第89話 卒業
東北大の合否がネット上で発表され、私は合格だった。
それからは少々忙しくなった。キャンパスは仙台駅からそう離れていない場所にあるから実家暮らしでいいのに、母は一人暮らしするよう私に言った。その方が楽しいし自立は早ければ早いほど社会に出たときにごたつかない、と母は自分の学生時代を思い出しながら語った。
母と賃貸物件を探し、広瀬川を眺められるアパートに決まった。内見、審査、手続きを含めて2週間かかった。
「仕送りもするけれど多少は自分で働いて生活しなさい。その方がアリナのためになるわ。蓄えはあるから安心しなさいね」
私より母の方が楽しそうだった。まるで10代、20代の若さを取り戻したかのように、街を歩く母の足取りはハキハキとしていた。
当の私は少し不安だった。知り合いは誰もいないし、小中高と違って教室のようなものがないと聞いているから交友を広げられる自信がなかった。
「サークルとかは考えてる?」
外食中、母はそう話を振った。
「ううん。やりたいことあるから」
「あらそう。お母さんが学生だった時はね――」
また母の思い出話が始まった。もう何度も聞いた話だ。母は仙台で育ち、就職で上京し、そして仙台に戻ってきた。仙台出身者は結局戻ってくる傾向にあるとも母に聞かされ、鶴もいつか戻ってくるのだろうかと考えた。
私は土地にこだわりはなかった。知ってる誰かがそこにいればいいなという小さな願望ぐらいしか私にはない。仙台には白奈も真琴も流歌もいる。十分だった。けれど大学で友人ができるかが肝心。私は能動的に関係を築けないタイプで、高校の友人もすべて彗を経由していた。
「お母さんって高校の時の友だちとは今でも会ったりするの?」
「アリナが生まれる前は会っていたけれど、もう随分と会ってないわねぇ。そんなものよ。子どもが生まれたら会う暇はなくなるし、子どもが最優先。お互いに遠慮しちゃってそのまま疎遠になっちゃう」
「そっかぁ……」
「でもアリナの時代は違うと思うわ。お母さんが学生だった頃はみんな固定電話だった。一度家を出たらもう連絡が取れない時代よ」
「緊急の連絡も受け取れないのね」
「そう。家を出ちゃえばみんなオフライン。誰も下を向かずに前を向いて歩いていた。携帯のことね。固定電話から携帯に移り変わっていくタイミングで昔の友だちの連絡先はわからなくなっちゃった。でもお母さんは雑誌とかメディアに出ていたからそれを見た人が連絡を取ってくれたりもあったわ」
「昔と今って全然違うんだね」
学校は卒業の雰囲気が漂い、教室から私物が日を追うごとに消えていった。
そして日を追うごとに私に告白する男子が増えた。私が卒業してしまうから最後にと後輩が近づいてきて、同級生も最後だからと記念受験みたいに告白してきた。私の身にもなってほしい。知らない男から好意をぶつけられても気味が悪いし恐怖を感じる。私は適当にあしらって、それでもしつこい時は「彗のことが好きだから」と最強の切り札を出した。
卒業まで指折り数えられる日になると卒業式の予行練習が続いた。高校生活はもう終わり。授業もしないのに学校に来ると幕引きが近いとしみじみ感じる。
ある日、卒業アルバムがくばられた。
私たちの3年間がつまった思い出だ。日常の写真、修学旅行、体育祭、文化祭。色々な写真がぎっしりと詰まっていた。私は高2の時の写真にちらほら写っていた。だいたい彗と一緒に映っていた。どこで撮られたのかわからないけれど、私と彗は文化祭と体育祭の中にいた。目を開けているあなたを見たのは久しぶりだった。お互い、自分のことを写真に収めるタイプの人間じゃないから。
卒業アルバムの最後の方は卒業生の顔写真。やっぱり彗は載っていなかった。仕方ないとはわかっていても、私はとてもとても悲しくて、教員に抗議したくなった。
彗、私たちはもう卒業してしまったわ。
もう高校生じゃないの。卒業式は変哲のない普通の卒業式だった。卒業生の名前を入学式の時みたいに教員が呼んで、私たちは席を立って返事をした。お偉い方が祝辞を述べ、一人一人壇上に上がって卒業証書を受け取った。
その後は涙のお別れ。教室の女子は泣いてる子ばかりで泣いていない私は浮いていた。鶴なんてびしょびしょに泣いてて私の制服までも濡れちゃうんじゃないかってくらい抱きしめられた。私も寂しかったし、もう制服を着ないことにも寂しさを覚えた。
いっぱい写真を撮って、いっぱい記録を残した。私は写真が苦手だからあんまり撮らなかったけれど、あなたは見たいかなと思って撮ってみたわ。目を覚ました時に訊きたいこと全部お話ししてあげる。
最後、学校から出る前にあの教室に行ったわ。
あなたと過ごした元職員室、薔薇園。ごめんなさい、私はまだあなたことを思い出せていない。卒業アルバムに映ってた私とあなたの写真は直近のものしか覚えてない。
あなたはあそこで私を変えようとしてくれた。放課後に残っておかしなことをして、私の毒舌が解毒されるよう真面目に接してくれた。
「私は変わったわ」
ここは寂しい。あなたの心電図の音しか聞こえないもの。
鐘の音も聞こえなければ、誰かの話し声も聞こえてきやしない。清潔感のある真っ白な病室で、まるで童話の「眠れる森の美女」みたいにあなたは平穏の中で眠っている。
どんな夢を見ているのだろうと時々考える。
またいつもみたいに冗談を言って誰かを笑わしているのかしら。
そうだとあなたらしくて安心する。
だからね、だからね、と私は心の中で何度も繰り返し、あなたの耳にこう届ける。
「早く、起きなさいよ……」
どれだけ涙を流してもあなたは目を覚ましてくれない。
私はあなたと一緒に卒業したかった。あなたと一緒に卒業式で泣きたかった。
「痩せたわね。こんなんじゃ最強の帰宅部員って名乗れないわよ」
メモ帳に私の名前、一人暮らしするアパートの住所、電話番号を書いた。それをちぎって花瓶を重しにして机に置いた。この花はプリザーブドフラワー。彗も見たことのある花だ。
「起きたら連絡して。私が料理を作ってあげるから痩せた分を取り戻しなさい」
私は席を立ち、病室のドアに手をかけた。
あ、忘れてた。
彗のもとに戻って手帳から写真を取り出した。
「卒業式の時の。私の最後の制服姿よ」
私と母が卒業式の看板前で撮った写真だ。それもメモ帳と一緒に花瓶の下に置いた。
「じゃあね。また会いに来るわ」
病室を出て壁の白い廊下を歩く。看護師の何人かに顔を覚えられているから会釈を何度かする。私のことは「恋人を待ち続ける女子高生」ってことになっていて、病院の中では話が広まっているらしい。ロマンスを感じるそうだ。
彗のいない世界が日常になっていた。
それでも街であなたに似た背中を見つけるとドキッとする。この前だって顔を確認するために追いかけそうになってしまった。
私のアパートにはもう暮らせるだけの家電が揃い、日用品や布団もそろった。趣味のものは本くらいだったから壁には本棚が並んだ。もう今日からでも新生活を始められる。
一人暮らしを始める前夜、母からプレゼントをもらった。
「これなに? 開けていい?」
母は黙ってうなずいた。
肌触りの良い紙質の小さな箱の中には腕時計が入っていた。盤は黒く、縁は銀。ガラスは綺麗に磨かれていて針がすーっと動いていた。
「お母さんが昔使っていた機械式時計。時計は美しくていいわ。耳に近づけてみると心地いい音もする。チッチッチ、じゃなくて細かい機械の音がするの。大切にすれば一生使えるものだからその時計と一緒に時を刻みなさい」
私は左手に通して時計を見つめた。美しかった。惚れ惚れするほどに美しい時計だった。
「お母さん、私を育ててくれてありがとう」
「どういたしまして。お母さんも立派な娘になってくれて嬉しいわ」
「明日からは自由に生きてね。ほら、昔の友だちと連絡でも取ってみたら?」
「そうね。そうしてみるわ」
私の高校生活は終わり、大学生活がこれから始まる。もう毒舌少女はいない。薔薇のような棘もない。
私は日羽アリナ、大学生。今年で19歳だ。
新しい生活を想像しながら私は目を閉じた。
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