第94話 過去と未来
「お母さん、自転車借りるね」
その一言とともに実家を出た。
かごに荷物を入れ、ペダルをこいで自転車を走らせる。風が心地よかった。もう秋に入りかけている。太陽の光はやっと弱まってきて日焼け止めクリームの要らない日が増えた。
しばらく自転車をこぎ続け、道の先が坂になってきた。大きな橋が見えてくる。太白大橋だ。下には幅の広い名取川が流れている。私は橋に差し掛かる前に曲がり、川沿いの道路を少し進んだら斜面を下って河川敷を進んだ。
地面がごつごつとした石だらけの川岸になる前に自転車を止める。近くに東北新幹線が通る橋があるため、ここらは大きな陰になっている。人はあまり寄り付かない。
「重いわね……」
かごから取り出したバッグを両手で持ち、川岸を歩く。足元には蜜柑くらいの大きさの石もあれば人の頭くらいの石もあって一面に転がっている。つまずいて転べば怪我をするから気を付けて歩いた。
茂みから十分に離れたところでバッグを置き、周囲の石を集めてバレーボールが入るくらいの小さな円を作った。
バッグを開ける。中身は17冊のノート。私がかつて二重人格だった期間を記録してきたノートだ。それらを全て取り出し、石の円の中に一冊一冊置いた。
私がノートに記録してきた理由は2つの人格が滞りなく生活を送るためだ。
記憶を共有できないから記録を続けてきたが、バレンタインと父親が死んだあの2月14日を境に、私が忘れていた、知らなかった記憶が自分のものになって、そして私の人格が1つになったことにより記録の必要性がなくなった。だからその日から私はノートに何も記録していない。
処分しなかったのは彗を忘れたからだ。あの2月14日以前の榊木彗を知るためにはノートだけが頼りだった。だから今日までずっと保管していた。彼を思い出すことができなくとも、たしかに私は彼と放課後を過ごしてきたと安心できるから。
私は彗との記憶をすべて思い出した。
このノートはもうお役御免だ。彼との思い出は全部頭の中にある。保管も考えたけれど、私の暗い過去そのものだからいつか呪いに変わりそうだし、もう私には不要で傍に置きたくなかった。
バッグの中からマッチを手に取る。
日本はお焚き上げという文化がある。お守りや人形を燃やして供養する。大切で思い入れの強いものはそう簡単には捨てられないし、罪悪感で手放しにくいから神秘的に燃やすのだ。人も死んだら燃やされる。火は供養もできるし別れる機会を設けてくれる。
マッチを擦る。短い閃光とともに小さな火が付いた。
「これで……私が抱えてた問題は全て解決ね」
積み重ねたノートの端に火を付ける。火はたちまち広がり、黒い焦げが波のようにノートを侵食していった。火は炎となって燃え上がった。私はその炎を大きな石に座ってぼんやりと見つめた。
もう私の中には私だけ。小学生時代のことも思い出した。父のことも、中学1、2年の頃も思い出した。抜け落ちていた記憶も全部思い出し、大切な彗との思い出も思い出した。
燃え盛るノートを見ていると自分の頭の中が整理されていく気がしてなんだか心地よかった。灰が風に乗って飛んでゆく。私が綴ってきた文字は次々と空へ飛んでいった。
あの2月14日。私の人格は1つになった。
あの子は消えてしまった。私は薔薇で、彼女は一面に咲くチューリップ畑そのもののような少女だった。しかし彼女が消えた気がしない。今までノートの上でしか知らなかった彼女が見てきた記憶を、今、私はすべて覚えている。その記憶たちが他人のものには思えないのだ。
しかし今ようやく理解した。これは統合という結末だったのだろう。
彼女と私の人格は統合され、共有できなかったあらゆる情報が共有されるようになった。交代する人格はなくなったわけだ。
しかしさらに深く考えると、今の私は何者なのかという疑問が生まれる。私はあの毒舌薔薇なのか、あの優しさに溢れたアリナなのか、それとも全てを引き継いだ新しい人格なのか。
「私……やっぱり毒舌薔薇ね」
毒舌少女で毒舌薔薇な日羽アリナは、私であると強く感じていた。私は彼女を吸収したのだろう。彼女自身も自分は途中で生まれた人格だと言っていた。それに私は無意識のうちに彼女を他者として語っているのだから、やはり私は毒舌薔薇なのだろう。
17冊のノートは粉になった。灰は石で埋めた。
私にとってこれは儀式のようなものになった。もう過去に縛られることはない。未来を描き、描いた未来に向けて生きるだけだ。
大学2年生の秋。
去年始めた書店員のアルバイトは今も続いている。色々なことを任されるようになって新刊のPOPも何度も作った。就職や未来のことを考えるようになっていたから候補の1つとして書店員の正社員も悪くないと最近考えている。文学部は聞いていた通り、就職先は理系と比べて幅が狭かったから候補は多ければ多いほどいい。
休憩の時間になり事務室に戻る。椅子に座って一息ついてからスマホを開くと知らない電話番号から着信が2件入っていた。あまり人に連絡先を教えていないから折り返すか迷う。しかし1時間以内に2度も来ているから重要なことか、知り合いのどちらかだろう。
かけなおす。相手はすぐに出た。
「—―編集部ですけれども、あの……日羽アリナ様でしょうか?」
「あ、はい! 日羽アリナです」
私は立ち上がって胸を押さえた。
それからは聞き取ることでいっぱいいっぱいだった。今年の冬の終わり頃、とある小説賞に締め切りギリギリで応募した作品が大賞に選ばれたという内容で、本人確認とその大賞を受理するかしないかの電話だった。私はもちろん快諾した。現実感がなく、私はただ胸を押さえながらコクコクと首を小さく縦に振って相手方の言葉に答えた。
通話を終え、骨を抜かれたように椅子に座りこむ。まだ鼓動が早くて胸が痛い。
「こんなことってあるのね……」
鼓動が落ち着いてくると次は頭の方が荒ぶってきた。これから何をすればいいんだろう。顔も出さないといけないのだろうか。それ以前にこれ、夢だったりして。
そんなことを考えていたら喜びの波が遅れて押し寄せてきた。私は座ったまま手足をジタバタさせた。わーっと叫びたくなる口をキツく閉じても、ネズミの鳴き声みたいな声が漏れ出る。
「やばい、時間だわ」
休憩時間がもう終わってしまう。
私は急いで乱れた服を正して事務室から出た。あまりの嬉しさに時々スキップを挟んだり鼻歌を奏でてしまう。自分の口が意思を持ったかのように勝手にモゴモゴと動くから私の顔は気持ち悪いくらいニンマリしているに違いない。
私は自分の未来を描き始めた。
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