいるが趣があり、いかにも純喫茶という言葉が似あうこの店は、実は俺のお気に入り。だからこんなやつとは来たくなかったのだ。
渋めの髭を蓄えたマスターが一人。コーヒーを淹れる姿は絵になるしまるで小説の中から出てきたような時代錯誤感がたまらないのは俺だけではないはず。
最も、まだコーヒーの良さがわからないお子様な俺なので、俺がその味をわかるようになるまでは是非続けてもらいたいと願っている。
そんな店だからこそ、こんな変態とは来たくなかった。
大事なことは二回、言わせてもらう。
「あら、おしゃれなところね」
「お、わかるのか?ここの良さが」
「ええ。この香りは……コナコーヒーかしら。へぇ、いいわね」
「そ、そうだよ。な、なかなかやるじゃないか」
「苦みが少ないからいいのよね。ホワイトハウスの晩餐会で出されるようなものを好むなんて、あなたもなかなか通なのね」
「あ、ああもちろんだよ」
……なんか今まで通ぶって通っててごめんなさいだよ。
うん、俺なんかよりこの店の良さがずっとよくわかってらっしゃる。変態のくせに。
こなこーひー?粉、じゃあないよな。
後で調べよう……
常連のはずが、初見の人間に店の良さを紹介されるというなんとも屈辱的な仕打ちを受けた俺は、桐島と窓際のテーブル席に座る。
休日は、いつもというわけではないがたまにこの席で一人書き物をする。
いつも飲み物一杯で粘るようなケチな客を、それでもマスターは変わらぬあたたかい笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃい。今日はデートかい?」
「え、いやそれはですね」
「すみません、ブラックを二つ。いただけますか?」
「かしこまりました」
サラッと注文したのは桐島。
実は俺、この店でコーヒーを飲んだことはない。
ミックスジュースかココア。それが俺のいつもの。
食べるのは決まって一番安いミートスパゲッティ。ワンコインだ。
「お前、コーヒー好きなのか?」
「ええ。こういう店の常連であるあなたほどではないけれど。嗜む程度には」
「……」
これは俺がコーヒーに対して無知と知っての嫌味なのか?それとも本当に俺が有識者だと勘違いしているのだろうか?
どちらにしてもやめてもらいたい。実は俺、コーヒーを飲んだことすらないんだ。
自分の浅はかさに押しつぶされそうになっていると、すぐに二杯のコーヒーがおしゃれなカップに入って目の前に出された。
「ごゆっくり」
と気を利かせたように笑うのはマスター。
うん、あなたを責めるつもりは毛頭ないが。ゆっくりしたいわけではない。
「ああ、いい香りね。うん、酸味もちょうどいいわ」
「……そう、だな」
正直な感想を述べよう。
苦い。
コーヒーやビールに対してその感想は本末転倒なのだとわかっているが、やはり苦いものは苦い。
席の横に積まれた角砂糖が恋しい。入れたらやはりかっこ悪いのだろうか。
「食前の嗜みは素晴らしいものね。料理は何がおすすめ?」
「ええと」
そうだ。料理だって一つしか食べたことがない。
うん、俺にこの店を語る資格は全くない、な。
「すみません」
とマスターを呼ぶ桐島。
彼が来るとすぐに「このハンバーグランチを二つ」と注文する。
「勝手に決めたけどよかったかしら?」
「い、いや全然。俺、優柔不断だし」
「貧乳不満だなんて、女の敵ね」
「一回耳掃除しろよ!」
とまぁ。からかわれていたがここでは大きなことは言えない。
こいつの方が有識者だし、それにこの店の独特の品が良く似合う。下品なくせに。
「そういえば、志門君はここに来るのはいつも一人?」
「ん、ああそうだな。詩は喫茶店とか行かないし」
「ふーん」
なんだよ、その「ふーん」は。
俺のことをぼっちだとでも言いたげだな。
「別に。一人の方が気楽でいいだけだよ」
「そう。でもこれからは少し気重になるわね」
「なんで?」
「私と二人、だからよ」
「……」
いつもなら。「勝手に決めるな!」と盛大にツッコみたくなるところなのに、今は少し照れくさかった。
多分こいつの雰囲気が、いつもよりおしとやかで上品で、それでいてこの店の雰囲気に溶け込んでいたせいだろう。
まぁ、どうせこの後またパンツの匂い云々とか言い出すのだろうから、俺のこんな照れなんて一時の不覚でしかないのだと、そう思う。
「お待たせしました」
とマスターの声と共に運ばれてきたハンバーグとライス。
とてもいい匂いがして、鉄板の上で音を立てるそれは食欲をそそる。
「マスター。コーヒー最高でした。やっぱりブルマンより私はこっちね」
「おお、わかるのかい?若いのに素晴らしいね。是非、今後とも御贔屓に」
などとおしゃれな会話をマスターと交わすのはもちろん桐島。
俺なんていつも「ごちそうさまです」くらいしか言ったことないのに。
「さて、いただこうかしら」
「ああ、いただきます」
ワンコインのスパゲティだって、もちろん絶品だ。
しかし、やはり肉には勝てない。というかそれくらいこのハンバーグは絶品だ。
何十回と店に来ておいて、今更この味を知ることになるなんて。しかも変態のアテンドによって。
うん、今度からはけちけちせずにもっといろんなメニューを食べよ(思考放棄)。
「ふぅ。ご馳走様。美味しかったわね」
「ああ、お腹いっぱいだ」
「食後にもう一杯、頼んでもいいかしら?」
「い、いいけど」
この変態、どうもただの変態ではない。
勉強のみならず雑学も詳しいし、所作もとても上品である。
とても人の家でパンツを嗅いでハァハァ言っている女と同一人物には見えない。
うーん。でもこれはやっぱり詐欺だよなぁ。
「そういえば、コナコーヒーとかブルマンとかってのは、お前わかるのか?」
「ええ。でも私ブルマンは嫌いなの」
「ふーん、なんで?」
「ブルマみたいでしょ響きが。あれは邪道よ」
「え、そこなの!?」
「あなたまさかブルマに夢馳せる少年?だとしたらとんだ外道ね」
「そこまで言われる!?」
変態曰く。ブルマは一見エロく見えるがそれなら紺のパンツを穿けばいいだけのことで、あれは思春期に苦渋を舐めた中年たちの幻想でしかない、だそう。
全く共感を持てない理屈を散々と聞かされながら、ブルマに似ていない方のコーヒーを再び嗜んだ彼女は、満足そうに口を拭いて俺を見る。
「ご馳走様。行きましょうか」
「ああ、支払いしてくるよ」
「いいわよ、割り勘にしましょう」
「ダメだ。いくら相手がお前でも金は男が出す」
そう。こういうところは俺の主義というか拘り。
金は男が出す、などという前時代的な男性像に、それでも俺は憧れる。
時には見栄を張ったり、かっこつけるのも男。
それがいいとは言わないが、それがいいと思っている。
「じゃあ、お言葉に甘えようかしら。でも申し訳ないわね」
「いいよ、ランチくらい」
「お返しにさっき買ったパンツ全部持って帰っていいわよ」
「保存用とかいらないよ!」
「あ、ごめんなさい。使用済みしか興味なかったわね」
「そうじゃない!」
とまぁ変態と一緒だと、ランチ一つで大騒ぎ。
気を取り直して会計に臨んだ俺は金額を見て青ざめた。
正直に言えば足りなかった。
コーヒーって高いんだなと学んだ。
結局彼女に少し出してもらった俺は見栄も張れずかっこもつけられない、どの時代においてもかっこ悪い貧乏男子でしかなかったという話。
朝の買い物からさっきのランチまで、半日過ごして学んだことは何もコーヒーの価格だけではない。
背伸びはしないこと。
それを学んだだけでも俺は大人に一歩近づいただろう。
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