太陽の物語

第63話 あなたが消えた日

 母の口から出た言葉で、私の頭の中は真っ白になった。


 しきりに彗が私に何かを言っている。けれど私の現実は希薄していった。まるでプールの中にいるみたいだ。全てがぼんやりとして、輪郭線は失われて、音はくもっている。きゅっと小さな圧力が首全体を締めて心拍数が上がった。

 

 父は死ぬべきだったのだろうか。

 私を虐待して、私の心を蹂躙し、母を苦しめ、私の生活を壊した父の生死を私の言葉一つで命運を決められたとしたら、死か、生か、私はどちらを答えただろうか。


 父は死ぬべき人間だったのだろうか。

 生きるべき人間って何なのだろうか。


 死んでほしいとまではいかない。

 ただ二度と会いたくはなかった。





 彗が自宅まで付き添ってくれた。

 自宅には警察車両が1台停車していて、玄関から母と警察官2名が現れた。だから母が父を殺めてしまったのかと思い、鼓動が強く、そして早まった。


 母の表情はわからなかった。哀切、安堵、困惑、憤慨。そういった感情が入り混じって表現の限界を超えている。私の顔も同じような顔をしていると思う。

 彗は何も言わずに去っていった。迷惑をかけてしまったと私は悔やんだが、その謝罪を口にできるほどの余力は一滴も残っていなかった。

 警察官の説明もよくわからないまま私は車両に乗せられた。母も乗車し、警察官が無線で何かを呟くと車両はゆっくりと発進した。行き先はわからない。

 窓外に流れ去る街の人工灯を目で追いながら、永遠かと思えるドライブが早く終わることを切望した。車内は無言で、時折外部から受信する無線の音が響くだけだった。

 





 瀬戸山せとやま あきら

 医師が父の名前を口にした。

 遺体が父であるかを明確にするため、私と母はそう名付けられたであろう遺体の確認をすることになったのだ。

 私が瀬戸山アリナだったのは知っている。アルバムや小学校の頃に使っていた靴や教科書の名前がそうだったから。けど自分で口にした記憶も、呼ばれたこともなかった。


 父の死因は窒息死だった。

 泥酔しきって路上で寝込み、嘔吐してそのまま窒息死したそうだ。遺体は綺麗にされていたからその形跡はなかった。死んでいるようには見えないほどに。最期まで父は酒に溺れ、酒に狂わされた人生だったらしい。

 父の遺体を前に、母は私に何も言わなかった。垂れた前髪で母の鼻先しか見えず、表情もわからない。ただ一言、医師に「明です。間違いありません」とだけ告げた。

 その後、私は別室で待機することになった。カウンセラーらしき人が声をかけてくれたが何も話したくなかったので、やんわりと断り、母と警察官や医師たちの話が終わるのをじっと待った。


『あの人が、亡くなったって――』


 母の言葉が蘇る。

 急に胸騒ぎがした。人が死んだのだ。ニュースのテロップで知る事実より、遥かに重みも現実味もある死が、私の心を掻き乱した。両方の肺がちゃんと酸素を吸い込んでくれない。地に足がついていない気がする。

 逃げたい。

 何一つ感覚したくない。

 お腹が縮こまる。私は腰を折って額を机に貼り付けた。

 

 約2ヶ月前。12月30日、父が訪れた時の言葉は本当だったのだろうか。

 改心した、悔やんでいる、この身を捧げる、と言ったあの口は真実を語っていたのだろうか。

 今となっては永遠の謎。

 死者の口は二度と開かない。





 事件性はないということで長く拘束されることはなかった。後日また話があるそうだが、母に対してなので私が話をすることはないようだ。

 葬儀は瀬戸山家が仕切ることになった。

 私たちは出席を断った。瀬戸山家は何も言ってこなかった。私たちの事情を知っているからこその暗黙の了解だった。

 自宅に帰ると母は「明日は学校を休みなさいね」と言い、自室へと消えていった。焦燥しきったやつれた顔をしたから心配だった。

 

 自分の部屋に入り、ベットに沈み込む。

 22時を回っているというのに私はまだ制服姿だった。着替える気にはなれず、目を閉じた。

 父が亡くなったところで生活に変わりはない。なのにどうして胸騒ぎがするのだろう。

 これで安心して暮らせるのに。

 恐怖から解放されたというのに。


 私はなぜ不安に駆られているのだろう。

 




 目が醒めると全身が怠かった。肋骨が変に曲がっているようで少し痛んだ。昨夜うつ伏せになって寝たようなので胸が苦しくてたまらない。起き上がって制服を脱いでいると嘔吐感がこみ上げた。


 ──父親が死んだ。


 吐きはしなかった。一呼吸ついて落ち着くと妙に頭が重い感じがした。寝すぎでもないし、寝不足でもないのに頭が重たい。何かがおかしかった。

 シャツのボタンを外している時、壁掛けボードが目に入った。それは「4年1組 瀬戸山アリナ」と名前が書かれた手作りのボードだった。

 指が止まった。

 わかる。あれは図工の時に作った。ボンドや釘を使い、木製部分にはニスを塗ったこと。楽しかったこと。その日、ニス臭くて嗅覚がおかしくなったことも。

 覚えていないはずの幻が花が開くように色付く。

 

「う、わぁ――」


 立ち上がって頭を抱えた。

 父の顔が鮮明に蘇る。小学校を卒業した時のことも蘇る。あらゆる学校での思い出も。父が捕まった時も。母の旧姓になった時のことも。もう1人の私が見てきた全ても。

 バラバラに散らばっていたパズルのピースがひとりでに動いて絵を成していく。そんな感覚だった。


「どうして――」


 どうして、私は忘れていたの。

 3年も記憶喪失で苦しんできた。一生、自分が何者か分からず孤独に死ぬと思っていた。こんなに前触れなく唐突に記憶が戻られても混乱するだけだった。

 視界に映る私物に紐付いた記憶がズルズルと引き出される。妙な感覚だった。いつこの部屋に置かれたのかもわからなかったのに、今の私にはその経緯の全てが見える。霧が晴れたような、そんな感じだった。


 でも何かを失った気がした。

 ここ3年間のことはちゃんと覚えているし、通う高校のことも友人もわかる。それでも私は違和感を覚えた。父の死だろうか。

 不安はまだ払拭されていないようだった。





 

 アリナが学校を休んで3日経った。

 別れた父親はなぜ亡くなったのだろう。訊けるはずもなく俺は平凡な日常を過ごしている。

 バレンタインデーが過ぎ去ると元どおりの風景が戻り、幻覚だったかのように香水もホストも消えた。ぴたりとチョコの話題も無くなり、俺たち2年生の次の話題はクラス替えや受験などにシフトしていった。


「さっき日羽を見たよ」


 缶の蓋を開けようと指をかけた時、真琴がそう言った。


「マジ?」

「うん。白奈ちゃんと歩いてたよ」


 俺は廊下に出た。すぐにアリナと白奈の後ろ姿が目に入った。


「おーい、来てたのか」


 2人は振り返って俺に注目した。


「アリナ、もう大丈夫なのか?」


 彼女は答えず、口元を手で隠して白奈の耳元でヒソヒソと囁いた。白奈は「えっ?」と呟いた後、「またまた〜」とアリナをポンポンと叩いて笑い飛ばす。

 アリナは納得しきっていないようで眉をひそめて困惑しているようだ。


「彗、アリナさんと喧嘩でもしてるの?」

「一方的な罵倒なら日常茶飯事だが」


 何か気に障ることでもしましたかね、僕。

 アリナの家まで送っていった時に失礼なことでもしただろうか。

 いや、断じてない。なぜならそんなことをしたら俺は生きていないからだ。今日も元気もりもりの帰宅部員です。

 アリナは首をかしげて、俺に目を合わせた。


「ごめんなさい、あなた誰?」

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