第61話 選ばれざる者、選ばれた者
「そ」
そっけない返事がアリナから返ってきた。
彼女がこの返事をする時は、本当に面倒に感じている時か興味がない時だ。おそらく後者だろう。
問題は今こうしてアリナが隣にいること。嫌でもあのことを思い出す。
『あんたにチョコ作ってあげるわ』
本当にお作りになられたのだろうか。俺に渡すためにこのタイミングで現れたのだろうか。どうなんですか、アリナさん。
じっと横目で彼女を見る。
しかし彼女は何も言わず、反応せず、左を向くと歩いて行った。そしてそのまま彼女の教室へと消えた。
(あれ?)
彼女は手ぶらだった。教室に戻ってチョコを持ってくる可能性があると推理した俺はしばしその場で待機した。
他人の目からはとても奇妙に見えるだろう。何故なら体躯の良い1人の男が新聞部部長の『僕のチョコを君にあげる』と英語で書かれたポスターを直立不動でじっと見ているからだ。何かに啓発されたのか、はたまたチョコを貰えず焦燥しているかは見た者が判断するので俺は何もいえない。
結局アリナは来なかった。
校内に響き渡る鐘の音が次の授業の始まりを伝える。一体俺は何をしていたんだ。本当にポスターを舐めるように観賞していただけじゃないか。こんなことならゴミ箱に捨てられたお菓子のベルマークを採集していた方が幾分かマシだった。
次のトイレ休憩。
俺は敢えて教室から出るのをやめた。廊下にチョコを求めるゾンビたちが徘徊している。非常に見苦しい。
本当はアリナと遭遇したくないからだ。単に気まずい。だから俺は尿意を抑え、昼休みまで膀胱に頑張ってもらうことにした。
4時限目が終わる頃、俺の膀胱は悲鳴をあげていた。水風船のように張っている気がする。下腹部を少しでも刺激されたら超新星爆発を起こして本校は塵一つ残らない。それほどの緊急事態なのだ。
昼休みを告げる鐘が鳴る。担当教師に礼をした後、俺はゆっくりとすり足でドアへと向かう。
「おーい、彗。飯にしよー」
「しばし待ってくれ」
振り向かず俺はすり足を続ける。少しでも足をあげたら臓器が持ち上がる。その刺激でもジ・エンド。俺は社会的に終わる。
たった数十メートルの距離が永遠に感じる。尻の穴を締めて集中し、氾濫しようとする我がレモンジュースを抑え込む。
教室から出た瞬間、鶴に呼び止められた。
「あ、すいー。そういえば新聞部の──」
「今はダメだッ!」
おそらく生徒会としてお礼を言いたいとかなんとか言うつもりなのだろうがそれどころじゃねえ。
俺は銃弾を受けた主人公のように、廊下の壁に手を当てながら歩いた。尿意ごときで帰宅部員の俺がここまで追い詰められるなど何たる醜態。絶対に漏らしてはいけない。
ちょうど隣の教室を通過しているときにアリナが教室から出てきた。目が合う。
「今はダメだッ!」
「は?」
今は何もかもだダメだ。アリナは不可解な表情を浮かべ、俺をじっとり見た。人間に嫌われる悲しきモンスターの気持ちがわかった。
俺はなんとかトイレに到着し、全身の鍵を解除した。
しっかり俺もチョコレートに翻弄される側の人間だったと自虐した。
真琴と黙々と飯を食いながらふと思う。
今日、俺はアリナに会う予定がない。
アリナ更生プログラムの一環として何らかの活動をやっているわけだが本日に限って何もなかった。つまりチョコを頂けるタイミングが巡ってこない。
いやいや自意識過剰だ。
あれはからかっていただけなのかもしれない。もしや違う解釈の仕方があるのか? だが他の解釈をしようがないほど言葉はストレートだった。
「彗。弁当がイマイチでも感謝しないとダメだぞ」
「不味いわけがないだろう。母上のスペシャル弁当だ。世界一の料理だ」
「ごめん、でもずっと顔が険しいから」
「こういう顔で生まれたんだ。スペシャル出生」
「もしやチョコ関連で?」
「違うぞ。人間の真理について考えていたんだ」
「なるほど。日羽から貰えてないんだ」
「高校生クイズの早押しよりお前凄いな。おじさん感動しちゃったよ」
彼はうんうんと腕を組み、首を上下に振った。わかるよその気持ち、と彼は表現する。
「あいつから渡すって予告されてるんだ。だからいつ貰えるかわからないから無駄にドキドキしてるんだよ」
「え、マジで!? マジで日羽から貰えんの!? 嘘だろ!?」
「いや嘘かもしれんぞ」
「マジかよ……去年なんてすごかったんだぞ」
「何がだ?」
「日羽から貰えるかもしれないってみんな期待して、日羽と同クラスだったやつは気合入れて髪型とかセットしてたんだ。花まで買ってるやつもいた。『俺はアリナさんと話したことがあるから貰える!』とか『俺は触ったことある!』とか言い合って、自分が選ばれることをみんな信じてやまなかった」
「イカれてる」
「結局日羽は誰にも渡さずに終わった。花を買ったやつはタイミングをはかって渡したらしいけど、石でも食えって日羽に言われたらしい」
「よく渡せたな」
「そんなわけで今年も凄いぞ……隣のクラスをちらっと見たけどやっぱり男子は髪を整えてきてる。あと女子以上に香水がすごい。日羽がいるからね」
そんなに激レアなのかよ。
そこまで言われると隣のクラスが少し気になった。一体どんなホストクラブになっているのだろう。
「行ってみる?」
「飯食ったら覗いてみるか。昼休みは彼らにとってもチャンスだろうからな」
俺たちは箸の動きを早めてすぐ弁当をたいらげた。30分ほどまだ時間があるから男たちもさぞかし自分をアピールしていることだろう。それを肴にトマトジュースを飲むのも悪くない。
早速ホストクラブを覗きに教室を出た。
すると何てことでしょう。廊下にもホストたちがいるではありませんか。
「何だこいつらは」
「日羽と同じクラスになれなかった、選ばれざる者たちだよ」
きっと彼らはアリナが教室を出た瞬間を見計らって甘い言葉を囁くつもりなのだ。
あくまで他クラスの生徒であるから、彼らも堂々とアリナのクラスに居座れなくて廊下で待機しているのだろう。
彼らの傍を通り過ぎ、俺と真琴はアリナのクラスを覗いた。
すると何てことでしょう。香水の匂いでいっぱいではありませんか。
この混乱と混沌の中心にいるアリナはというと白奈と飯を食べていた。幸いにも不機嫌そうではなかった。白奈が同席しているからだろうか。
「彗、これが世界だ」
真琴が呟く。そうか、これが世界か。
教室に残っている割合も随分と多い。通常なら食堂に行ったり、部室に行ったりと人が減るのだが、男に関しては出席率100パーセントだろう。
「これが人間の真理か……」
アリナに魅了された男たち。
アリナに好かれたい男たち。
アリナに意識されたい男たち。
アリナに話しかけられたい男たち。
いろんな男たちが集まっている。
恐ろしくてたまらない。人間とはこうも欲望に従順なのか。そしてその欲望の対象となっているアリナも気の毒だった。これはストレスが溜まる。
白奈が俺たちに気づいた。反射的に俺は「おう」と手をあげる。彼女はバッグから袋を2つ取り出すと俺たちの方に近づいてきた。
「はいこれ、彗と真琴くん」
「お、ありがとう」
「白奈ちゃんありがとう!」
白奈はどういたしましてとぺこりとお辞儀して顔をあげるとビシッと指をさした。
「どっちも義理だからね!」
毎年言われて来た台詞だった。
その言葉の裏にある感情を俺は知らずに毎年貰っていた。だからいつもより若干乏しいリアクションとなってしまった。
「真琴くんは流歌ちゃんから貰えるけど、彗は今回初でしょ?」
「ははは。俺は既に宇銀とビューティフル・クレインから頂いている」
「ビュー……なに?」
「鶴だ。鶴様から頂いた」
「えー! 意外!」
白奈は目をパチクリさせて驚いた。まぁ俺も驚いた。
ちらっとアリナを一瞥する。アリナはこちらに見向きもせず箸を動かしている。
「じゃ、お返し楽しみにしてるねー!」
「おう。期待しててくれ」
自分の教室に戻り、席に着いてため息をついた。肺に残る香水を吐き出すつもりで。
「想像以上に香水ヤバかったな」
「鼻がおかしくなるよ……」
俺はその後、トイレに行ったり、売店でパン争奪戦争を繰り広げたがアリナとは一度も遭遇しなかった。
マジでアリナ姉さんと会わない。
昼休みも終わってしまう。
落ち着け。まずアリナから本当に貰えるとは限らないんだ。自意識過剰だ、榊木彗。お前にそんな魅力があるか? ただのトマト中毒者じゃないか。こんな変態を誰が好こうというんだね。
5時限目が始まり、終わる。
トイレ休憩。何もなし。
6時限目が始まり、終わる。
トイレ休憩。何もなし。
放課後がやってきた。
ホームルームが始まった。
終わった。
掃除だ。
終わった。
あら? 帰る時間になったぞ。
待て待て。君は世界を股にかける帰宅部のプロだろ。最強の思考力で一度考えるんだ。
何か見落としていないか?
アリナから何かサインは無かったか?
ダメだ。何もない。アリナと放課後会う予定も無い。
バッグを肩に掛け、教室を出た。通り過ぎざまにさりげなくアリナのクラスを覗く。アリナのバッグは無かった。
テニスウェア姿の白奈が教室から出てきて目が合った。
「ん? アリナさんなら帰ったよ」
あれれ、おかしいぞ?
いやおかしいことなんてない。絶対的なことは物理の世界にしかない。人間の行動に絶対はないのだ。
俺は帰宅部らしく運動部員たちの掛け声を聞きながら帰ることにした。寒いのによくやる。来月末あたりから暖かくなるだろうな。
鶴さんと白奈さんのチョコを大切に食べよう。カカオを栽培するアフリカの子供たちにも最大級の感謝を。
俺は大きな一歩を踏みしめ、校門を出た。沈みゆく夕日に向かって戦いを決意する少年のように。
俺たちの戦いはまだまだ続く。
「あら」
胸に拳をあてて冒険心に心を燃やしている時、ふと聞き覚えのある声が右耳に入った。
油不足でぎこちなく駆動するロボットのように俺は右に首を回した。
「待っていたわ」
日羽アリナがいた。
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