第98話 わたしと彼の物語

 東京は楽しかった。

 サイン会は無事に終わり、その日の夜は鶴のマンションにお邪魔した。宇銀さんと鶴と私の3人でたこ焼きを作って食べた。

 宇銀さんは東京に来て日が浅いため、鶴から土地やオススメのお店などを教わったりその他色々とお世話になっているらしい。鶴は「妹ができて嬉しい」と目を輝かせていた。宇銀さんは理系の道を選び、自分が望んでいた宇宙へ通ずる学道を着実に歩んでいた。

 宇銀さんは受験の段階で東京に行くことを悩んでいた。兄を仙台に置いていくことになるから兄の容態に変化があってもすぐに駆け付けることができない。それについて彼女から相談を受けたことがあり、私は「自分の人生なのだから好きなように選びなさい」とアドバイスした。溺愛する妹が自分のせいで自由に生きられない――それは彗が最も避けたいことだろう。

 彼女は納得し、東京行きを決断した。東京へ発つ日の仙台駅、彼女は「仙台にはアリナさんがいるから安心して東京に行けます」と言い残し、改札を過ぎていった。とんでもない大役を引き受けたような気がしたけれど、私を認めてくれたような気もして嬉しかった。


 夏、21歳になった。

 また歳をとってしまった。昔は1つ歳を取るだけで大変めでたい成長だった。小学生の頃なんて歳が1つ違うだけで大きな差があったのに、大人になると誤差レベルの時間だ。

 大学3年生になると就職活動を本格的に始めている人も増え、資格取得のために猛勉強する人も増え始めた。私はというと特に何もしていなかった。働きたい企業は思いつかないし、やってみたい仕事もなかった。作家業は続けたいと思っている。だから専業作家の道に進めればなぁとアパートの部屋でぼんやり考えていた。

 夏の暑さは嫌いだけれど、夏の美しさは好きだった。

 木々は青々としていて広瀬川の波音は心地よい。空は汚れのない青が広がり、虫たちの合唱は夜の子守歌になった。


「んー……」


 寝っ転がって目を閉じる。新作の構想を練らないといけないのに中々アイデアが浮かばなかった。私の夏休みはずっとこんな感じだ。アイデアを考え、思い浮かばなかったら散歩し、気分転換にカフェに入って人を観察する。

 やっぱり外出しよう。私はそう思い、日焼け止めクリームを腕に塗ってアパートを出た。太陽光が歩道を反射して目が痛くなる。今日は猛暑で予報では気温は29℃まで上がるとのことだった。

 広瀬川の河川敷を歩く。こんな猛暑なのにバーベキューをする家族連れがいた。川が近いから少しはマシなのだろうか。なんにせよ、夏らしい素敵な光景だった。私はこういった情景が大好きなのだ。人間の何気ない営みが言葉にできない感動を私に与えてくれる。

 特に老夫婦の姿が好きだった。カフェに行った時、老夫婦が何かをしゃべるわけでもなく、ただ向かい合ってコーヒーを啜っていた。私はその姿を見て泣きそうになった。なぜだろう。なぜ泣きそうになったのかわからないけれど、私は心揺さぶられる美を目の当たりにしたと感じていた。


 きっと私は人肌恋しいのだろう。

 昔は人間なんて大っ嫌いだった。周りの人間全員が敵だった。1人で本を読むことが一番心落ち着く時間だったのに、今じゃ孤独は心を蝕む毒になった。

 全部、彼のおかげだ。あなたのおかげで私は孤独が嫌いになって、人の肌に触れたいと思うようになった。人の前に立ってサインを書くなんて昔の私なら絶対にやらない。誰かと関わるなんてまっぴらごめんだったから。でもあなたと一緒に過ごすようになって、あなたを好きになって――。

 立ち止まる。スマホが鳴っている。


 榊木宇銀


 私は固まった。

 宇銀さんから突然電話が来ることは滅多にない。基本的にはメッセージでやりとりをするし、他の人もそうだろう。だから急ぎの電話に違いない。

 とても怖い。宇銀さんからの緊急の電話ほど怖いものはこの世にはない。

 私は止まっていた呼吸を焦るように再開し、スマホを耳に添えた。


「……どうしたの?」

「アリナさん!? あの、兄ちゃんが――」


 


 私は走った。

 大人になってから走ることをやめていた。子どもは常に成長する生き物で立ち止まってはいられない。私は子どもの頃に戻ったかのように夏の下を走った。

 途中でタクシーを見つけ、手を大きく振り、乗車した。行き先は総合病院だ。

 私はタクシーの中で記憶を思い返していた。


 彼と出会った。

 テニスをした。

 花を持ってきた。

 美術室でモデルをした。

 二重人格を告白した。

 一緒に文化祭を回った。

 彼を家に招いた。

 彼を好きになった。

 一緒に水族館に行った。

 白奈が彼に告白した。

 みんなで忘年会をした。

 お正月に彼の家に行った。

 父が死んだ。

 彼の記憶を失った。

 彼をまた好きになった。

 彼と体育祭で走った。

 彼をまた失った。

 動かない彼を初めて見た。

 

 それからずっとあなたは私の中で止まっている。

 私はタクシーの中で彼に関する記憶を何度も再生した。いつだってあなたは私を照らしてくれた。私は太陽で本当はあなたを照らす側なのに、闇の中で光を見せてくれたのは美しい尾を引く彗星だった。口の悪い問題児の私を毛嫌いすることなく――いや、嫌いだったのかもしれないけれど――へんてこな冗談を交えて私の胸を温かくしてくれた。

 その日々を一度はすべて忘れてしまったけれど、もう二度とあなたのことは忘れない。

 だから。

 だから、あなたも忘れないで。私も忘れないから。



 病院に入るやいなや、受付の人が私の方に駆け寄ってきた。この3年間何度も足を運んでいたからすっかり顔を覚えられていて、私の本まで買った職員もいるくらいだ。

 呼吸が整わないまま私はひねり出すように口を開いた。


「すみません、面会許可証を――」


 受付の女性職員は慌ただしい様子の私をなだめるように背中をさすった。


「大丈夫です。榊木宇銀さんが代理で手続きしています。どうぞ首にかけてください」

「ありがとうございます」


 私は頭を下げ、エレベーターへと向かった。

 エレベーターが到着し、中に入って5階のボタンを連打した。ぐんと重力がかかってゆっくりと上昇し始めた。数字が1つ、また1つ点灯してズレてゆく。

 5階を知らせる女性アナウンスが流れ、ドアが開いた。一歩踏み出して真っ白な廊下に出て右に曲がる。512号室、513号室、514号室……病室の番号が私のそばを流れる。鼓動が痛いくらい強まって私は胸を押さえながら足早に歩いた。


 520号室。


 何度も訪れた病室にようやく到着した。

 大きく息を吐き、ドアをノックする。宇銀さんの曇った声が聞こえてきた。

 ドアに手をかけ、ゆっくりとスライドする。すべてがスローモーションに感じた。まるでこの時間をじっくり味わえと言わんばかりに。

 彼の父、彼の母、そして宇銀さんの姿が目に入る。そしてベッドには彼がいた。


「よう、久しぶりだな。地球は無事か?」


 あぁ……彗だ。私の知ってる榊木彗だ。

 私は崩れ落ちて信じられないくらい大きな涙を流した。ゆがんだ私の顔は涙と鼻水でそれはそれはひどいもので、好きな人に見せられる顔ではなかったと思う。私はただただ泣き続けた。全身の水分が抜けてしまうんじゃないかってくらいで、聞こえる音はすべて私の嗚咽で満ち満ちていた。

 まるで雨の日のようだった。私の手は濡れ、袖も腿も濡れて実にみっともない雨の中の女だった。私は私でいることを保つことができなかった。


 だってそうでしょう?


 この世で一番愛おしい人と再会できたのだから。

 誰だって自分を保てやしない。毒舌少女の私が無理だったんだから。


 こうしてわたしと彼の物語は再び始まった。

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