第92話 わたしだけの宇宙

「ブックカバーお願いします。袋はいいです」


 もう考えなくとも身体は自動的で迷いなく対応できている。分からないことはないし、夏休み中に入ってきた新しいバイトの子に手取り足取り教えられるにまで至った。

 天職とはこれのことだろう。書店に立ち寄る人間はトラブルを滅多に起こさないし、仕事仲間も素敵な人ばかりだ。新刊を並べるのも楽しかった。可能な限り私はここで働くつもりだ。

 差し出された本は宇宙に関するものだった。有名な宇宙物理学者の本で、私でも耳に入れたことのある名前だった。バーコードをスキャンしてブックカバーをかけ始める。しかし現金がトレイに置かれないものだから私はちらりと顔を一瞥した。


「あ……」

「アリナさん気づくのおそーい」


 宇銀さんだった。制服を着ているから学校帰りだろう。平日だからそうだ。驚くと同時に、ここに知り合いが会いに来たことはなかったから、お客様として敬語で話すか、友人としてフランクに話すかの二択で私の中で内戦が起きた。

 結果、変な感じになってしまった。


「1時間後に抜けられると思います。お待ちください」


 彼女は含み笑いをし、現金を払って去っていった。

 

 1時間後、事務室でスマホを開くと宇銀さんからメッセージが来ていた。2階のスターバックスで待ってる、と。着替えて退勤し、私はエスカレーターで上がってスターバックスに入った。てっきり店の前で待っていると思っていたが彼女はすでに席にいた。私を見つけるなり小さく手を振る。


「待っていてくれたらおごっていたのに」

「いいんですよ。ここに呼んだのは私なんですから私がおごる側ですよ!」

「とりあえず飲み物を買ってくるから待ってて。荷物をお願い」


 レジの前には仕事帰りや学生の列ができていた。私は少し待って冷たいラテを購入し、彼女のもとへと戻った。1時間前に私が対応した本を読んでいた。


「そんな小難しいものを読むのね」

「未知の世界って面白いです。宇宙はほとんどが未知なので最高ですよ」


 彼女は本を閉じ、半分減ったアイスコーヒーを口につけた。私もラテを口に運ぶ。


「今日は驚いちゃったわ。まさか来るとは思ってなくて、突然どうしたの?」

「実を言うと偶然です。アルバイト書店員の話はアリナさんから聞いてましたけど、どこ勤めかは話していなかったじゃないですか。今日は本当にこの本を買いに来ただけで、偶然アリナさんを見つけて勢い余って……現在に至るって感じです」

「そうだったのね。私はもうアパートに帰るだけだから時間あるわよ」

「じゃあ進路相談とかしてもいいですか。来年は高3なので考え始めたんです」


 高校2年生の秋。進路を真剣に考え始めるのは当然だろう。


「宇銀さんは大学受験一択でしょう? 宇宙を学びたいなら就職はまだ先じゃない?」

「やばい。話が終わっちゃう」

「理由もなく会いたくなる気持ちは私にもわかるわ」

「うぎゃー! なんか全部見透かされてるみたいで恥ずかしー!」


 私は半年前まで宇銀さんと接するのが怖かった。彼女は私のせいではないと言ってくれたけれど、どうしても心の片隅では彼女は私を恨んでいるに違いないと思っていた。彼女は賢いからそういう感情を器用に表に出さず、自分の本当の気持ちを悟られないよう隠して私と接しているのだと疑っていた。

 本当は今もそうなのかもしれない。しかし確信はないが、彼女はそう考えていないと最近は自分の彼女に対する考え方が変化した。


「宇銀さんは彼氏とかできた?」

「い、いないですよ! びっくりだなぁ。アリナさんが恋愛話を振ってくるなんて。もちろんアリナさんは兄ちゃんのこと好きなままですよね?」

「今も大好きよ」

「いいなぁ……私もアリナさんみたいに一途な恋してみたいなぁ。一途に想える相手って普通いないじゃないですか」

「どうなんでしょうね。私は他人の恋愛はわからないから、私がおかしいだけかもしれないわよ。恋しないと充実感を得られない時代じゃないのだから焦ることないわ」

「そこが動物と人間との違いですよね。でも人間だからこそ、愛が一番って気づけるんですよ。誰かを愛することが幸せを一番感じられると思うんです」


 彼女は饒舌に自分の恋愛観を語り始めた。なんとまぁ彗とは真逆な思想をお持ちで、私は目玉が落っこちそうになった。これは将来大物になりそうだと思って小さな子供を見るみたいに彼女を見た。


「本当に魔法みたいです。どんなに離れていても、どんなに時代が違っても、愛する気持ちは繋がっている。アリナさんだってそうですよ。兄ちゃんはここから離れているけれど、兄ちゃんの存在はアリナさんの行動に影響を与えてる。1年前の兄ちゃんに心惹かれてる。愛の力です!」

「なんだか私の感情がとてつもなく偉大なものに思えてしまうわね」

「私思うんです。これだけ不思議な力なんだから見えない力みたいなものがあるって。何かを想う気持ちは現実を変える。つまり何を言いたいかって言うと……兄ちゃんのことを好きでいてあげてください」


 彼女は深々と頭を下げた。私は急なことに戸惑って「え」という言葉にもならない音しか出なかった。


「兄ちゃんの妹なのに最近『もうダメかな』って思っちゃうんです。否定しても否定しても、しばらくするとまた考えちゃって……兄ちゃんのいない日常が当たり前になっていることが怖いんです。でもアリナさんは私とは違います。諦めるとか、信じられないとか……そんなんじゃなくて、起きるって確信してる」


 私と宇銀さんの違いは主義の違いなのだろう。

 宇銀さんや彗は現実にある素材から現実的に物事を考える。私は「こうなったらいいな」という根拠もない想像をする。良くいえば前向き、悪くいえば楽観だ。

 私は彼女を励ますつもりで記憶の中から宇宙の話を引き出した。


「宇銀さん、多元宇宙論ってわかる?」

「宇宙は1つじゃなくて複数あるっていう……」

「そう。詳しくはわからないけれど、違う宇宙の、違う可能性の私って感じなのかしら。私はその理論をどこかで知ったとき、私は逆なんじゃないかなって思ったの」

「逆って、宇宙は1つだけ……?」

「いいえ。一人一人に宇宙があるんだと思ったの。私の見てる世界と宇銀さんが見てる世界は、同じ世界にいるように見えて実は違って、もしかしたら宇銀さんの見てる世界では私と出会ってないかもしれない。意識一つにつき一つの宇宙ってイメージ。だから私が死んだらこの宇宙は終わり」

「この世界の中心は自分ってことですか……?」

「そう。宇銀さんはさっき『想う気持ちは現実を変える』って言ったわね。この世界の主人公である私なら、想いは実現するんじゃないかなって私も思うの。だから私は彗が目覚めないだなんて思わない。宇銀さんが諦めるなら、宇銀さんの世界では彗は戻らない。私はそう割り切って生きているから、私の彗は目覚めるって気持ちは絶対に揺るがないの。これは私の宇宙だから」


 私がそう語ると彼女の表情は徐々に柔らかくなっていった。

 

「そうそう、私ね、物語を考えてるの」

「ものがたり……小説ですか?」

「そうよ。少しずつ話を考えててね。多元宇宙論なんて単語も色々と調べていたら見つけたの」

「じゃあ宇宙に関係する話ってことですか?」

「そうね……うん、そうなのかな」

「アリナさんの書く小説気になるー! もうタイトルとか決めてるんですか!?」

「一応は……でも恥ずかしいから言いたくないわ」

「たーいとるっ! たーいとるっ!」


 彼女の熱烈なコールに負け、私は口ごもりながら仮のタイトルを告げた。


「わたしの愛した彗星」

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