【追加√】娼館の調査に向かった場合(2)
ゲオルクが暮らすことになった救貧院は、修道院と併設されていた。
「この救貧院の危機を救ってくださった、ハインリッヒ神父に感謝を捧げましょう。来週には、慰問に来られるはずですよ」
修道女の言葉をぼんやりと聞いていると、背後の方でやれ肩がぶつかっただの足を踏まれただの、
すったもんだの喧騒の中、ゲオルクはそそくさと杖を握り直し、自分の寝床へと向かった。
救貧院で暮らす者たちの中には、身体の健康ばかりでなく、心の健康も失った者が多い。
こういった揉め事は日常茶飯事だった。
修道女が言った通り、次の週にはハインリッヒ神父とやらの慰問が行われた。
「お加減はどうですかな」
「……脚を悪くしてからも、散歩ぐらいなら……とは思ってるんですけどねぇ。どうも歩きにくくて、なかなか……。まあ、このまま死んだら死んだで、別に困りはしねぇんですが」
自嘲気味に語るゲオルクに対し、ハインリッヒは静かに頷く。
「そうですな……歩く訓練をしようにも、無理をしては余計に酷くなってしまうでしょう」
「ですねぇ……」
「せめて、話し相手がいれば、気も紛れるのではありませんかな? 私で良ければ、お相手いたしますぞ」
「……はぁ……」
ハインリッヒはいとも気安く提案するが、ゲオルクは神を信じていない。
聖職者も説教臭く理想を語る連中ばかりだと思っていたし、お世辞にも良い印象を抱いているとは言えなかった。
「もちろん、無理にとは言いません。されど、話すことで楽になることもありましょう」
……だが、ハインリッヒの蒼い眼差しは真剣だった。
「……実は、戦争で……」
その視線に根負けしたかのように、ゲオルクはぽつりぽつりとこれまでの経緯を話し始めた。
幼いわが子を置いて徴兵されたこと。
戦場からは生きて帰れたものの、妻子を失ったこと。
鉱山で働く中、盗賊退治を依頼されて悪質な娼館経営を目の当たりにし、支配人を見殺しにしてしまったこと。
落盤事故に巻き込まれて脚を悪くし、知人と別れて救貧院に来たこと……
一つ話せば、連鎖するように言葉が溢れ出し、止まらなくなった。
「……苦労なさってきたようですな」
全て聞き終えたハインリッヒは、沈痛な面持ちでゲオルクの手を握る。蒼い瞳が、再び、真っ直ぐゲオルクを見た。
「よくぞ話してくださった。……そして、よくぞ生き抜いてくださった。本当に、よく頑張って来られましたな。貴方に、主のご加護があらんことを」
祈りなど、意味の無いことだと思っていた。
少なくとも、ハインリッヒと出会うまで、ゲオルクにとっての「祈り」は耳障りな綺麗事でしか無かった。
だが、ハインリッヒの「祈り」は違った。
彼は正真正銘、ゲオルクやその周囲の人々が歩んだ道のりに心を痛め、苦しみに寄り添う姿勢を見せたのだ。
「……よくある話ですぜ。何も、珍しいことじゃ……」
「それでも、貴方が苦難の道を歩んだことに変わりはありますまい」
自嘲するゲオルクに向け、ハインリッヒは穏やかに微笑む。
「来月も、訪問に参ります。願わくば、また貴方とお会いしたいものですな」
それが職務上の方便だとしても、ハインリッヒの笑みは、ゲオルクの胸に熱い「何か」を呼び起こすのに充分だった。
ふと、ゲオルクはペーターに助け出された日のことを思い出した。
──テメェが死んじまったら、誰もオイラの話を聞いてくれなくなるだろうが!
あの時、ペーターがなぜゲオルクを必死に引っ張り出したのか……
「自分の話を聞いてくれる相手」がどれほどありがたいことなのか、ゲオルクにもようやく理解ができた。
ペーターは……そして、ヨハンとマリアンネは、どうしているだろうか。
かつてはすっかり生きる気力を失っていたゲオルクの心に、日を追うごとに少しづつ、それでも確実に、「生きる理由」が積み上がっていくのだった。
翌月、宣言通りにハインリッヒは再び現れた。
救貧院内を歩き回り、目に付いた者に声をかけ、励ましの言葉を告げ……やがて、ゲオルクの順番が訪れる。
「おお、ゲオルク殿。よくぞ生きていてくださった」
ハインリッヒは気前の良さそうな笑みをうかべ、ゲオルクにハグをした。
これだけの人数の中、名前を覚えてもらっていた。……ただ、それだけのことが、ゲオルクの胸にじんと響く。
「へへ……ありがとうごぜぇます。励みになりまさぁ」
「それは良いことですな。貴方と私が巡り会えたのも、きっと、神のお導きでしょう」
掃き溜めのような救貧院の中には、ハインリッヒが現れれば明るい表情を見せる者も多い。
絶望の淵にいるような深刻な顔をした者も、ハインリッヒに声をかけられると少しばかり目に光が灯る。
荒みきった目付きの常に不機嫌な者も、ハインリッヒに笑いかけられると嬉しそうに頬を緩ませる。
そういった様子を見て、ゲオルクは、ハインリッヒがどれほど人々に慕われているかを改めて感じ入るのだった。
「神父様は優しいお方だ。こんな掃き溜めで、あっしらみたいなろくでなし共にまで、良くしてくださって……」
「こらこら、ろくでなしなどと言うものではありませんぞ。……戦争さえなければ、多くの方々が、そうやって苦しまずに済んだものを」
戦争さえなければ。
そう告げる時、ハインリッヒが唇を噛み締め、拳を握りしめたのがゲオルクには見えた。
「私は、貴方のような方を何人も見て参りました。みな、時が経っても癒えぬ傷を抱えて苦しんでおられる。……また、あのようなことがあっては断じてならない。そう、思わずにはいられませんな」
言葉の端々から、ハインリッヒの熱意が伝わってくる。
ゲオルクは何事か返そうとしたが、渦巻く感情を上手く言葉にできるだけの知識や知恵は、ゲオルクにはなかった。
もし、ペーターがここにいたのなら。もしくは社交的なヨハンか、理知的なマリアンネなら。
何か、うまい言葉を返せたのだろうか。
「……少し、余計なことを話しましたな。またお会いできるのを、楽しみにしておりますぞ」
ゲオルクにとって、生きることは苦痛でしかなかった。
早く妻子の元に行きたいと願いながら、それでも本能の要請に肉体が渋々応じるかのように、惰性で生きるだけの日々を送っていた。
だが、ヨハンとマリアンネは自分に感謝してくれた。ペーターは別れを惜しんでくれた。……そして、目の前のハインリッヒは再会を望んでくれる。
ゲオルクは、ハインリッヒの手をしっかりと握り返す。
頬からは、自然と涙がこぼれ落ちていた。
「ありがとうごぜぇます……」
ゲオルクは神など信じていなかった。希望など、この世にあるとは思えなかった。
だが、少しでも長く生きていたい。……また、言葉を交わしたい人達がいる。
そう、思えるようにはなっていた。
***
幾度か季節が巡り、ハインリッヒはなかなか顔を見せなくなった。
その頃、ゲオルクは毎日のように杖をついて庭に出ることにしていた。部屋の中にいるよりは、風に当たりたかったのだ。
その年の夏は少しばかり暑さが酷く、古傷が化膿して死んでいくものもいた。ゲオルクはというと、当初の処置が良かったのか、多少傷口の周りが熱を持つ程度で済んだ。
「おい、若造。ハインリッヒ神父様はどうした。最近めっきり来ねぇじゃねぇか」
ぼーっと風に当たっていると、渡り廊下の方から怒号が飛んでくる。
そちらに視線を向けると、荒んだ目つきの男が銀髪の青年に食ってかかっているのが見えた。
「……神父は、多忙にしておられます。ですが、来月にはきっと、来てくださるはずです」
端正な顔立ちをした青年の年頃は、まだ二十歳にも満たないだろう。……ちょうど、ゲオルクの息子が生きていたのなら、同じくらいになっていたはずだ。
「へぇ、へぇ。そうかい。多忙、ねぇ。ワシらをほっぽって何をなさってるんだか」
男は皮肉っぽい口調で言い放ち、舌打ちをする。
「待っている方がいらっしゃると、私からも伝えておきます。……どうか、しばしお待ちくださればと思います」
対峙する青年は、あくまで冷静に告げ、十字を切った。
次の月。青年の言葉通り、ハインリッヒは訪れた。
しかし、どうやら急いでいるようで、一人一人と長く会話をすることはできそうにない。それでもハインリッヒはできる限り多くの利用者の手を握り、励ましの言葉をかけた。
「コンラート、後は代わりを頼めるかね」
懐中時計を見、慌ただしく立ち去ろうとするハインリッヒに、ゲオルクが先日見かけた青年はため息をつきながら答えた。
「構いませんが、先生の『代わり』は誰にも務まりません。……お忘れなく」
「う、うむ。もちろん、分かっているとも!」
弟子に苦言を呈されながらも、ハインリッヒは呼びつけてあった馬車に飛び乗り、風のようにどこかへと去ってしまった。
「なんだか、
「もうすぐ、司教になられる予定ですから……」
コンラートと呼ばれた青年は苦笑しながらも、ゲオルクの手を握り、真剣な眼差しを向けた。
しっかりと学んでいるのだろう。その仕草は、弟子らしくハインリッヒとよく似ていた。
「……今度から慰問に訪れるのは、別の者になるかもしれません。また、今回に限っては、助祭の私が代理として皆様とお話させていただきます。若輩者ゆえ、未熟なところも目立ちましょうが……どうぞ、よろしくお願いいたします」
とはいえ、ハインリッヒとは違い、声にも態度にも緊張が隠せていない。
順番が巡るうち、ハインリッヒの方が良い、呼び戻せなどという怒号も聞こえてきたが、それでもコンラートは辛抱強く「代理」の役目をこなしていた。
その翌月からは、エマヌエルという神父が慰問に訪れるようになった。
そのエマヌエルはというと、説教台に立ち、ただただ偉そうに
***
数年が過ぎた頃、救貧院が突如、閉鎖することとなった。
司教として忙しくしていたハインリッヒが亡くなった、と、ゲオルク達にはそれだけが伝えられた。
国営の救貧院に移住してもらうが、そこではハインリッヒのことを決して口に出すな、と、何とも不審な言いつけも行われた。入れ替わりの激しい救貧院の中、ハインリッヒを覚えている者は既に少なくなっていたが、古株となっていたゲオルクは特にきつく言い含められた。
一度疑念が芽生えてしまえば、それを
とはいえ、ゲオルクには大した教養がない。……ただ、ハインリッヒが戦争に反対していたことと、この国が以前の戦争の勝利に味を占めていることは、ゲオルクだけでなく、多くの者が知っている。
今の時代、聖職者が説法の場で政治思想を語るのは違法だ。……それでもなお国の在り方に疑問を呈したハインリッヒは、良くも悪くもよく目立っていた。
だから「消された」のだ……と、そう、噂する者もいた。
ゲオルクは祭りの会場の片隅で、一人、モヤモヤとした思いを持て余す。そんな折、通りすがった大道芸人の一人に「あっ、ちょっとちょっと!」と呼び止められた。
「探しましたよ! ゲラルトの旦那ぁ!」
化粧で顔立ちはわからなかったが、その声に聞き覚えがあった。
「ゲラルトじゃねぇ。ゲオルクだっつってんだろうが。……ヨハン」
相変わらずのそそっかしさには呆れつつ、ゲオルクは思わぬ再会に笑みを零した。
ヨハンとマリアンネはその後、新たに旅芸人の一座を立ち上げ、鉱山にも興行を行ったらしい。
そこでペーターにゲオルクが救貧院暮らしになったことを聞き、巡業のついでに探し回っていたのだ……と。
「いやぁ、会えて良かった!」
「あの時は助かりました……!」
屋台の前に腰を下ろし、三人はこれまでの
演者は歌姫と曲芸師の二人だけ。とても小さな一座ではあるが、ヨハンとマリアンネの笑顔は輝いていた。
「ゲオルクの旦那もどうです? うちの一座に加わりませんか?」
「おいおい、この脚で何をするってんだよ」
「仕事ならたっくさん! チラシ作りにチラシ配り、そんで道具の手入れと、道具の手入れに、あと道具の手入れ……」
「要するに、雑用係が不足してんだな……」
ヨハンとゲオルクのやり取りを見ていたマリアンネが、大きくため息をつく。
「ほんとにごめんなさい。……でも、ゲオルクさんは機転も効く方ですし、いてくれたら嬉しいなって……」
「いてくれたら嬉しい」……何気なく放たれたその言葉が、ゲオルクにとって何よりの救いだった。
「いいよ。こき使ってくれ」
そのままゲオルクは二人に手を引かれ、救貧院を後にした。
三人で荷馬車に揺られる最中、ふと、農夫たちの歌声が耳に入る。
ああ、そういえば、小麦の種を
そこでゲオルクは、いつからか大砲の音を聞いていないことに気が付いた。
「ゲオルクの旦那?」
「……いいや、何でもねぇよ。何でも」
失ったものは戻らない。
けれど、新たに手に入れたものもある。
生きる限り、苦しみはある。辛いことも、嫌なことも次々に訪れる。
けれど……世界は決して、「それ」だけではなかった。
「そういえば、久しぶりに会った娼婦時代の先輩が、妙なことを言ってて……」
「妙なこと?」
「盗賊団に、ゲオルクさんと似た顔立ちの男の子がいたんですって。目の色もそっくりで、親子かと思ったって……」
「……! いや、まさか……ほんのちっこいガキだったし、生き残れるわけが……」
「うーん? でもさぁ、死体を見たわけじゃねぇんでしょう?」
「……。……ヴィルヘルム、なのか……?」
たとえ苦難が終わらなくとも、この世界が過酷で、不条理に満ちていたとしても。
ゲオルクの生が巷に有り触れた、平凡なものだったとしても。……いずれ、歴史の底に埋もれていくだけの小さき存在だったとしても。
「巡業しつつ、旦那の息子さんも探しましょうよ!」
「あたしも手伝います! 恩返ししたいし……!」
「……ああ。ありがとうよ」
ゲオルクの心はまだ、生きている。
……こうして、誰かと笑い合うことができる。
END3. Die Reise geht weiter. (旅は続く)
凡夫 譚月遊生季 @under_moon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます