第62話 2月14日
「できた……!」
試行錯誤とまではいかないけれどカタチになった。
市販の板チョコを溶かしてそれを原料にネットの情報頼りでしっとりとしたチョコを作った。元々お菓子作りをしない私にとってはいい勉強になった。
これをあいつに渡すことになる。
初めての試みだったから不安だらけだった。男子はよく手作りに弱いと聞くからきっと大丈夫だろう。あいつは特殊なやつだけど、普通の感覚は少しくらい残っているはず。
もちろん私が誰かにチョコを渡したという記憶はない。
ギリギリ記憶のある中学3年生でも私は誰かのために作り、渡したことはない。それ以前は言うまでも無く記憶の全てが無い。もう1人の私のお人好しな性格を鑑みれば、1人や2人渡していそうなのだが、そのような記録は私のノートには記載されていなかったので、きっと渡していないのだろう。
私は関わりのあるクラスメイトは男子も女子もずっといなかった。名前は大体覚えていたけれど、それだけ。
もしかしたら初めてチョコを渡すことになる。正直言うと緊張していた。
教室に到着して持ち物を整理していると早速女子たちの囁き声が聞こえてきた。
『ねぇ、誰に渡す?』
『えーっとね〜』
『もう渡したよ〜!』
『来た来た!』
各々用意してきているらしい。
自惚れていると思われてしまうけれど私はとてもモテる。滅茶苦茶にモテる。だから去年は本当に疲れた。男子たちが妙に私と距離が近いのだ。存在をアピールしたいがための行動なのかはわからない。とにかく私の気を引こうと彼らは必死だった。今年もそうなるのかなと思うと憂鬱で仕方がなかった。
渡す時は何気なく、ごく自然に手渡すのがベストだと思う。余計なことを口走ったら内容によっては私は羞恥心で悶え、勢いで彼を殺してしまうかもしれない。そうなっては元も子もないのでやはり無言か、必要最低限の「あげる」くらいに抑えておこうと思った。
問題はタイミングだ。
人の目があるところで私が彗に渡してしまったらきっと彼に危害を加えようとする男子が現れると思う。ついつい彼を刺したり殴ったりしてしまう癖がある私が言えたことではないが、彼に迷惑をかけたくないのは本心だ。
どうしようと頭を悩ませながらトイレに向かう途中、彗が廊下の掲示物を睨んでいた。その掲示物は実におぞましいもので、新聞部の部長が手に持ったチョコを突き出すポーズに「お前にオレのチョコをやる」という意味の英文が添えられた、有名な米陸軍の募集ポスターを連想させるものだった。
それをまじまじと彗が見ているので、これが俗に言う『びーえる』というジャンルかと思った。
そっと近寄って隣に立ち、そのポスターを私も見る。
(あら、これ単なる新聞部募集のポスターじゃない)
右下にその旨が書かれていた。
「あいつ男が好きだったの?」
話を切り出す言葉が見つからなかった。
ここからどうチョコの話に持っていこうかしら。
「単なる部員募集が目的だから気にしないでやってくれ」
そんなこと知ってるわよ。あんたらしくない平凡な返しね。
彼の顔を一瞥する。顔色は至って普通だった。
ここからチョコの話をしないと。
でも自然な流れで渡すにはどう言ったら。ああ、もうわからないわ。でもここで渡したところで他の男子に見られでもしたら――既に私たちのことを監視してる男子がいる。死ね。
ダメ、タイミングがない。下手に渡したらきっと彼は男子たちに蹂躙されてしまう。もうっ、チョコなんてそこらに転がっているでしょう!? あんたらなんか石ころでも舐めてればいいのよ!
「そ」
もうこれしか言えない。
耐えきれなくなって私は教室へと逃げた。
席に着くとどこからともなく香水臭い男子が私に近づいてきた。
「アリナさん、あいつには渡さないのかな?」
男子高校生が紳士的に振舞ってみても安っぽいだけ。人生経験の乏しい空っぽの肉塊。私はそんな姿に失笑しそうになった。
そんなやつに労を費やすほど私は寛大ではないので当然無視した。無視すればハエみたいに大抵の男子は諦めて飛んでいくから。
案の定すぐに私から離れていった。どっかいけ。香水臭いのよ、あんたたち。下水道の中を泳いで中和してきなさい。
やっぱり渡さなきゃ。せっかく作ったんだし。
馬鹿みたいな嘘をついてチョコ作りの口実を整えたのだからちゃんと渡さないと犠牲となったもう1人の私に申し訳ない。
何かの拍子で入れ替わって、もう1人が彗と話をしたときが危険だ。絶対あいつなら感謝の言葉の1つくらい言うだろうから、そこでもう1人が首を傾げたら終わりだ。恥ずかしくて死んじゃう。
ノートに書いておこう。合わせて、って。
再びトイレ休憩。
渡すタイミングを伝えるためにあえて私は廊下をうろついた。うるさい男子たちが私にチョコを求めてくるので中指を立てて応戦しつつ、彗がいるか注意したけれど彼は現れない。これ以上廊下に出るとまた香水臭い男子たちが私を囲うだろうから止む無く教室に戻る。
次のトイレ休憩でも同じように徘徊した。でも彼は現れなかった。なので彼の教室をちらっと覗いた。
彗は机で無心になっていた。思わず私は「えっ」と声が漏れる。
浅く腰掛け、背筋を伸ばし、視線を水平に保って黒板を凝視している。模範的と言えば模範的な座り方だった。けれど彼はその体勢から動かない。まるで狼に睨まれた羊のようだった。
4時限目が始まる前のトイレ休憩でも一応見に行った。やっぱり彼は同じ体勢だった。授業中もそうだったのだろうか。一体何と戦っているのだろう。私には皆目見当もつかなかった。
お昼休みになり、白奈とお弁当を広げた。食べているうちに香水の匂いはどんどん強くなっていった。他クラスからハエたちが寄ってきているようだ。
「アリナさん、凄いね……」
白奈は引き気味で呟いた。
「去年より酷いわ。ごめんなさいね」
「みんなアリナさんから貰いたいんだよ。でもあれじゃ女の子は渡したくなるわけないよ……」
「そうね」
食事中くらい消え失せてほしいものだった。
私はハエをどこかに飛ばすため、どこかへ行こうと教室を出た。すると廊下に重症を負った兵士みたいに壁に寄りかかりながら歩く彗がいた。私と目が合う。もしかしたら今が渡すタイミングなのかもしれない。
「今はダメだッ!」
「は?」
なんなのこいつ。私の心境を知らないくせにムカつくわね。
彗はそのまま「うぉぉ……」と呻きながら歩きていった。
適当に校内をフラフラ歩いて男たちを分散させた後、教室に戻った。
「彗にチョコあげないの?」
急に白奈からそう言われて喉が詰まりそうになった。
「わ、渡さないわよ」
「えー渡してあげればいいのに。絶対喜ぶよ。あんなんだけど、意外と素直に喜んでくれるよ」
「そういう関係じゃないもの、私たち。たとえ渡しても怪しがられるわ」
白奈は不満そうに「でもー」と私を説得しようとした。白奈には本当のことを言ってもいいのだけれど、この空間ではとても言えなかった。
しばらくすると白奈が箸を置いて鞄を漁り始めた。何かと思えば可愛い模様の小さな紙袋を2つ、ドアにいた彗と鷹取真琴に渡しに行った。
この機会に渡しに行けばいいのでは?
そう脳裏に過ぎったけれどすぐに否定した。人に見られてはいけない。
昼休みはあっという間に過ぎていった。
内心、私は焦り始めていた。本当に渡せないかもしれない。渡したいけれど他の男子たちの視線から逃れるのは無理そうだった。腹立つ!
メッセージでも送ろうかと思った。でもあいつのことだから誰かに言いふらしそうだし、何よりも恥ずかしい!
時間は残酷にも水のように流れていき、私は何も出来ず放課後を迎えてしまった。放課後に彼と会う約束はない。彼は帰宅部らしくすぐ帰るだろう。そうしたらもう終わりだ。
帰る?
それなら私が先に校門に行って待機していればいいじゃない!
校内で渡す必要はない。どうして私はこんな単純な思い込みに囚われていたのだろう。流石に男子たちも私の帰路をストーキングはしないだろうし、もう諦めていると思う。バッチリだ。
私は掃除が終わるとすぐ荷物をまとめて校舎から飛び出た。あいつは帰宅部だからもう既に学校から出ているかもしれない。1時間待って来なかったら残念だけれど帰ることにしよう。そう決めて私は校門から少し離れたところで待機した。
待つこと十数分。
身長だけが取り柄のあいつがノソノソと校舎から出てきた。
(なんなのあの顔……)
こちらに歩いてくる彼は、キリッとして覚悟を決めたような険しい表情をしていた。これから新たな旅に向かう少年のような熱い信念が彼から溢れ出ている気がした。
彼は校門から一歩出ると立ち止まって胸に手を当てた。本当になんなのこいつ。夕日にたそがれる彼に呆れるも、最初で最後のチャンスだと思い、私は声をかけた。
「あら。待っていたわ」
日羽アリナがいた。
なぜ校門にいるのだろう。待ち伏せか? 一体いつ俺の体内に追跡機器を埋め込んだんだ。
「え? 何しとるんですか」
まさか。まさかのまさか、俺に渡すために?
「待っていたのよ。歩きましょう」
歩く。
右足出して、左足出して。歩幅は70センチ、ウォーキング、ウォーキング。ガッシャンゴッション。
歩行がこれほど難しいと思ったのは生まれて初めてだった。二足歩行ってこんなに難しいものだったとは知らなかった。命を繋いできた人類に感謝。
俺の緊張とは真逆にアリナはいつも通りの冷めた表情で、美しい髪を小川のように揺らしながら歩いていた。鼻先が少しピンクに染まっていて、この寒い中、だいぶ校門で待っていたようだった。
かさっと紙の擦れる音がした途端、アリナは俺に紙袋を突き出してきた。紅の抽象的な模様がデザインされた紙袋だった。
「あげる。感謝の印」
彼女はまっすぐ前を見据えながらそう言った。どうやら照れ隠しのようだ。
俺は有難く受け取った。
「ありがとう。マジで貰えるとは思わなかった。これを機に僕は平和の使者になろうと思います」
「そ」
実を言うと俺は嬉し過ぎて精神崩壊を起こしかけていた。焦らされて焦らされてやっと手にした望みのものが今、俺の手中にある。世界の中心で喜びを叫びたい気分だった。
「もしや手作りですか……?」
「えぇ。味わいなさい」
アリナさんが人間とは思えぬ可愛さに包まれている気がした。宇銀が負けるレベルだ。それほど可愛い。
早く開けて食べてみたいのだが家まで待とう。歩きながら食べる行為は極刑にあたるだろうし、軽々しく見るのも愚かな行為だ。
アリナは視線を少し下げ、目をパチクリさせて前をずっと見据えている。無感情に見えるが、さっきから鞄から尻尾のようにマフラーが飛び出ていて、路面でずるずると引きずられている。彼女も普通の心理状態じゃないようだ。
ぶーぶーとスマホの着信音が低く響く。俺かと思ってポケットに入れるも違ったようで、アリナのようだ。
「アリナ、鳴ってるぞ」
彼女の耳は現在トンネル状態のようで脳に届いていないようだ。
俺は肩を掴んで揺さぶった。
「いやっ! セクハラ!」
「アリナスマホスマホ」
「なに?」
「アリナスマホスマホ」
「あら」
ようやく気付いた彼女は電話に出た。
相手はどうやら母親らしい。その間俺はホワイトデーのお返しを考えていた。
やはり手作りには手作りで返すべきだろうか。それとも高めのチョコを買うべきだろうか。
わからない。漢文並みにわからない。プライドの高いアリナならやはり値段か? 天使アリナなら手作りを相当喜びそうな気がする。ん、もしや毒舌アリナと天使アリナの2人分を用意すべき……? しかし、艶かしい肉体は1つだ。いやいや味覚を感じる魂は2人だぞ。これは哲学の先生を呼ぶべきではないだろうか。
我に帰ると傍にアリナがいなかった。
振り返るとアリナはスマホを片耳に押さえながら立ち止まっていた。相変わらず前を見据えていたが少し違った。俺の目に焦点を合わせている。
「どうした?」
戻ってアリナにそう訊く。依然として彼女は固まったままだ。
「何か忘れ物か? 銅像みたいになってるぞ」
アリナはスマホを耳から離し、放心したような抜けた表情になった。だらりと垂れた手のスマホ画面はまだ着信画面が表示されていて繋がっている。
俺は指をさして「繋がってるぞ」と言ったが彼女は聞く耳持たず。様子が変だな、と思った時、彼女は口を開いた。
「父が。父親が、死んだ――」
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