春眠

その日の外出を皮切りに、私はやがて室外へ出ることをやめました。低家賃のアパルトマンのボロ家屋の中で、錆びたトタン屋根に轟々と降る季節外れの雨水の音に怯え、寝台の上で布団に包まって過ごしています。

 今だってきっと、部屋の隅の全身鏡を見ればそこに居ることでしょう。自慢げな顔をした、自身のなさそうな体の不格好な私という存在が。今まで、気弱な質ではないと威張ってこそ居ましたが、私は無意識に人目を気にして自身の居場所や取る範囲というものを小さくしようとしていたのです。

 そう思うと私は、やるせなさ、羞恥心、自分自身に対する嫌悪や苛立ちのような感情で、頭の中がごっちゃになるのを感じました。それと同時に、どうしようもなくこの場から居なくなってしまいたい衝動に駆られるのでした。

 そうして私は、自身のこの感情というものの起伏、乱高下が、俗に言う通常とは遠く離れているものだと実感して、一人、部屋の寝台の上で背中を丸めて座りました。

 するとその瞬間。私の感情に呼応するかのように、何の前触れもなく、一瞬の視界の明滅と共に地面が揺れるほどの雷鳴が轟きました。私は思わず何事かと思って布団から転がり出ると、外窓の遮光カーテンを勢い良く開きました。それと同時に、室内の照明がぱっと消え、夕時の自室は雨空と共に真っ暗に染まります。

 急な暗転に暗順応が追いつかず、平衡感覚がなくなるのを感じる私の耳を劈くのは、くぐもったものではなく鮮明な雷鳴です。耳を裂く程に痛烈なそれは矢継ぎ早に、休む間もなく光っては何処かに落ち音を掻き鳴らして去っていくのです。

 今朝の予報にも無かった突然の雷雨。雷が付近に落ちて火災が発生でもしたのか、私がぼうっとしてる間に消防や警察のサイレンが右へ左へうるさく走り回ります。停電した屋舎の中では視界の代わりに、機能したままの聴覚へと痛いほどの刺激──爆音が叩き込まれます。

 忙しなく吹く突風が、薄い窓を飛ばしてしまうかのようにごうごうと吹き荒れ、大粒の叩きつけるような雨はそのうちこのボロい建物に穴をあけてしまうことでしょう。私は思わず耳を塞ぎました。この春雷はまるで、私の感情そのものを体現したかのようで、私には酷く苦しくてたまらないのです。突然の雷鳴は、過敏な私にはどうも恐ろしく耐え難いものでした。

 やがて少しずつ雷鳴もくぐもって、激しく追い立てるような雨音も止み、空に晴れ間が覗くと同時に室内照明の明るさも戻りました。窓を閉じていても匂う、嫌になるほどのペトリコール。車道に覆い被さる大きな大きな水溜りに垂れる雫の音が聞こえてしまいそうなほどに嘘のような静けさが私を包みます。

 先程までの情景が、まるで嘘だったかのように思える静謐な空間に、私は数刻の間呆気にとられて立ち竦んでいました。怯んでいたのかもしれません。腹に響き脳味噌を揺さぶるほどの激しい音達が、まだ私の耳に残っているのですから。



 そのまま日も暮れて夜が訪れ、いつもの就寝時間が訪れました。就寝時間と一口に言っても、寝付きの悪い私にとってはただの布団に入るだけの時間です。眠りの悪い日は、横になって一、二時間はずうっと意識が冴えていて眠れやしないのですから。

 今日の私もそうでした。全く眠れる気がしません。眠気のネの字もありません。しかし私は今、いつものように毛布をかぶって横たわってはいませんでした。私の指は確かな意志を持って、友人の電話番号を押しています。普段は友人に電話をかけるようなことはありません。話すことがある時は、実際に会って近況報告を兼ねて街をぶらつくのですから。そもそも友人は、電話をかけても出ませんし。

 ですが、今夜は違いました。

「もしもし」

 一度のコールの後に、眠気をまとった声が私の耳に届けられます。それは他でも無い、数日前に久しく会ったあの友人の声でした。私はその声に、自分が泣きそうになるのを自覚しました。何故か胸の奥底がじんと熱くなって、どこからか涙がこみ上げて、私の目尻を潤わせるのです。

「嗚呼、もしもし。君の言うとおりだったよ。私は、痛い目にあってしまった。酷く打ちのめされてしまった。今更後悔しても仕方がないけれどどうしたものか」

 私は気持ちより言葉が先駆するのに自分で気が付きましたが、それを自制する術を持ちませんでした。今のこの必死な態度すら滑稽に思えて仕方がありませんが、それよりも救済を求めてしまうのです。

「ほうら、言ったとおりじゃないか……それで、要件は」

 友人は、私とは対極的に平静としながら構えて、私の遅い言葉紡ぎを待ってくれました。

 それから私は、今の自分の心境、過去のためにためた愚痴の数々を洗いざらい吐き出しました。まるで尋問や拷問をされているかのように、いつもは固くへの字を結んだこの口は、大層素直に言葉を吐くのですから、人とは不思議でなりません。私は、自身の感情をうまく友人に伝えることができませんでした。声は涙で震えていますし、発音も下手で滑舌も悪く、言いたい事を頭の中でまとめていない故にか自分で何の言葉を吐き出したのかも曖昧です。

 ですがその必死さのままに私は、彼に救いを求めたのです。

「よくよく考えてみればそうだったんだよ。私は君の言うとおりに、自分の恨み辛みをためすぎていた。もっと早くに吐き出していたらこうはならなかったのかもしれない」

「嗚呼」

「正直なところ、これが君の言う鬱というものだという確証は無いんだ。けれども今はどうにも優柔不断で、君の言葉が全部正しいんじゃないかって思ってしまっている」

「そうなのか」

「もともと、自分に自信を持っているつもりでは居たんだ。自慢じゃないが顔は良い方だし、昔は色んな人に告白もされた」

「そうだったな」

「私自身のことだって、特段甘やかしているぞ。でなければこんなに甘ったれた笑い方をする人間にはなっていないはずだ」

「かもしれないな」

「昔からなんとなく気がついてはいたんだ。私はどうにも、人の気持ちや物事に対して過敏すぎる質にある」

「嗚呼」

「他人の顔色を伺って行動したり、他人によく思われようと愛想笑いをしたり、今思えば反吐が出そうだよ」

「そうか」

「当時は、それが普通だと思っていたんだよ。てっきり皆そうやって生活してるもんだと思ってた」

「そんなことはない」

「でもそうだよな、そんなことは君を見れば火を見るより明らかだったのにな。君のような人間の何処が、他人の顔色を伺って生きてる人間に見えるんだろうか、馬鹿らしい」

「失礼だろう」

「失礼なんかじゃないぞ。そういえば、先日出かけたときもそうじゃないか。君と私は漫談を繰り広げていたというのに、その雰囲気をぶち壊しにするような事を言って。私はあれからずっと考え込んでたんだぞ」

「すまなかった」

「いいやいいんだ──寧ろ助かったよ、ようやく君がどうしようもなく偏屈な人間だと気がつけたんだから」

「なにをう」

「はは、弁明があるなら聞くぞ──夜通しでも、なんでも」

 その晩私は、夜が明けるまで友人と語るに耽りました。積もる話もありました。言い辛い話もありました。それでも私と友人は、赤裸々に、腹蔵なく、忌憚のない意見を伝え合いました。重箱の隅をつつくような話も、中身のない話もしました。途中からは互いに酒を酌み交わしてほろ酔い気分で──友人は後半酩酊状態になりかけていましたが──息つく間もないような会話をしました。

 疲れ果てた翌日の深夜三時半頃。私は眠気で朦朧とした意識のままに、おやすみの挨拶も無く電話を切り、泥のように羽毛布団の中に溶けました。

 それは幾年かぶりに経験した、夢見る間もないほどの心地の良い眠りでした。



 翌朝──とは言っても、昼を過ぎた十四時頃のことですが、目が覚めた私は再び友人に電話をかけました。友人は昨晩と同じように、ワンコールで応答しました。

「もしもし」

「もしもし──よく、眠れたか?」

「嗚呼。ぐっすりだ、何ならまだ眠いぐらいだよ」

「そうか、それはよかった」

 友人も私も、昨日の酔いが僅かに祟っているのか、はたまた眠気からか、何処か浮いたような心地の声色をしていました。友人なんかは、会話の合間に受話器の向こうで小さな欠伸を溢しています。

「お前、矢張り今度医者にかかるといい。私は医者ではないから、お前に正しい診断をしたわけではないし。それにお前もだいぶ心労も溜まってるようだから、何があるかわからんしな。念には念をだ」

「そうか。言うとおりにしてみよう」

「嗚呼」

 説法のような友人のその態度が、今はとても心地がよいように思えました。慣れ親しんだそれに安心感を覚えている私がいるのでしょう。そしてその安堵の念は、私の眠気を再び促進させるのでした。

「そうだ、いい忘れていたことがある」

「どうかしたのか」

 ふと思い至ったかのように跳ねた友人の声に僅かに肩をビクつかせながらも私は、受話器の向こうの声に耳を澄ませました。しかし返答はすぐには来ず、どちらも何も口を開かない無音の時間が僅かに過ぎます。

「おはよう。これを言い忘れていたんだ」

「嗚呼──おはよう。といっても、もう昼過ぎだけれどな」

「細かいことはいいんだよ、細かいことは」

「そうか」



 それから数カ月、数年が経った頃でしょうか。詳しく経過した年月は数えていない為にわかりませんが、私は再び友人と予定を擦り合わせて、久方ぶりの外出に出かけるのでした。邂逅した友人の姿はあいも変わらず気が強そうで、変わりないなと思った私は遠目からその姿を見た時に思わず苦笑してしまいました。

「そういえばお前、幾らか身長が伸びたかのように見えるが」

 出会って一番に友人は、私を大袈裟に見上げる素振りを見せて言いました。

「いや、そんなことは無い。君が小さくなったんじゃないか」

「そんなことは無い。お前より上背は高いつもりだ」

 冗談粧して私も友人を徐に、小粒の米でも見るかのように見下げてやれば、友人は不愉快だとでも言いたげに眉間に皺を寄せて私を睨むものですから、また私はその姿が大層面白くて吹き出してしまうのでした。

「それこそ違うだろう──私の背筋が伸びたんだよ、背筋が」

「そうか。それはよかったな。この画角はどうも、見下されているようで腹立たしいものがあるが」

「はは、悔しいなら君もその曲がった背中を伸ばして胸を張ったらどうだ」

「なにを、私はいつでも厚顔無恥、唯我独尊。胸なんて張りすぎて今にも裂けるぞ」

「そうか、それはよかった」

 私の上背は、まだいくらか曲がってはいますが、しゃんと伸びて胸を張っています。他人の目や素振り、物音などが気になるのは相変わらずですが、それはもう直しようもありません。上昇志向で、良い方向に捉えることが私にできる最善策であり、最適解というものでしょう。

 睡眠は毎日八時間から九時間、たまの休みには十時間も惰眠を貪ることもありますが、それはいつもを頑張っている私へのご褒美として目を瞑っています。これは自慢ですが、よく食べよく眠り、生活を過ごすことができています。

 目元の隈が、完全にではありませんが薄れはじめているのが、その何よりも証でありましょう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬱然に臥す こましろますく @oishiiringo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ