鬱然に臥す

こましろますく

姿勢

 私の睡眠時間は、日にもよりますが、平均で四時間程度。幾度も目覚めまた眠りにつくような浅いものを日毎に重ねるのが、よもや私の日常のようなものです。一夜に見る夢の数知れず。悪夢と呼ぶには滑稽な、夢日記に書き連ねる間もなく内容が薄れて消えるそれは、人様と比較してみても頭一つ抜きん出て浅いものでして。

 眠っているか眠っていないかも不明なほどで、正直なところ常に意識はありますし、耳元で鳴った虫の羽音や、家屋の上下階で起こる些細な振動で意識を起こされてしまうことも多々あります。

 私にとっての夜というものはそれほどまでに脆く繊細で、安楽や休息といったものとは無縁なのです。夜も更けた街で、夜遊びや悪い大人の界隈に耽溺しているというような、おもばゆい話ではありません。

 ただ無性に、眼が冴えてしまうだけの話です。賢しらに何かを語るつもりは毛頭ございません。ですが私はその人よりも不出来な睡眠をどうにかしたいと常々思っております。快眠、爆睡熟睡。それらを一度体験してみたいなと考えるわけです。


 そもそも私が深い眠りにつくことができないのは、過敏な性分にある故のものだと思われます。先程申しました通りに、小虫の飛び回る耳障りな音や何処かの誰かの生活音ですら睡眠の弊害になってしまうほど、衝撃や物音といった部類のものに敏感なのです。

 日常的にも、些細なことが障害になってしまうきらいにあります。姦しい笑い声や急な大音声などに、酷く怯えてしまうのです。

 自分でも最早笑えてしまうほどに生きづらい質だなと痛感していますが、それが私という一人の人間の個性であり、当たり前の生活なのです。



「それはお前、あれに決まってるじゃないか、あれ」

 東京郊外に在する珈琲の苦い匂いの染み付いた喫茶店にて、私と友人は机を囲みながら談笑に耽ります。幼心から付き合いを始めて築いた信頼関係ゆえに、互いを深く理解している私達ですので、こうしてたまの休みに予定をすり合わせては、生活の進捗を報告し合うのです。

 進捗と言いましても、何か成し遂げた事柄を口伝するだとか、身の回りの珍事を話すだとかではありません。生活において大事や変わりはないか、何か事件に巻き込まれてはいやしないかと、いわば生存確認のようなものといえましょう。

 兎にも角にも、久方ぶりに邂逅を果たした私達は、直近の自分らの状況を伝えたのでした。友人は、近辺で起きた珍事の数々を。相対して別段話すことも無い私は、近頃といいますか昔からといいますか、悩みの種の一つである私自身の安眠についてを、特に重要ではない些事のようにさらさらと伝えたのです。

 するとどうでしょう、友人はまるで大変なこととでも言うかのように、半ば身を乗り出して話に乗ってきたのでした。

「あれとは?」

 あまりこの話に興味が無かった私は、元来の建築と言われる木造の趣きの、古い机の節目の数をぼうっと数えていたのを、思わず友人を見上げて小首を傾げてしまいました。

「嗚呼、鬱だ鬱。詳細は知らんがそんな感じのものではないのか」

「鬱?私がか」

 友人は私のことを卑下して見るような人間では無いことは周知の上ですので、根拠もなくこのようなことを発することはないというのは勿論理解しています。ですが私は、はて、と思いました。自身がそのような症状を抱えているという自覚は全くもってありません。確かに少々気苦労の多い人生ではありますが、私はあくまでもそれだけに過ぎないものだと思っているからです

「何かの勘違いでは?確かに私は昔から気が弱いところがあるけれども、直ぐに折れてしまうような人間でないことは君もよく知っているだろう」

 私が言うが早いか、友人は苦い顔をしながら否定するように力強く首を振りました。

「いや、今のお前は普通じゃあない。普通の人間は、よく寝てよく食べよく遊ぶものだ。一度、医者に伺ってはどうだ。お前も昨今はだいぶ暇を持て余しているのだろう」

 無糖の珈琲をはしたなく音をたてて啜りながら、彼の両目は私を捉えます。ぎろりと睨むような──ただ彼の目つきが悪いだけですが、その双眸でじろりと私を観察すると、深く嘆息をしました。

 人をまるで不出来な物のように見るその目線に、私もいくらか不快感を募らせましたが、無闇に食ってかかっても口論になるだけ無駄だと思い、私もまた彼より一回り大きく大袈裟な溜息を溢して、彼へと居直ります。

「確かに私は暇人の部類だけれども、君が普通の人間に抱くそれは偏見か何かじゃあないか」

 しかし、呆れたように言葉を投げる私に、友人は「そうではない。違う」と頑なに我を通そうとするのです。こうなってしまった友人が意見を曲げることが無いことを誰よりもよく知る私は、旗色も悪いことですし、結局は諦めて「じゃあそうなのかもな」と、宥めるようにこちらが意見を退かせるのでした。

 友人が私の性格を理解しているようにまた、私の友人のことを深く理解しているのであります。友人に意見を曲げさせたいのであれば、梃子を使わなければなりません。

「だいたいお前は、自分のことに興味がなさ過ぎるんだ。折角こちらが親身になって接しているというのに、当のお前がそんなにも腑抜けた面をしていては、如何しようもないだろう」

「寧ろ君が過保護なほどだと思うが。きっと君は、私よりも私に興味があると思うし、私のことを理解していると思うぞ」

「お前がお前のことを知らなすぎるだけだ」

「そうか」

 ばっさりと私の追随をせき止めた友人は、私が納得したか譲渡した様子なのを幾らか満足したかのようで、何処か勝ち誇ったような顔をして珈琲を口にふくむのでした。

「大体お前は、ストレスを抱え込むきらいにあるだろう。昔から思っていたが、たった今確信した。確かにそうだ。お前はもう少し、自分を甘やかすことを覚えるのがいい。自分に自信を持つところから始めろ。自己肯定からだ」

 飲み物を嚥下した友人は、話を切り替えるように改まりながらも、再び先程の話題に向きを変えました。友人はまるで私に説法を説くように、私の短所というか欠点のようなものを事細かに指摘するのです。私は少々頭が痛くなりながらも「はいはい」と生返事、空返事で済ませるのでした。

 すると当然のように友人は、眉間に皺を寄せて呆れたようにため息を吐きながら、言葉尻を捉えてさらにまくし立てるように言うのです。

「自分の心身に対して、足を伸ばしたり胡座をかいたりばかりして挑んでいるだろうお前は。抱え込みすぎて死んだらどうする。あの世で自分に悲歌慷慨でもするつもりか」

 友人の言う通りに、確かに私は自分自身に対して月並みの興味も無いのかも知れません。実際に今、友人が私に人生の道を説くのを何処吹く風と聞き流して、対岸の火事のように他人事ととらえているのですから。

 つらつらと留まることのない川の水のように紡がれる友人の自論に、今度は私が深いため息を吐いて、カップの底に僅かに残った珈琲のにごりを、ぐいと飲み干しました。

「はいはい君の言うとおりだ私は耄碌していたようだよ、もう少し自分に気を使ってあげるとしよう──嗚呼、店員のお姉さん、お勘定」

「はぁいただいま」

 若い店員の女性の黄色く高らかな返事に私がにこやかな笑みを返すと、向かいの席の友人が酷く呆れたような声音で、今日一番のため息を溢すのでした。寄った皺を伸ばすように眉間を抑える友人の姿は、子育て疲れのような、歳不相応な少し老いた容貌に見えて、なんだか少しばかり哀れに感じました。

「お前、そんな態度じゃあいつか必ず痛い目をみるぞ」

「そのときはそのときで、どうにかするさ」



 そうして喫茶を出た私達は、何処か行く宛があるでもなく、人通りの多い街道を談笑しつつのらりくらりと歩むのでした。私が何歳を過ぎた頃からかは覚えていませんが、着飾るだとか今季の流行だとか、若者映えした物事に食いつくことが少なくなりました

 大人になったといえば聞こえは良くなりますが、自身を取り囲む環境が代わり映えしなくなったと思うと何処か少し物悲しく思うこともあるのです。

 すれ違う若者たちの、最先端を行くであろう華美な装いや、街中に点在する巨大看板の極彩色、どれも私とは相対して眩しく感じて、ため息のような呼吸のような白い息をほうっと吐き出すのでした。

 これが先程友人の言っていた【自分自身に興味がない】ということなのでしょうか。仄暗く回転の遅い脳味噌で考える私には、未だ到底理解が及びません。

「ほらお前、あっちを見てみろ」

 先程まで笑いながらに会話をしていた友人が、ふと思い至ったかのように立ち止まって、私の右手側を指差しました。友人の示す先へなぞるように視線を向けてみるとそこには、大きなショーウィンドウが一つありました。

 新たな季節訪れることを告げるかのような、瀟洒で美麗な春色の女性服を着た黒色の人形が、厚い硝子の向こうでポーズを取っています。

 もう間もなく春がやって来ることを、私はそれを見て気が付きました。しばらくぶりの外出ですから、季節の移り変わりも忘れてしまっていたようです。

「綺麗な服だな、先程の喫茶の店員さんなんかが着たら似合いそうだ。これが、どうかしたのか」

「違う、服じゃない。お前だお前、お前の背格好をようく見てみればいい」

 問うように友人へと向き直ると、友人は否定するように一度首を振って、再度ショーウィンドウのほうを指差すのでした。私が何か不格好でも晒しているのか、なにごとかと思ってまたショーウィンドウを向いて見ます。

 そうしてそこに映った私の姿は、よくよく指摘されてみれば、酷く滑稽に思えてしまいました。

 何か服に穴が空いているだとか、そういう無様を見せているわけではないのです。不細工なのは私のまとう衣服ではなく、私という存在自身でした。顔などの容姿ではありません。自慢では無いですが、私は自身の顔立ちはそう悪くないものだと思っていますので。

 醜いのは、私の立ち姿でした。他人より幾らか上背の高いと思わしきはずの私の背は、まるで猫やカマキリといった生物のように、まあるく前屈になって曲がっていたのです。

 ようく見てみれば、その目元には黒くくっきりとした隈が刻み込まれているではありませんか。大層血の巡りの悪そうな肌色もしています。鳩のような顎に丸まった背丈は、まるで自分に自信が無く俯いているようでした。枯れかけでシワのよった花とよく似ています。

「ほうら見ろ、お前が自分に自信を持っていないあらわれだ」

 皮肉めいた口調で言う友人のほうへ、私は向き直れないでいます。先程までの漫談の空気を凪いでしまった彼の空気の読めないところへの怒りの感情が少々、後ろめたさも僅かに、ですがそれを拭い去ってしまうほどに自分自身へ混乱の念を抱いているのでした。

「私は、一体いつからこんな気の抜けた猫背になっていたんだ?」

 同年代の友人の中で並んでも身長が高く伸びていたはずの私です。それが何年前のことかは忘れましたが、しかし、それほどの時間は経っていないことは覚えています。私もまだそんな歳ではありません。

 ですが硝子に反射した私の姿は、まるで老衰した爺さんや婆さんのように萎れた花みたく曲がって俯いているのでした。

「知らん。昔のお前にでも聞いてみたらどうだ」

 そう吐き捨てて友人がまた、広い歩幅で歩きだしてしまったものですから、私もそれを追うように歩くしかありませんでした。再び始まった彼との昔話や世間話は、頭を右から左へと通過していきます。

 もう私の右手の方にあのショーウィンドウはありませんが、そちらを向けば再び私の滑稽な姿が見えてしまいそうで、左手側の友人のほうばかり凝視してしまいます。

 瞬きのために瞼を下ろす度、その一瞬で脳裏に先程の私の面白おかしい姿が投影されました。既に会話を移して先程の指摘も忘れたような友人とは相対して私は、その日はずうっと私の姿のことばかり考えてしまいました。

 一体今、街道を歩く私の背は、曲がってしまっているのでしょうか。それはすれ違う皆々様の目には、どのように映りどのように思われているのでしょうか。考えるだけで、身を縛るような息苦しさを感じてしまうのでした。

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