視線

 それから私は、どうにも落ち着きのない日々を過ごしました。身体も健常に近く、病を患った試しはありません。身内に不幸があって鬱々としているわけでも、あくまでもこれまで過ごしてきた日常と変わりない様子でいたはずです。

 しかし私は、友人に言われた言葉が、食事もあまり喉を通らないほど心残りになっていたのでした。具体的にどの一言が、というものはありません。先日の友人との会話というものが全て、私の心の奥底に巣食い深く根を這ってしまっているのです。

 自身の図星をつかれたところというか、私が必死に目を背けていた事実を痛感させられたからというか。明確な理由はわかりませんが、私はあの一日の行動を、ここ数日で何度も何度も思い起こしてしまうのです。

 ある日私は、長く着続けていた外套の春物を新調しようと、歓楽街へと赴いていました。百貨店のビルが新年度に向け、外壁塗装を行うべく、青色のシートで全面を覆われています。道路工事の時期特有の掘り返されたガードレールの元には、陳腐な蛍光色のパイロンが並べられておりました。

 この時期特有の、顧客確保の商売や予算整理の政治などが、都市化に連れて減った緑葉の代わりといった具合に春の訪れを曲がりなりにも告げており、私はもう間もなくこの鬱陶しい厚着の生活も終わるのだなと、白い溜息を吐きました。

 私は雑踏の合間を縮こまって抜けながら、未だ薄ら寒い街道の路面店の、少し曇ったショーウィンドウの前でふと足を止め、私はその展示に目をやりました。皮肉にもそこにあったのは、先日の品と似たような春色の、女性用外套でした。数日前に友人に言われた言葉が、嫌でも脳裏を過ります。

 私は思い起こされたそれを無理やり振り払うように頭を降ると、マフラーで口元を隠すようにして、その洋服店に足を踏み入れました。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなものをお求めで?」

 齢三十頃と思われる厚化粧の女性店員が、私が店に足を踏み入れるやいなや声をかけてきました。

「嗚呼……春物の外套を、新調しようかなと」

「かしこまりました。お色は如何なさいますか?春物でしたら、灰色や濃い緑、カーキや薄茶色やクリーム色などがありますが」

「じゃあ、灰色で」

 満点の接客で対応してくださる店員の方とは相対して、私は段々と彼女と目が合わせられなくなって、店内に並ぶ洋服や備品、終いには自身の靴の爪先へと目線を向けてしまいました。人と目を合わせること、店内に点在する他の客と目が合うこと、そもそも人の視線というものやけに気になって仕方がないのです。

「かしこまりました。ご試着はされますか?」

「いや、結構です……それと、帽子ってありますか?ツバが広めのものだと良いのですが」

「御座いますよ」

「じゃあそれも」

 試着や採寸も碌な会話もせずに必要な品を購入すると、背中にかけられる「ありがとうございました」という店員さんの声を聞き流しながら、私は逃げるように店を出ました。そして直ぐに、人の視線を避けるように、購入したばかりの帽子を目深に被りました。ショーウィンドウに映った私の姿勢は相も変わらず曲がっていました。どこか、前よりもひどい有り様のようにも思えてしまいます。

 喫茶店で、不格好に曲がった背を伸ばさずに店員に笑いかける私の姿というものは、どれほど滑稽なものだったでしょうか。友人はもしかして、その時点で私のこのまあるい背中に気がついていたのでしょうか。

 かまきりのような背筋で歩く私は一体、どれほどのらりくらりとしていたことでしょう。何度も何度も想像するだけで、頬が赤く染まってしまいます。自分は正常だと胸を張っていたはずが、その胸は窮屈そうに私の背中に包まっていたのですから、これほど恥ずかしいことはありません。

 そうして深く考え込んでしまう程私の上背は、さらにさらに縮こまってしまうのでした。衆人環視に晒され、笑いものになっているような気分です。道行く人の笑い声が、私へ浴びせられる嘲笑のように思えて仕方がありません。

 もうすっかり暖かくなってきたというのに、厚手の外套のボタンを全て閉め、つばの広い帽子を深く被り、人目を気にして薄暗い裏通りを好んで歩きました。その姿こそ何よりも不格好を晒しているものだと、頭の片隅で気がついてこそいましたが、それも気にならないほどに人の視線というものが末恐ろしくて堪らなかったのです。

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