第84話 あなたのための人生
彼の容態を訊くことはできなかった。
私なんかより彗のご両親や宇銀さんの方が辛い思いをしている。他人の私が訊けるはずもなかった。
鶴から彗についての連絡をもらって以降、私の心境は
彗はきっと無事。今回だって彼の盛大な冗談に決まっている。常にポジティブで活発な彼が倒れるわけがない。しかしこれは沈んでゆく気持ちを無理に引き揚げるようなもので、暗闇が私の両足を掴んで離さなかった。
私の思考は絶望に支配されつつあった。
彗と二度と言葉を交わすことができない。
二度と彼の冗談を訊けない。
彼の答えを永遠に聞くことができない。
ベッドの上で枕を抱きしめ、部屋の隅をただじっと見つめながら絶望と戦っていた。
私のせいだ。
私は彼に暴力を頻繁にふるっていたとノートで知っていてたし、鶴や白奈からもその話を聞いていた。その蓄積されたダメージが彼の意識を奪ったのだろうと自責の念がこみあげる。
私は最低な女だ。父親から暴力を受け、暴力が大嫌いなはずなのに彼を傷つけてきた。そう、きっと私が原因なのだろう。
心の整理もつかず、勉強にも集中できない日々が1週間続いた。
ベッドで横たわって窓の空をじっと凝視していた。月が浮かんでいる。蝉の鳴き声が聞こえる。私は目をつむって縮こまった。もう何も感覚したくなかった。考えれば考えるほど自分が嫌になる。
スマホが鳴る。
私は素早くスマホを手に取り、画面を確認する。
榊木宇銀
耳に当てた。
「アリナさん?」
「えぇ、私……」
宇銀さんの声は感情の見えないフラットな声だった。だから怖かった。これから彗を絡めて私を責めるのだろうと思ったからだ。
しかしそうではなかった。
「会える日、ありますか」
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
レールの繋ぎ目を通過する音が鳴り続ける。地下に入ると窓に私の顔が反射した。憂鬱な顔だった。きっと彗が見たら笑ってこばかにするけれど、とても笑顔になんてなれない気分だった。
仙台駅に到着し、長いエスカレーターを上がって中央改札口に出る。
久しぶりに外に出ても仙台駅は仙台駅のままだった。当然だった。数週間で変わるわけもない。私にはその無変化が気に食わなかった。だって、私の大切な人がいないのに世界は無関心で身勝手に時間を進めて、不愉快極まりなかった。頭では理不尽な考えだと理解していても納得とまではいかない。
仙台駅から少し南を歩く。高校と似たルートだけれど行く先は違う。
総合病院。
待合室に座って院内を眺める。彼の姿を探す。いるはずもないのに。
それから30分経って宇銀さんが現れた。私が早く来すぎてしまったのだ。
「アリナさんの面会証も持ってきました。首からかけてください」
軽いあいさつの後、宇銀さんの案内で病院を歩いた。
「もう少し早くアリナさんにも連絡しようとしたんですが……難しくて。遅くなってすみません」
「大丈夫。私のことは気にしなくていいの」
「アリナさんこそ大丈夫なんですか」
「え」
心配をされたことに驚いて彼女の顔を見る。
「アリナさんは兄ちゃんのこと好きなんですよね?」
「そ、それは……」
「私も女だからわかりますよ。兄ちゃんのことを好きになってくれてありがとうございます。あんな兄でも誰かに好かれるんだって安心しました」
私はどう答えればいいのかわからなかった。
エレベーターの中に入り、ドアを閉じる。宇銀さんは5階を押した。
「兄ちゃんが倒れたのは高血圧による心肺停止が原因で、植物状態は心肺停止による低酸素脳症が原因です。大脳は動いていませんが脳幹などは動いているらしいので呼吸はしています。ただ……意識はなくて目覚めるかはわかりません。今回も冗談だったらよかったんですけど」
「その……彗は、私が……」
「なんですか?」
「彗が倒れたのは、私が彼を散々叩いてきたからじゃ……」
私がそう言うと宇銀さんは私の袖をつかんだ。
「違いますよ! アリナさんのせいじゃないですって!」
「私は、彗をたくさん――」
「よく考えてください! アリナさんが全力で殴っても兄ちゃんには効きません。兄ちゃんってかなり頑丈ですし、痛がったとしても全部演技ですよ。いっつもオーバーなリアクションをして冗談めかすのが兄ちゃんの性格です」
「でも顔だってビンタしたことも……」
「絶対1ダメージも食らってません。痛いとか死にそうとか言ってたかもしれないですけど、全部兄ちゃんのウケ狙いです。アリナさんのことを怪力扱いしてたのも全部嘘で冗談でウケ狙いです。バカなんですよ。アリナさんのことをまだ話でしか知らなかったときはどんなメスゴリラなんだろうと思ってましたけど、初めて高校で会った時、理解しました。また兄ちゃんの冗談なんだなって」
それを聞いて目に涙がにじんだ。
「兄ちゃんは最強の帰宅部員ですよ? 人間の攻撃ごときで倒れませんって」
病室に行く前に医師に宇銀さんが説明し、面会の許可を得た。
そして病室の前で足が止まった。
榊木彗
病室前のネームプレートに彼の名前が書かれていた。
私がそれに釘付けになっていると宇銀さんはドアを開けた。彼女が病室に入り、背中がわずかに遠のく。
私はおそるおそる病室に足を入れるとすぐ窓際の彼が目に入った。
「彗……?」
彼はただ眠っているようにしか見えなかった。表情はとても穏やかで苦痛を感じさせる要素は何一つなかった。患者衣を着ていて、わずかに胸を上下させて呼吸をしている。彼は生きている。けれど、彼の生命を監視する医療機器やチューブの存在が私を夢から覚まさせる。これは冗談じゃないんだって。
彼の傍にある丸椅子に座って彼をまじまじと見つめた。
「彗」
彼の名前を呼ぶ。
「兄ちゃんが目覚めるか目覚めないかは兄ちゃん次第です。植物状態は脳死とは違って望みがあります。脳幹が生きているから自発呼吸が続いている。でも、脳幹も小脳も突然動かなくなってしまったら終わりです。このまま一生目覚めないこともありえます」
宇銀さんは淡々と述べた。私はそれが恐ろしかった。実の兄が死ぬかもしれないというのにそこまで冷静でいられるのだろうか。他人の私でさえこうなのに。
「アリナさん。私は兄ちゃんのことは諦めた方がいいと思います」
その気が一切なかった私は反射的に訊き返した。
「どうして?」
「現実的に考えて、兄ちゃんが目覚める可能性は低いです。もう1週間以上経過していますが目を開くこともありません。兄ちゃんならきっとこう言います。男なんて世界に何十億といるから忘れろ、って」
「私は奇跡を信じる。諦めないわ」
「たとえ目覚めたとしても後遺症でまともに会話すらできないかもしれないんですよ。私たちを正しく認識できるかもわかりません。以前の兄ちゃんじゃなくなってるかもしれないんですよ」
宇銀さんは彗に似ていた。
彗は理想を語るような夢心地な考えをあまりしない人だった。現実という情報のみで物事を考え、そこにファンタジーは含まれない。私はどちらかといえば理想を描いて夢想にふけるタイプで逆だ。
けれど、理想は現実を変えてゆく原動力になると私は信じている。
「私は――彗が大好きなの」
宇銀さんに視線を移す。彼女は驚いたように目を大きく開いた。
「宇銀さんが私の人生のために言ってくれているのはわかっている。けれど、私の人生には彼が必要なの」
「……一時的な気の迷いではないんですね」
「もちろん。それに彼からの答えを待っているの。その答えを聞くためにも私は待ち続けるわ」
宇銀さんは静かに涙を流し、苦しそうに微笑んだ。
「兄ちゃんの前では……もう泣かないって決めてたのに……」
私は絶対に諦めない。
彗は目を覚ますと信じてる。だって彼は最強の帰宅部員。帰ってこないはずがないのだ。
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