第99話 榊木彗
長い夢を見ていたようにも、一瞬だったようにも感じた。
眠っていたことのことは何も覚えていない。あの日は身体の調子が悪かった。少し歩いただけで疲れ、階段を上がるのも億劫に感じるほどだった。それから何かの拍子で胸が苦しくなって……それからは覚えていない。
目を覚ました時、見たことない天井を見て大事になったのだと悟った。全身が異常に重い。起き上がることはできないとすぐにわかった。周囲に目を向け、自分が病室にいることがわかった。窓は少し開いていて、そよ風が吹いていた。
しばらくすると指がうまく動かせるようになってきた。ただ立ち上がることは無理だろうなと思った。顎も違和感しかなかったが徐々に口を開けるようになって声を出せた。
「あー……すっげぇガサガサ」
のどの調子が悪い。俺は「あーあー」と何度ものどの調子を整えるように頭の弱い悲しきモンスターみたいに呻いた。
そんなことをしていたら看護師らしき人が入ってきた。
「あ、おはよーござーます」
俺が挨拶すると幽霊でも見たかのように「ぎゃあ!」と看護師は叫んだ。
疑問を口にする前に看護師は消え、今度は続々と白衣の医師が入ってきて質問攻めにあった。自分自身の名前を言えるか、右と左の認識が正しいか、などなどよくわからない確認もされた。
そして俺は3年眠っていたと告げられた。
「3年って……いや、3年ってホントすか」
あまりにも現実感がなくて冗談なのかと思った。しかし家族が来ると思い知らされた。宇銀が明らかに成長してお姉さんになっている。
「にいぢゃああーん!」
宇銀は叫ぶように泣いて俺にすがりついた。それが俺に強烈な現実感を与えた。
3年経っている。
3年経ってしまっている。高校はどうなった。宇銀は今何をしてるんだ。高校の友人はどうなった。というか俺はなんで眠ってたんだ。頭の中で疑問符が次々ととめどなく出てきて宇銀をあやす余裕などなかった。というか身体が重くてだるい。
それから自分のことを教えられた。
俺は高血圧で倒れ、それから脳にダメージを負って植物状態になっていたと聞かされた。医師は俺が受け答えできることに驚いていた。植物状態から回復した人は大抵会話が上手くできなかったり、簡単な計算ができなくなったり、とにかく知的行動が正常に行えなくなる後遺症が見られるらしい。しかしそれが俺にはなかった。
もう情報量が多すぎて脳がこれ以上受け付けられない。それを悟ったのか、医師は落ち着く時間を作ってくれた。
そこに間髪入れずドアがノックされた。宇銀が返事をし、また別の医者かと思ったらアリナだった。
どう声をかければいいかわからなかった。彼女にとっては3年ぶりで、しかもとてつもなく美しい大人のレディになっていたから年上にしか見えず、言葉遣いに迷った。
「よう、久しぶりだな。地球は無事か?」
いつものように冗談を言うとアリナは大泣きし始めた。
俺はそこで彼女を泣かせてしまっていることに申し訳なさを感じた。ずっと待っていてくれたのだろう。不思議とアリナとの距離は遠くない気がした。なぜだろうか。3年の眠りの中、彼女と夢で会っていたような気もするのだ。何も覚えていないのに彼女の体温を知っている。
宇銀は大学生、アリナは大学3年生、俺は21歳無職。
現状を知れば知るほど不安になった。俺は高校をもちろん卒業しておらず、中退になっていた。身体は大人、頭脳は子どものどうしようもない帰宅部員のできあがりだ。俺は暗くなった病室で1人今後のことを考えた。
家族には多大な迷惑と心配をかけた。入院費のことを考えると申し訳なさに胸が潰れそうになる。自分がこれからどのように生きていけばいいのか、ただ不安だった。
「身体が重い……」
リハビリ生活が始まった。
失った筋力を取り戻すために医師とともに歩く練習を始めた。今までできていたあらゆる運動が苦痛でしかない。自分の痩せ細った身体を見るたびに本当に3年経ってしまったのだと思い知らされ、その3年を取り戻すつもりでリハビリに励んだ。
アリナが俺に会いに来た。
リハビリをからかいにきているのかわからないが、ニコニコしながら椅子に座って俺を観察している。不気味に思えるほど機嫌がいい。3年前のアリナとは大違いの生き生きとした表情を作っていた。時にはアリナが俺を支えてリハビリを手伝ってくれた。情けないわね、とクスクス笑いながら。
「お前、作家になったのか……」
「そう。今度持ってきてあげる。タイトルに関しては聞かないこと」
「スマホで見せてくれよ。俺のスマホはまだ家にあるんだ」
「やだ」
リハビリの休憩中、アリナと会話するタイミングが訪れた。
検査と俺の体調が回復するまでじっくり話す時間が今までなかったから、これがまともにする3年ぶりの会話だ。
「本当に3年経っちまったんだな。最初に宇銀を見た時は誰かと思っちまったよ。親は大して変わってないけど、アリナもさらに大人びていて時間の流れを実感した」
「長かったようであっという間だったわ。でも高校時代はもう遠く感じる。今は1人暮らししているの。広瀬川の近くのアパートで。東北大に近いから歩いて行けるのよ」
「無事に受かってたんだな。流石だ」
「退院できるようになったら私のとこ遊びに来なさいよ。退院祝いしてあげるわ」
「大人のレディの部屋には行けねぇよ。ましてやアリナ様のお部屋とか恐ろしくて近づくだけで気絶しちまう」
「あなただって大人でしょうに。まぁ落ち着いたらね」
アリナは微笑んでお茶を飲んだ。
なぜ彼女はここにいるのだろう。どうしてわざわざ俺に会いに来るのだろうか。
アリナがいることが今でも信じられなかった。彼女は大学3年生だ。男の1人や2人作っていてもおかしくない。こんな美人がいれば放っておかれるわけがないだろう。目覚めたときは混乱していてアリナのことが思い浮かばなかったが、3年経っても俺のことで泣いてくれたことに当初は困惑した。
まさか、あの時の感情が今も残っているというのか。
俺を好きだと言ってくれた、あの夏休み前の感情が、今も。
「何か考え事?」
俺が訊けることではなかった。
「あなたのこと全部思い出したわよ」
「マジか。そういや俺のことは忘れてたんだったな。もう心の調子は大丈夫なのか?」
「おかげさまで。私の問題は全て解決済み。安心して」
「そうか。もう毒舌少女は普通の少女になったんだな。アリナ更生プロジェクトは完全終了か」
「懐かしいわね。当時、本当に楽しかったわ。振り返るとバカバカしいことばっかりだったけれど本当に楽しかった。救われていたわ。今日の放課後は何するんだろうっていつも楽しみにしてた」
「嘘つけ。俺が今日やることを言ったら毎回不機嫌になってたじゃねーか」
「私、ツンデレだから」
「なんだよそのオチ。ツンしかなかったぞ」
「もっと素直だったら色んな事できていたかもね。それが唯一の後悔」
医師がこちらを見ている。そろそろリハビリを再開する合図だろう。
「ほら、立ちなさい。早いとこ身体を取り戻しなさいね」
俺はアリナに支えられながら立ち上がった。ちなみに全力で立ち上がっているからアリナと接触していることに興奮する余裕は一切ない。ただ直立するだけでも額の血管が浮き上がるほど大真面目に力を入れている。
俺は情けない足取りで少しずつ歩いた。
「待ってるから」
アリナは後ろから声をかけた。俺はゆっくりと首を回して彼女を見た。
「来てくれてありがとな。俺にかまわず今日はもう帰っとけ。作家様は考えることいっぱいあるだろうしな」
「違うわ。私は……あの夏の日から、ずっと待ってる」
アリナは手を小さく振って去っていった。
信じられないことばかりだ。アリナは3年経っても俺の答えを待っていた。ずっとあの夏の日から。俺が一生目を覚まさない可能性の方が高かったはずなのに。
頑張ろう。とにかくリハビリを一生懸命やってからだ。家に帰るために。アリナに答えるために。
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