起首

 げし。と、爽葉の足が、原田の脇腹に直撃する。その脹脛ふくらはぎを易々と捕まえて、原田は片笑む。


「読み聞かせしてやろうか?」

「やめろおおお! 気持ち悪い!」

「女は俺がやるから、ぱっつぁんが男の役な」

「余計無理!」

「俺の喘ぎ声は貴重だぜ」

「お前の春画の上に吐いてやる」


 それを呆れて見る永倉は、まだ淡い笑みを面相に残す斎藤を見上げた。彼の格好を見て、「何処か出掛けるのか」と尋ねる。


「ああ、沖田と爽葉を呼びに来た」


 名を呼ばれた二人が、ぴくりと反応する。

 柔らかそうな髪質の髪を緩く束ね、引き締まったしなやかな筋肉の肢体を、深い紫の着物に包んだ斎藤は、なんとも色気のある男であった。大人びた顔つきが、彼の寡黙な性格と合わさって、神秘的な色艶を漂わせている。彼の薄い唇の端が優しく持ち上がり、猫目が少しばかり細くなる。


「取り締まりだ」

「待ってましたぁ!」


 原田を半ば踏みつける勢いで、取っ組み合いから抜け出した爽葉は、大声を上げて喜んだ。笑みを顔いっぱいに広げ、春画を床に叩きつけるように投げ捨てて、立ち上がる。「元気だな」と苦笑いの永倉も、爽葉を見つめる目つきは優しいもの。


「この爽葉様にお任せあれーっ」


 ボロボロになった春画を拾って、涙で袖を濡らす原田に脇目もふらず、爽葉は嬉しそうに廊下へと飛び出した。






「……え。これだけ?」


 大きめな唇からぽろりと零れたのは、控えめな声だった。

 爽葉と沖田、そして斎藤は、近藤と芹沢に呼び出され、大坂奉行所の依頼で幕府に不満を持つ浪士達の取り締まりの為、大坂に来ていた。一昨日の朝に京都を経ち、二日もかけて大坂に来た割には、随分とあっさり案件が片付いた。先程、高沢民部と柴田玄蕃という攘夷浪士二人を捕縛し、奉行所にその身柄を引き渡したところだ。爽葉としては、肩透かしを食らったような気分で面白くない。


「つまんない、つまんない、つまんないっ!」

「しょうがないよ、あんな雑魚だったんだから」


 不平不満を撒き散らしながら、駄々をこねる爽葉の襟首を掴んで諫めたのは、沖田だ。そう言う彼もまた、爽葉と似たり寄ったりの心境なのだろう。不満が言葉に棘として現れている。


「よし、てめぇ等。そんなに暇なら儂が面白え処に連れてってやる」


 大きな声でそう言い放ったのは、他でもない、芹沢鴨。ジャラ、と鉄扇が音を立てる。


「本当か! 何処にだ? 何処に連れてってくれんだ?」


 早速食いついた爽葉の頭を、ぐしゃぐしゃと雑に撫でて、芹沢は思案するように空に視線を投げ遣った。


「そりゃあ」


 そして、すぐに不敵な笑みへと表情を変える。


「酒と飯だろ」


 そう得意げに笑った芹沢は、手招きで新見を呼び、何やら耳打ちした。彼がこくりと頷き姿を消したのを見た近藤が、困ったように眉尻を下げて、「芹沢さん」と口を開けば、芹沢は不機嫌な低音で、「なんだよ」と返す。


「折角なら、夜景でも楽しもうじゃねえか。なあ」


 酒と飯に釣られて、嬉しそうにしている隊士達を目の前にすれば、近藤も何も言えない。息抜きに関しては、近藤も賛成であった。ただ単純に、芹沢がまた何か騒ぎでも起こさないかと心配なのだ。

 近藤は彼に忠告だけ入れて、とりあえずのところは解散とした。日が沈むまで未だ時間がある。芹沢は平山を引き連れて、女やら酒やらを求めて早速何処かへ行ってしまい、爽葉は沖田と街を散策することにした。

 流石は天下の台所、大坂。日本の商業や経済、物流の中心地を担っているだけあって、通りは人でごった返していた。爽葉にとって、ある程度の人通りは寧ろ、気配を探りながらの歩行の手助けになるとはいうものの、あまりに人が多すぎた。最初は我慢していた爽葉も、遂に耐えきれなくなって、数歩先を行く沖田の着流しの裾を、遠慮がちに引っ張った。


「掴ませてくれ。人が多過ぎる」


 驚いて立ち止まった沖田は、爽葉の小さな手をじっと見て、唇を少し噛んだ。


「ごめん、気付かなくて」


 そう謝って、沖田の大きな掌が爽葉頭の上に乗った。温もりがじんわりと伝播してくる。首を縦に振れば、沖田はくつくつと喉を鳴らした。


「なんだよ」

「いや、こういう時の爽葉って、可愛いなって思って」

「可愛っ……!?」


 半身を仰け反らせ、頬を紅潮させた爽葉の初心うぶな反応に、彼はまたけらけらと笑う。そして、結局面倒見いい、あの目つきの悪い男を思い浮かべ、爽葉のこういうところも可愛がってしまうのだろうな、と思うのであった。

 足癖の悪いことに、すぐ爽葉の足が飛んでくるものだから、沖田は横に身体をずらしてそれを避ける。照れ隠しに足蹴りとは、随分と彼らしい。


「気色悪いこと言うな」

「褒めただけじゃん。暴力的だねぇ」


 懐に持っていた飴を取り出し、沖田はころんと口の中に投げ込んだ。仄かに砂糖の香りが鼻腔をくすぐった。沖田の薄茶色の瞳が、ほわりと細くなる。


「あっ、ずるい。僕にも!」


 沖田の長い指が、色とりどりの飴が入った袋から桃色の飴を一つ摘み、爽葉の唇に当てた。んむ、とその感覚にびっくりした爽葉に、彼はにこりと笑んで、その飴を更にぐりぐりと押し付ける。爽葉のふっくらと柔らかな唇が、沖田の指先を掠めた。少し唇が開いて、その瞬間、桃色の飴玉は爽葉の口の中に消えた。うるるとした艶唇から洩れる吐息。それは、沖田と同じ甘い香りがする。カラ、カコ、と舐めるたびに飴が歯に当たって可愛らしい音をたてた。


「甘味処でも入ろうよ。濃い抹茶が飲みたいな」

「ん、それいいね」


 爽葉の何気ない提案に、即答で乗っかった沖田は、爽葉の小さな手を引き、多くの人で混み合う道を縫うように歩き出した。今度はそれに爽葉が驚いて、戸惑うように沖田を何度も見上げる。


「おチビが迷子になられたら、俺が困るからね」


 「事前予防だよ」と、そう付け足す沖田は、全然素直でない。爽葉も沖田と付き合ううちに、彼のややこしい性格が粗方分かってきた。無言の意図を汲み取って、次の行動を予測することだって、できるようになってきている。そうは言ってもやはり、彼の思惑はひどく難儀である。

 でも今は。子供同士がするように、しっかりと繋いだ掌から伝わってくる温度ぬくもりは、とても素直で、じんわりと温かった。


「何食う?」

「大福にしよ」

「煎餅食いたい」

「やっぱ、ぜんざい」

「ここは羊羹でしょ」


 ぽんぽん交わされる、子供じみた会話。いつもの稽古の真剣な話も良いが、こういうやり取りもやっぱり心地が良い。

 二人は肩を並べて店先で大福と羊羹を食べ、軽口を言い合い、ぶらぶらと街を散策する。普段から肩の力の抜けない任務が多いだけに、二人にとってこういった時間は貴重であり、そしてあっという間に過ぎ去ってゆく。気付けば、薄明はくめいの空が、散策の時間の終わりを報せていた。


「そろそろ宿に戻ろうか。夜は酒食がでるからね」


 集合場所まであと少しとなった時刻とき、名残惜しげにのろのろと帰途についていた二人の足が、同時に止まった。体の動きも、しかり。目付きと、一瞬にして張り詰めた神経だけが、周りを探るようにして様子を伺っていた。

 二人はそっとお互いの背中を向き合わせ、辺りを警戒するように目を光らせながら、刀の鍔に手を添えた。しかし、なかなかどうして、彼ら剣士の性質なのか、口許には余裕とも不敵ともとれる、悦びに根ざした笑みが、張り付いてしまっていた。


「誰だと思う、おチビ」

「ただの辻斬りにしては、隙がなさすぎる。……刺客か。手練れには間違いないな」


 低めの声で、思考をそのまま言葉にして素早く紡ぐ。沖田も眼を細めて、うなずいた。幾多の場数を踏んでいる彼等は、気配や感じ取った空気で、どの程度の力量の相手なのか察することが出来た。今回の敵は、少しばかり手強そうであった。

 沖田と爽葉は、性格こそ違えど、戦いにおいての気質は至極似ていた。それは、根っからの剣士である点、である。


 爽葉は、突然やってきた戦闘の兆しに、身の内を巡る血が沸騰するように音をたてるのを聴いた。

 ──相手は誰だ?

 ──どれほど強い?

 ──どんな技を持つ?

 早く……早く剣を交えたい──!

 愚直な欲求が交差し、気持ちが昂る一方、頭はすっきりとしており、思考は落ち着いていて冷静であった。


「かくれんぼなんて、していないでよ。出ておいで」

「……早く。僕達が相手してやるからさ」


 家々の陰から姿を現したのは、一人の男だった。量のある黒髪を無造作に頭の後ろで高く結び、格好は何度も着回しているようにも窺えるれた着流し。ごつごつとした骨格に、凛々しくはっきりした顔立ちが、その適当な格好をなんとか様にさせていた。

 沖田は彼の目を見て、後ろ足を更に引いた。その鋭い黒眼には、飢えた狂犬のような影が潜んでいる。

 男の眼は、人殺しの眼であった。

 彼と爽葉達は形違えど、所詮は同業者。騒ぎがあれば耳をそばだて、敵がいれば目の色を変えて刀を抜き、戦と聞けば無性に血が騒ぐ。そんなさがにある。

 その男の殺気は、極太の筆で縁を描いたような、滲み出るものであった。彼からは、ただ立っているだけで隠しきれない何かを感じる。


「僕等に何の用?」


 張り巡らされた、一触即発の空気。

 鍔に手をかけて身構える沖田に対し、気の早い爽葉は、既に脇差抜いて、そう問うた。

 男は無言で右脚を出し、距離を詰める。爽葉はそれに呼応して、一歩半だけ身を引いた。


「おい」


 沖田が訝しげに眉を寄せた様子を見て、その男はまた一歩。間合いを詰めてくる。鍔に添えた沖田の親指に力が篭った。

 最初に動いたのは、爽葉だった。

 駆けて飛びかかるように、その脚力を存分に発揮して、男に襲いかかる。しかし振り下ろされた爽葉の脇差の鋭いきっさきは、男が早業で薙ぎ払った刀が弾き返していた。

 力を前に押し出した男の横からは、沖田が華麗な捌きで突きを繰り出す。その刃が彼の黒の着流を何度か引き裂いた。

 しかし、角張った身体に似合わない滑らかな身のこなしで、男は後方へと飛び退る。


「何者だ?」

 

 そう独り言ちながら、爽葉は全神経を集中させて、男を捉えた。そして、苛立った様子で彼は地面の土を意味もなく蹴った。客観的に見て、爽葉はこの男には勝てないと判った。土方同様、戦う前から判らされてしまった。その事実が、無意識に爽葉の心を打ち砕く。沖田の勝率は五分五分だろうが、二対一の今、形勢はこちらの方が有利だ。

 戦場で生き残る為に必要なことは、たったの二つ。己の剣と運、それだけだ。


以蔵いぞう


 再度飛びかかろうと、脇差を握り直した爽葉は、そんな間延びした声に邪魔されて、思わず動作を停止させた。

 殺気でギラつく男の傍に、ゆったりとした足取りで、それもにこにこと人の良い笑顔を浮かべながらやって来た男がいた。すらりとした体躯に、穏やかで優しそうな面相。とんだ場違い野郎だと思ったのも束の間、彼の纏う空気を感じて、爽葉は柄を強く握った。

 只者ではない。今対峙している男よりも、よっぽど危険な香り。こういった場合、笑顔を見せてくる奴の方が侮れないと、確かに相場は決まっている。


「また物騒なもん出しちゃって。ほら仕舞いな仕舞いな」


 以蔵と呼ばれた男は、不服な表情かおではあるが、彼の言う通り、渋々その刀を鞘に納めた。「いい子だ」と、まるで子供をあやすような扱いをする男の手を、以蔵は払いのけ、彼の後方へと少し下がって、爽葉達から視線を逸らす。隣の沖田はそれを見て、渋々構えの体勢を解いた。


「あーあ。折角面白い試合になると思ったんだけど」


 「邪魔なんだよ」という、沖田のこれ見よがしな発言を、男は笑顔で軽く受け流し、腰の後ろで手を結ぶ。


「うちの以蔵がすまないね。どうも喧嘩っ早いもので」

「ちゃんと躾しといてくださいよ」

「いやあ、かたじけない」


 男と沖田の会話の端々には、棘が見え隠れしている。


「待て」


 では、とそそくさと立ち去ろうとした二人を、爽葉が鋭い一声で呼び止めた。彼等は半身振り返り、爽葉を見る。不気味な白布が風に靡き、藍の髪は暗闇に濡れていた。


「迷惑かけておいて、それはないだろ。名前くらい、名乗って行ったらどうだ」

「これは失敬」


 くるりと、男は踊るように身体を回転させた。以蔵とやらを侍らせて、此方に胡散臭い表情かおを向けた。


「拙者はかつら小五郎こごろう。だだの武士の端くれよ」


 沖田は顎を持ち上げ、爽葉は唇の端を噛む。双方の間を、一縷いちるの風が通り過ぎて行った。


 それは、新たなる起首の兆し。






「遅せえぞ、やっと来たか」


 沖田と爽葉が到着した時には、芹沢を含め、隊士達は既に船へと乗り込んでいた。少々乱れた呼吸と衣服を整えて、二人は身軽に船に飛び乗る。


「どうした」


 何か感じ取ったのだろうか、斎藤が顔を寄せ、小声で訊ねてきた。心のさざなみを眼ざとく察する彼に、ちらりと視線を遣って、爽葉は胡座をかき直した。


「いや、特に。変な奴に遭遇しただけだ」

「変な奴?」

「太筆で描いたような奴と、小筆で書いたような奴」

「どういうことだ」


 疑問符を頭に浮かる斎藤の隣で、爽葉は早速つまみに手を伸ばす。

 船が岸から離れ、川へと漕ぎ出した。すっかり日は暮れ、穏やかに揺れる水面には、軒がひしめく街並みや、橙の色をした灯がぼんやりと映り込む。船がたてた半円の波が、水上に描かれていたを少しずつ掻き消していた。

 斎藤も爽葉も、船縁に肘をつきながら外の風景に視線を移す。船内は早くも大盛り上がりとなり、爽葉もどんちゃん騒ぎに乱入して、楽しく時を過ごした。任務内容に散々文句を言っていたことも忘れ、仕事終わりの酒は格別だとおどけたことさえ抜かしていた。下戸げこの爽葉はすぐに酔っ払い、隣に座る斎藤に絡みにゆく。


「ハジメ、飲んでるかぁ?」

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