第93話 17:05
大学の休暇はとても長く、夏に続いて冬も長かった。
また冬がやってきた。街は緑を脱いだ裸の木々が立ち並び、歩道には落ち葉がカラカラと音を立てて駆けてゆく。
高校を卒業し、大学1年生が始まってからあっという間に冬になっていた。この1年間を振り返ってみると私の日常は平和そのものだった。
人間関係はいたって良好で波風立つようなことはなかった。中学や高校では、みんな学校という空間が世界のすべてのように思えていたのだろう。教室は教員や生徒からの関心に晒されるけれど、社会は自由であると同時に個人に無関心だった。あの嵐のような告白は何だったのだろうとさえ思った。
新年、そしてまた今年も春夏秋冬を繰り返す。
大人になると劇的に世界が変わると思っていた。子どもと大人の境界線ははっきりとしていて、線を超えたら言葉も文化も違う異国に来た気分になれると小さい頃は想像していた。精神年齢も中学生あたりから止まっている気がして――でも容姿は目に見えて変わった。実家にある古い写真の私と今の私は骨格も身長も違っていて、自分自身の成長を感じることができた。
「あなた、びっくりするでしょうね」
もうあなたに何度会いに来たのか覚えていない。
「今年の冬は楽しかったわ。一人暮らし初めての冬でちょっぴり不安だったけれど、友人と一緒にご飯を食べたりして……あと物語を考えてた。1人で暮らすっていいわね。時間がぜんぶ自分のものになるから」
私は日記をめくって春のページを開いた。
「春はね、大学2年生になったわ。もう大学2年生よ? 私も驚いちゃうわ。大学生活も特に問題ないし、単位はしっかり取ってて1つも落としてない。基本的に私って真面目だから。そうそう、あなたの友人の真琴。彼、流歌と別れたそうよ。詳細はわからないけれど、きっと忙しかったのよ」
ページをめくる。特別なことは月に一度あるかないだけ。それが私の日常だった。他の大学生は私と違ってアクティブな人が多いから、日記を書けばさぞ色とりどりな日記になるでしょうね。
私は他愛ない私の日常を話した。彼には聞こえていないことはわかっている。けれど、植物状態でも意識だけが生きている場合があるらしい。一切身体を動かせないのに耳は聞こえている。その地獄の中にもし彼がいたらと考えると私は黙って彼の手を握ることなどできないのだ。
日記は最新ページにたどり着いてしまった。そこから先はまだ白紙で今日の私と明日以降の私が紡いでいく。
「もう大人になってしまったわ。少し前、あなたより先に20歳になっちゃった。時間が止まっているわけではないからあなたも20歳なのだけど……お互い、あとは老いるだけね」
窓から少し湿気を含んだ風が流れてきてカーテンがゆっくり揺れた。またこの季節だ。私は視線を、目を閉じる彼の目元に向ける。
「あなたが眠って2年が経った。あの夏の日から、あなたをずっと待っている。私は大学生になって、20歳になって……宇銀さんなんてもう受験生よ。あなたと同じ年。あっという間の2年……2年経っても、あなたは目覚めないし、私もあなたを思い出せない。なのにあなたのことが恋しくてたまらない。ひどい話よね。神様って本当にいじわるだわ」
腕時計を見る。17時を指していた。
私は彼から手を放してカバンを肩にかけた。
「じゃあ行くわ。また来るわね」
病室のドアに手をかけた時、全身の筋肉が固まった。
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私は図書室にいて、あの日はとても気分が悪かった。私の制服のスカートが誰かによって一部切られていたのだ。何もかもが憎たらしかった。それでも本を憎く感じることはなく、指で本の頭に積もったほこりを落としながら面白そうな本を探していた。
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そこにあなたが現れる。突然話しかけてきて、私の毒舌を治すと言い張る。
放課後、あなたが薔薇園にいる。テニスコートでラケットを振った。気持ちのいい放課後だったのを覚えている。美術部にも行った。部員たちが私を真剣に描き、そしてあなたは私にココアを渡した。あのココアの味も覚えている。あなたが良い人だって気づけた瞬間だったから。
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あなたと回った文化祭、とても楽しかった。ファッションショーのドレス姿を褒めてくれて嬉しかった。あなたには見られたくないような態度を取ったけれど本当は見てほしくって気合いれたんだから。
文化祭をきっかけに付き合った真琴と流歌の水族館デートを追った。あれが私の初デートになった。もっと一緒に街を歩きたかった。
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白奈があなたに告白して、あなたはとっても慌てふためいて。そしたら次はあなたは私のことが好きって言って。みんなと忘年会もしたわね。とても素敵な年だった。来年も素敵で華やかな年になるって思ってた。そうして新年を迎えて、私はあなたの家へ行った。すごく緊張したのよ。大好きな人の家って神聖に思えちゃうの。
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一生懸命あなたのためにチョコを作った。もう1人の私の意思で作ったって言ったのは嘘。私って素直じゃないから、そうでも言わないと渡せなかったの。ごめんなさい。この時に私はあなたに気持ちを伝えていればよかった。もしあなたが周りの男子みたいに私に告白してきたら、私は絶対にあなたを受け入れて付き合っていたわ。
私たちは子どもだった。子どものまま、私はあなたを忘れていた。
母から貰った腕時計に私は釘付けになっていた。腕時計に私の涙が落ちる。私は振り返って、すぐに彗のもとに駆け寄った。
「思い出した。あなたのすべてをやっと思い出せた!」
あとはあなたが戻ってくるだけよ。
あんまり遠くへ行ってしまうからきっと私はあなたを忘れていたのよ。もう安心しなさい。ちゃんと思い出したから私のもとに帰ってきて。
私は再び握った手を放し、今度こそ彼にお別れを告げた。
今日はなんて素敵な日なのだろう。
仙台駅を歩くと彼と歩いた記憶が蘇ってくる。あそこで彼と一緒に信号を待った、あのペデストリアンデッキを一緒に歩いた、あの喫茶店で待ち合わせをした。あらゆる場所の、彼と過ごした記憶たちがわたしの目にあふれ出る。
やっぱりあなたが好き。
記憶を思い出したら違うわたしになるんじゃないかと思って不安だったけれど、わたしは何も変わらなかった。今も昔もわたしはあなたが好きだ。
今日の日記はここまで。
私の日記は死ぬまで続く。
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