起首
「少しだぞ。おい、聞いてるか?」
「分かってるってー」
道場に入ってきた爽葉を見た隊士達は、彼に続いて、引っ張られるようにして姿を現した人物に、思わず目を丸くした。同時に、「やっと許可を貰えたのか」と、爽葉の為に場所を空け、微笑ましく見守る親心ぶり。土方と試合がしたいと、爽葉が以前から騒いでいたので、土方との試合が念願だということを、誰もが知っていた。
なかなか爽葉の相手はしてくれないが、土方が稽古をしない、という訳ではない。
寧ろ、全く逆である。
隊士達に稽古をつけることも頻繁で、胴を着け、彼等に混ざって、自ら汗を流して指導をするし、よく解りやすいとの定評もある。無論、稽古は毎日欠かさない上に、暇さえあれば骨肉の砕けるほど鍛錬に励んでいる。ただそれを、彼は境内などの人目の少ない所や屯所の裏など、人目を憚って行うのだ。能ある鷹は爪を隠す。実力を持つ者は、必ずどこかで努力を重ねているものである。
隊士の一人が進み出て、爽葉と土方にそれぞれ竹刀を手渡してくれた。
爽葉は土方から距離を取って構えの姿勢を取り、いつでも攻撃できる状態に入った。それに対し土方は、竹刀持った手をだらりと下げ、悠々と煙草を吸っている。
「煙草吸ったまま、僕の相手?」
「チビ助の多少の相手なら、喫煙の片手間に出来らぁ」
爽葉の額の皺が、目に見えて深くなった。
「そう言ったこと、後悔させてやる」
ダッと、爽葉の足の裏が道場床を蹴りつけた音が、短く跳ねた。
小さな足先が素早く空を切り裂いて、乱雑にも思えるほどの早業で、その鋒は荒れ狂う疾風を纏って、真っ直ぐ土方の眉間を狙う。素直で豪快、そして、寸分の狂いなく。
それを、ただ口許に緩い笑みを湛えて、煙草を咥えて見ていた土方は、右掌の力を軽く抜いた。すとん、と少しだけ手の内を滑った竹刀は、柄の部分がしっかりと掌に包まれる。
あと少し。獰猛な剣があと少しで土方を襲う、という時。
土方の眼が、すっと
途端、激しい殺気が怒涛の如く押し寄せ、濁流となって爽葉を飲み込んだ。
「なっ……」
土方が放つものは殺気ではない。しかし、胸を空気で圧迫されているかのような、息苦しさを感じて、爽葉は思わず声を洩らした。
バキィ! と、太く甲高い音が鳴り響いた。
爽葉の突きを、土方が竹刀の側面で捕らえていた。爽葉が力で土方に劣るのは当然だが、爽葉の全体重が乗った重い突きを、彼は片手だけで受け止めている。極僅かな接面で、絶妙な均衡を保って竹刀同士が競り合う。
ちっ、と舌打ちを一つして、爽葉は早々に飛び
こりゃあ手強いや。
爽葉が喉を鳴らして笑えば、土方は片眉を上げて腕を振り上げた。力強い。一振りでわかる、その威力。
爽葉の体重が前へと移動し、踵が地面から離れる。竹刀が発する音とは思わぬ硬い音を響かせて、二人の木刀が交わった。
攻めて攻めて攻めて。木刀が金切り声を上げて何度も弾き合い、風を切って相手の急所を狙ってゆく。
周りの者達は、固唾を飲んで二人の試合を見守った。練達な力量と、圧倒的闘いの才を、見せつけられている。ぴりぴりと痛いほどの空気が、周囲の者の肌まで慄わせて、肌を
爽葉が小柄な体躯を活かして、機敏な動きで土方の
「え?」
爽葉が弾け飛んだ。
ドッ! と大きな音をたて、爽葉が壁に激突する。誰かが発した、
崩れ落ちた爽葉は、床に伏したまま動かなくなる。
「……おい、大丈夫か、あれ」
ざわざわとした騒めきが広がり、隊士のうちの数人が、爽葉の元に駆け寄った。
土方は無言で、竹刀を持つ手をだらりと下げ、爽葉の傍にゆっくり歩み寄る。右腕には筋肉の筋と血管が浮き出ており、肢体にはまだ殺気を伴ったままだ。
爽葉に駆け寄った隊士のうちの一人が、土方の前に、ずい、と身を割り込ませた。土方の殺気と気迫を直接食らって、震える小柄な身体を必死に押さえ込んでいる。
「……愛次郎、大丈夫だ」
その隊士の袴の裾を引っ張って、爽葉が掠れた声でそう言った。
「でも」
「大丈夫」
今度はしっかりとした声音で帰って来た返事に、若干の不安を
「な、言ったろ。喫煙がてらに出来るってな」
土方の煙草の香りが強くなる。爽葉の爪が掌に食い込んで、拳がぐぐぐと縮こまる。爽葉の身体が、伏していた床から離れた。深く、息を吐き尽くす。
「まだ、終わっていない」
「そうだなぁ……相手の首取るまでが試合。立て。もう少し付き合ってやるよ」
爽葉が、ゆらり、と立ち上がる。
気の流れが、変わる。
「いいじゃねえか。さっきよりマシだぜ」
乱れる藍の髪をそのままに、爽葉は突風のように、土方に襲いかかった。
「──っ! おいおい、乱暴だな」
髪に隠れたその相貌は窺い知れず、半開きの唇からは、薄い呼吸が絶えず出入りする。
土方が竹刀を両手で構えた。その懐に爽葉が回転するように突っ込む。弾きあげるも、空中で身を捩り、反動を活かして立て続けに追撃。全て防がれる。土方の竹刀が腹に食い込む。
呼吸が止まったと思ったのも束の間。
自身に刺さる竹刀を、手でむんずと掴み、脚を土方の腕に巻き付ける。上半身を反らして、ぶら下りながら土方の脚を斬りつけようとした。
土方は竹刀を反転。爽葉の行動を先読みして、手を貫こうと、鋒が目にも止まらぬ速さで、垂直に振り下ろされる。
それを横目で察知した爽葉は、咄嗟に溜めを作り、時間差を生み出すことで、肌に掠めるだけに抑えた。
脚を離し、床にとん、と両手をついて立て続けに蹴り入れる。土方は左腕でそれを受け止め、弾き返す。強靭な肉体だ。びくともしない。それどころかその合間にも首を落とそうと、竹刀が轟音を伴って迫り来る。恐ろしい。なんて恐ろしい剣なのだ。
爽葉はのけ反り、跳ねるようにして距離を取り直した。床に這いつくばり、獲物たる土方を捉える姿は、明らか異様である。
「吸いながらっつーのはもう無理そうだな。それだけは認めてやんよ」
土方は、火皿に詰まっていた煙草の草を綺麗に吸いきると、近くにいた隊士に押し付けるようにして預けた。
「悪りぃが、一瞬で終わらせてやる」
二人の刃が振りかぶられた。大きな一歩。僅かな呼吸。爽葉の竹刀が弾け飛んだ。遠くで、カランと虚しい音を立てる。
しかし、彼は止まらなかった。まさか、と隊士達は顔が青ざめる。性懲りもなく爽葉はまだ土方の首を狙っていた。
土方もその剛腕で爽葉諸共吹き飛ばすつもりが、彼がまだそこにいることに驚嘆した。その上彼は未だ、闘争心を失っていなかった。その焔は、消えかかるどころか寧ろ、轟々と燃え盛んばかり。
爽葉は、自分ごと回転することで勢いを殺し、柔らかく竹刀を握ることで、竹刀だけが吹き飛ばされたのだ。
土方の攻撃が、嵐の中の
「……まあ、悪くもねえが、まだまだだぜ」
殺気は塵の如く消え失せて、そこには静寂だけが残った。
背中から落下し、右胸を竹刀の先で床に縫い付けられた爽葉が、荒い呼吸音を洩らしていた。
喉は乾ききり、早鐘を打つ鼓動が鼓膜すら揺らす。皮膚の下を流れる血が熱を帯びて、痛みに痺れる全身の神経を刺激していた。
「チビ助、お前の
反論しようとしても、爽葉の喉から押し出されたのは、苦しげな咳だけだった。二度も打ちつけられた背中が痛い。擦れた肌が痛い。圧倒的力の差を見せつけられた気がして、悔しさと恥ずかしさがごちゃ混ぜになった感情が体内を巡る。
何故だろう。
ぎちり、噛み締めた歯が鳴く。何故、僕の刃は彼の心臓に届かないのだろう。
「出直してくるんだな」
いつもの馬鹿にした笑いを残して、土方の低い体温が離れた。ひどく冷たく感じる体温であった。
分からない。分からないよ、僕の刃が奴に勝てない理由が。
「結構さっくりやられたなぁ? 爽葉」
昼下がり、原田の部屋でだらだらと集まっていた彼等は、肩を落として廊下を歩く爽葉を、部屋に引き摺り込んだ。すっかりしょげた爽葉は、原田に「うるせー」と言い返すも、尻すぼみ。相当堪えていたらしい。それを見た永倉は困ったように眉尻を下げて、爽葉の頭を優しく撫でた。
「まあ、今後も対戦する機会は幾らでもあるさ」
爽葉は胡座に頬杖をついた姿勢で、ぷっくりと不服そうに頬を膨らませてみせる。その頬は丸餅のように柔い。まるで子供だ。原田が丸い頬ををつつくのを、彼は邪険そうに払い除けている。
「元気出せって! ほら、そんなことより、これ見ようぜ」
バシバシと爽葉の背中を叩いてから、原田は引き出しから何やら分厚い冊子を取り出した。それを見た永倉は、やれやれと呆れたように首を振った。目の見えない爽葉は、きょとんと首を傾げる。
「なんだ、それ」
「
原田は何故か誇らしげに、やたら体格の良い胸を張った。
「なにそれ?」
問い返した爽葉に、原田達は驚いて目を丸くする。
「お前、春画も知らねえのかよ!? とんだ世間知らずだぜ」
「春画は知らなくたって支障はない。お前の世間知らずの基準はそれか」
「これは男の必需品だぞ、爽葉。いいか?
「爽葉、奴の言う事は念仏と同じだ。右から左へ聞き流せ」
そう言いつつも、永倉も驚きは隠せない様子。十九の男がそんな単語も知らないのは、逆におかしい気がするのだ。
世間知らずの節があるのは前々から知っていた。しかし、やはり彼の無知な部分を知る度に、驚いてしまう。よっぽど今まで、世間から隔絶された環境で育って来たのだろうか。彼の過去を知る
「永倉、春画って何だ?」
「お、俺に聞くな」
「おーいー、ぱっつぁん。てめえ何今更恥ずかしがってんだよ。お前もよく見るだろ? 毎夜眺めては、一抹の侘しさを我慢しながら、己の欲を満たすだろ?」
「うるせぇ。それとこれとは別だ」
肩にかかった原田の腕を、永倉は邪魔だとばかりに払った。払われた原田の腕は、今度は爽葉が餌食とばかりに、その薄い肩をがっしりと捕まえ、引き寄せる。
「毎日使うものなのか? 稽古と同じか?」
「そうだ。稽古と等しい価値を持つ。お前だって一人の男だったら分かるだろ? 男所帯に四六時中居るんだ。こんな環境で欲求不満にならねえ訳がねえ」
「……はあ」
怪訝な顔付きになった爽葉をお構いなしに、原田は嬉々として喋る。
「吉原行くにも金の問題がある」
「そこでだ」とにやける原田に、永倉は溜息しか出ない。吉原の単語で、何となく内容を悟った爽葉は、原田を汚物でも見たような表情で見て、一歩身体を引いた。
「値段も手軽さもお手頃な春画の出番だ」
「要らないよ」
「おおおお前! やめろ!」
差し出されていた春画を受け取り、ビリビリと破き始めた爽葉の手の甲を叩いて、原田は冊子を彼から奪い取った。端が破けて、皺の寄ってしまったそれを、大事そうに抱える姿は少々滑稽だ。
「お前、男じゃねえ! 総司も平助でさえも愛読するのによぉ!」
「聞きたくなかった」
爽葉は心底嫌そうに、眉を顰めた。
「貸してやんねえぞ!」
「要らないって言ってるだろ!」
「いつか懇願しに来ても知らんぞ!」
「一生ないから安心しろ!」
狭い部屋の中で、軽く取っ組み合いを始めた二人を、永倉が
「何をしてるんだ」
混沌と化した部屋の前を通った斎藤が、三人の様子を見て尋ねた。彼の目の前には、転がり、掴みあう爽葉と原田の姿と、溜息を吐く永倉。そして投げ出され、皺くちゃになったあの冊子。
「ハジメ!」
がっちりと原田の腕に身体を押さえつけられたまま、爽葉が嬉しそうに彼の名を呼んだ。
「ハジメは春画なんて見ないよな?」
「は?」
「見ないよな!?」
何故か必死の形相の爽葉を見て、彼は意味ありげな表情で、ふっと笑った。
「どうだと思う?」
「絶対読んでるーっ!」
足をバタつかせて頭を抱えた爽葉を指差して、原田は、「ほれみろ」と言って腹を抱えて笑う。
「だーから言ったろ! 斎藤ですら読んでるんだぞ。お前も男なら読め!」
「僕、目見えないし、読めないもん!」
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