第83話 わたしの物語

「暑いなぁ……」


 椅子の背にもたれ、ぐっと背を伸ばす。くぅーっと唸りながら目を開けるといつのまにか窓の空には大きな入道雲が遠くから私を見下ろしていた。あまりの巨大さに心を奪われ、輪郭をなぞるように見つめる。


 何してるんだろう。


 机のスマホをチラッと見る。タイミング良く鳴るわけがないとわかっていてもついつい期待してしまう。

 シャーペンを手にとって勉強を再開する。妥協なんて受験にはない。自分の気の緩みにライバルたちはつけこんでくるんだと思って頑張らないとすぐ追い抜かれちゃう。

 

 夏休みの予定は特になかったため、とりあえず規則正しい生活を意識すると決めた。同時刻に起床し、同時刻に就寝する。勉強と休憩をどちらも長くなりすぎないよう気をつけながら繰り返し、気分転換に散歩したり音楽を聴く。

 一日中頭がクラクラするほど勉強したらた3日で限界が来てしまうからそんな緩すぎずキツすぎずの生活を続けている。


「調子は大丈夫?」

「うん。このまま学力は維持し続ければ大丈夫だと思う」

「いいえ、体調の方よ」


 リビングでアイスを舐めている時に母が心配そうに声をかけて来た。


「いたって快調だから心配しないで。平気だから」

「そう、よかった。受験に関しては信用してるから何も言わないわ。アリナなら大丈夫よ」

「ありがとう。がんばらなきゃ!」


 第1志望に受かれば恩返しになるだろうか。ずっと迷惑をかけて心配させてきた母に喜んでもらえたら私はそれで満足だった。

 彗と同じ大学には行かないだろう。それは絶対だと思う。学部は全然違うし、学力も同等じゃない。離れ離れになるのは確定している。

 そんな想像できた未来と初めて味わった強い感情に翻弄されて、あの時、私らしくないことを口走ってしまった。思い出すだけで顔が焼けるくらい熱くなる。

 彼の困惑した顔が目に焼き付いて離れない。好き、と伝えて彼があそこまで混乱するとは思っていなかったから。


 もし。


 もし、肯定的な言葉をもらったら。

 そしたらどうする? 

 私たちはどうなる?

 自分でも分かりきっていることを自問自答してて馬鹿らしくなった。


 私は彼から離れたくないんだ。


 教室という箱から卒業して、自由に羽ばたけるようになって、私の知らないところへ彼が飛んでゆくのが寂しくて苦しい。つながりがほしかった。私と彼が大学生になっても交流を続けられる繋がりが。

 卑怯だと思う。だって彼を縛るようなものだから。

 でも人生で一度きりしか巡ってこないことが目の前にあったら、大胆になってもいいと思う。それが私に訪れたのだと確信を持って言えた。






「いつにするー?」

「私はいつでもいいわ。特に予定は入っていないから」

「あれれ、彗とデートしないの?」

「しっ、しないわよ! デートだなんてっ……!」

「でも放課後2人っきりでお茶したって言ってたじゃーん?」

「あれは、そのっ、成り行きというか……」

「ふぅん? なんかヤラシ〜」

「わ、話題を戻しましょう!」


 鶴からの電話で、前から話していた勉強会についてだった。


「じゃあアリナはいつでもいいってことでいいのね?」

「ええ」

「場所はどうする?」

「場所? 家とかかしら」

「じゃあ彗の家でけってーい!」

「無理無理! 無理だから!」

「なんでなんでー?」

「……する」

「はーい先生は聞こえませーん」

「……緊張、するからっ!」

「ぎゃわいぃ〜! アリナ可愛くなったねぇ〜!!」


 あぁ、もうやだ……。

 緊張して勉強に集中できないから絶対却下だ。正月に私は彼の家に行ったそうなのだが覚えていないから尚更無理がある。それに宇銀ちゃんともまだ接し方がよくからないのにお邪魔したら違和感を覚えられてしまうかもしれない。


「じゃあ私が考えとくからお楽しみってことでいい?」

「それでいいけれど、彼の家はダメよ。絶対ダメよ」

「あいあいわかったわかった。じゃまたね〜」


 もし彼の家になったら鎮静剤を買うことにしよう。多分冷静ではいられなくなる。もし恥ある行動をしてしまったら鶴に殺してもらう。せめて綺麗なままで死にたい。

 後ろ髪をまとめてうなじの風通しを良くし、気合いを入れる。


「がんばらなきゃ!」


 うーんと背伸びをして再び机に向かった。




 それから2日後。

 今日も少し動いただけですぐ汗が出るほどの猛暑だった。仙台は東北だけど夏は普通に暑い。全国の天気予報では仙台より南はもっと気温が高くて、どうやって過ごしているのだろうと思ってしまう。蝉たちもこの猛暑の中でよく元気に鳴けるものだと感心した。こんな猛暑日に歌ったら私は倒れる。

 冷房がしっかり効いているリビングに逃げ込んで、再放送の心霊番組を私は観ていた。幽霊なんて信じていないけれど。でもこういったファンタジーは好きだった。彗は現実的だから否定するだろうけど、私は現実的でない空想を描くのが好きだった。読書の影響かもしれない。彼との考え方は基本的に真逆なのだ。


 しばらくゾクゾクしながら観ているとスマホが鳴った。鶴からの電話だった。


「どうしたの?」

「アリナ? あのね、落ち着いて聞いてね。さっき宇銀ちゃんに電話したら――」


 彼女が何といったかはっきり覚えている。

 まるで鐘が鳴っているかのように私の頭の中で何度も響いた。そして電話が切れて私が何をしようとしたかも覚えている。けれど私は何もできなかった。

 失われる。

 ぜんぶ、音を立てて、崩れちゃう。

 膝をついて床に手をつく。恐ろしい絶望が胸に風穴を開け、私は立てなくなった。


 いかなきゃ――。


 そう、彼の元に。彼のそばに。

 けれどドアは遠い。鼓動で視界がぶれる。激しい呼吸だった。

 どうして世界はこうもいじわるなのだろう。

 私が、彼が、何か罰を受けるようなことをしただろうか。私はただ彼のそばにいたいだけなのに。どうしてそれを誰も許してくれないの。どうして私は彼を思い出せないの。どうして私たちは歩み寄れないの──。


 あなたが近づけば私はあなたを傷つけ、私が手を伸ばすとあなたは去ってしまう。


「彗が倒れて、意識が──」


 鶴の声は嘘じゃなかった。本当のことを言っているんだとわかったけれど嘘だと言い返したかった。

 ざっくり胸をえぐられるような痛みがこみ上げ、私は嗚咽を抑えきれず泣いた。とても惨めに。口を押さえても嗚咽のたびに空気と声が漏れ出てしまう。

 

 もし、死んでしまったら――。


 絶対に考えてはならないことを――二度と彼の声を聞けないかもしれないとも考えてしまった。

 彼の答えをまだ聞いていないのに。


 私の物語は悲劇に満ちている。

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