第90話 大学生活
慣れてしまえば一人暮らしは気楽なものだった。
最初は怖かった。鍵を閉め忘れて泥棒が入られたらと思うと怖くてドアノブを何度も回して確認し、ガスコンロが爆発すると思って身を引きながら火をつけていた。
アパートは広瀬川と隣接しているから窓を開けると川の流れが聞こえてきて、読書をするにはぴったりの優しい環境音が常にあった。夏は洪水が少し怖いけれど高さ的に問題はないだろう。
4月。
春が来ても仙台はまだ肌寒い。大学へ行く時はしっかり長袖の服を着て歩いた。
橋の下には広瀬川が流れていて、長い釣り竿を持って魚釣りをする人をよく見かける。私は音楽を聞きながら歩く。いつも私は「On the Nature of Daylight」というインスト曲を聞いて歩いている。高校の時からそうだった。この曲を聞くと自分の心が綺麗になっていく気がするのだ。
大学も最初は戸惑ったけれど、これも慣れてしまえば何てことない日常になった。
高校とは違ってとても自由だった。朝早く起きなくていいし、自分の好きな分野だけに集中できた。
私は文学部の中の日本文学を専攻し、日本で生まれた文芸を研究・探求・学んでいくというものだ。私のように本を読むことが好きな人が多く、大学は似たような人が集まるという話は本当だったと私は知った。
高校と同じように私はモテた。
キャンパス内を歩いていると常に視線を感じたし、サークルの勧誘は私の行く手を阻むかのように何度も私の前に現れた。私はやんわりと断り続けた。サークル以外にも大学デビューの男子たちがナンパのような挨拶をしてきたりもして、私はそういう時は「恋人がいる」とぴしゃりと言い放った。そういうと苦笑いをしてみんな去っていく。
ある日、学食で並んでいる時のことだった。
学食は食べたいもの一品一品をお盆に乗せていくタイプで、珍しく、紙パックのトマトジュースが置いてあった。彗の顔が浮かぶ。昼も終わりかけていたから最後の1本で、それを私が手に取ろうとすると背後で「あ」と小さな声が聞こえた。
「譲りましょうか」
私がそう言うと彼女は首を振った。
「ううん、いいよ。日羽さんだよね?」
私の大学での初めての友だち、桜庭千穂との出会いだった。
桜庭千穂は経済学部なのだが、所属するサークルが私の噂で持ちきりだったから私を知っていたらしい。私の背後にいたのは偶然ではなく、話すタイミングを窺っていたと後から聞いた。
千穂はいまどきの女子大生といった感じで、おしゃれに敏感で涼しげなロングスカートをよく穿いている。私はたいしておしゃれをしないし、シンプルな服装ばかりだったから彼女にはお洋服のお店によく連れられる。
「アリナの彼氏は社会人? それともうちの学生?」
仙台駅を見下ろせるレストランで千穂と食事をしていた。
私はいつも恋人がいるといって男からのアプローチを避けていたから、私に彼氏がいるとみんな思い込んでいる。千穂と会って2週間も経っていないから最初は詮索はしてこなかった。しかしそろそろ好奇心を抑えきれなくなってきたのだろう。
「複雑な話になるわ」
「てことは遠距離?」
隠す必要は特にないと思ったから彗のことを話した。彼は眠っていて、私は彼のことが好きで、そして彼からの答えを待っている。私の二重人格や記憶喪失については話さなかった。あまりに暗い話だから私も話したくはない。
「—―という話。だから恋人がいるって話は嘘になっちゃうわね」
「純愛じゃん……」
千穂は目尻にハンカチを当てて涙を吸い取った。
「だからアリナはサークルに入らなかったんだね。男たちうるさいし、特に先輩連中」
「それはまた別の理由。時間がほしいから」
「バイト?」
「バイトはこれから始めるつもり。そういう理由も含まれてるわ」
「なるほどねぇ。なんかサークル誘ってたやつら全員ぶん殴りたくなっちゃった」
どんなアルバイトをするかはまだ決めていなかった。
私は働いたことはなかったし、自分が何に向いているかもわからなかった。ただお金のためだけに働いても長くは続かなそうだから興味のあるものにしようとだけ考えていた。
「千穂はバイトしないの?」
「私はする予定ないかなー。親が過保護でね。仕送りが多くって、学業に集中しろだのなんだの、割と大学って時間あるのにね」
「バイト先で素敵な男と出会うかもしれないわよ」
「バイトでなんか出会いたくないよ。私はアリナみたいにもっと運命的でロマンチックな出会い方がしたいな~」
千穂は両手を組んで妄想に目を閉じた。女の子はそういうものなのだろうか。
私はバイトを探すことにした。
自宅で広瀬川の音を聞きながら仙台駅周辺で募集しているバイトを調べた。大学生ができるバイトはたくさんあって、やっぱり飲食店が一番多かった。家庭訪問のバイトも大学生に人気らしいけれど、まず自分が復習する必要がありそうだから候補から排除した。体力はあまり自信がないからそれ関連もダメ。
選んでいてはダメかなぁと思っていたら書店員のアルバイトを見つけた。私もよく通っている駅近くにある大きな書店だ。これならイメージできるしできそうな気がして早速自分の情報を入力し応募した。
夜、スマホが鳴った。バイトの応募についてだろうと思ったら鶴だった。
「ゴールデンウィークそっちに帰るから!」
今週からゴールデンウィークだということを忘れていた。県外に出た人たちはゴールデンウィークが最初の帰省チャンスなのだろう。
「今のところいつでも会えると思う。バイトの応募に通ったらわからなくなるけれど」
「バイト!? アリナって何するの!?」
「書店員」
「めっちゃ納得した。うん、アリナが本抱えて歩いてるのすっごく想像できる」
「そういうことだから臨機応変とはいかないかもしれないわよ」
「私が合わせるから気にしないで! なんもすることないから無理な日は遠慮なく言ってね」
積もる話は会ってから。鶴はそう言って通話を切った。
1ヵ月で鶴はどうなっただろう。私は何も変わっていないけれど、鶴ならがらっと化けていそう。元々派手なおしゃれが好きな子だったからタガが外れてとんでもないことになっているのかも。
アルバイトは翌日メールで連絡があり、面接をすることになった。
面接はあちらとこちらの都合でゴールデンウィーク初日で決まった。特に変わり映えしない日々が続いた。大学に行き、講義を受け、学食で昼食を摂り、キャンパス内を歩いた。涼しげなベンチを見つけたらそこに座って本を読む。この緩やかな時間が好きだった。
そうしてゴールデンウィークを迎え、私は面接をしに書店に足を運んだ。
高校の時から立ち寄っている書店だから緊張はなかった。書店員に「今日アルバイトの面接があるのですが……」と伝え、事務室に案内される。
店長は女性で、面接は簡潔に終わった。なぜ応募したのか、なぜここなのか、大学では何をしているか、そういったありきたりな質問をされ、それが終わると書類を渡された。
「日羽さんの都合のいい時間帯って何時ごろかな?」
どうやら受かったらしい。私は講義が重なりにくい夕方の時間帯を指定した。
契約書や自分の経歴を書き、シフトの話をちょっとしたらあっさり終わった。あとは少し世間話。本当に他愛ない会話をして書店を出た。
なんだかうまくやっていけそうな気がする。私は時々ステップして自宅まで歩いて帰った。
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