第60話 洋菓子に翻弄される男たち
テーブルに座っている。
視線をテーブルの皿に落として、俺は何かを待っている。
皿に一口サイズのチョコレートが現れた。デザインが刻印されているわけでもない、変哲のない長方形のチョコ。
俺はおもむろにそれを手に取り、口に含んだ。しかし味は全くしない。妙な異物感だけが不快感を催す。それが3回ほど続いた。どれも味気のない異物だった。
ガタンッ!
皿が原因不明の衝撃で少しだけ浮いた。
目線を上げるとテーブルの向かい側にはエプロン姿のアリナが両手をテーブルについて立っていた。テーブル、皿、アリナ以外は全て真っ暗闇でゲームのバグみたいだった。
彼女は眉を釣り上げ、大きな目をまたさらに大きく見開いて俺を睨んでいる。
「私のチョコが食べられないっていうの!?」
いや、食べてるじゃん。というかこれお前のチョコなのかよ。
ご機嫌斜めのようで、どうやら俺の反応が気にくわないらしい。彼女は前のめりになり、テーブルに膝をつけて乗りあがった。そしてずいずいっと俺に顔を近づける。
「私のチョコが食べられないっていうの!?」
近い、怖い。何が起きているんだ。
味のないチョコなんて初めてだ。水ですら味があるというのに一体どんな魔法を使ったんだ。
俺は誤解を解くために喋ろうとしたが、思うように口や舌が動かないことに気づいた。何故だろう。開くことも閉じることも、いや、口がどうなってるのかもわからない。
焦っているとカランと1個チョコが皿に落ちた。タガが外れたように質量保存の法則を無視して俺の口から滝のようにチョコが溢れ出た。嘔吐感は無く、俺はひたすら吐き続けた。
視界が固形のチョコで埋め尽くされ、もはや泳げるレベルにまで増えたチョコの海の中で俺は沈んでいった。落下は一定で加速はしなかった。
どこまで落ちるのだろうかと考えていた矢先、搔き分けるようにアリナが目の前に現れた。そして抱きつかれた。咄嗟に俺は叫んだ。
「死んじまう!」
全てが意味不明だった。誰に向かって言ったのかもわからない。何故死ぬかって、俺が訊きたいね。とにかく死ぬと思ったから叫んだ。
締め付けるようにアリナは俺をさらに抱きしめた。ありとあらゆる関節の自由を奪われ、節々が痛くなってきた。やばい、本気で死ぬ。ママ、助けて。
その時だった。
「好き」
ふっと息を切るように目が覚めた。
夢だ。
あんなふざけた夢をどうして人間は現実として処理してしまうんだろう。本当に不思議だ。まずチョコを吐いた時点で気づけ。
俺の右半身がベットと壁の隙間にすっぽり入り込んでいた。壁とにらめっこしている状態だ。誰だ、俺にこんなことをしたやつは。俺自身だ。
「うるさいんだけど! ご近所迷惑!」
聞き慣れた妹の声が背後からとんできた。
ドアがぶち破られる音だけだったからノックは無かったようだ。いつも言っているだろう。思春期は人の足音に敏感な時期なんだよ。ノックは絶対にしろ。これは日本国憲法にも書いていることだ。
「宇銀、助けてくれ。俺はどうなってる」
「え」
「正直に言ってくれ。俺は助かるのか」
「えとー……」
「遠慮なく言ってくれ。ヤバかったらモルヒネを――その……モルヒネを打ってくれないか。最期は楽でいたい」
「朝ご飯食べなぁ……」
ドアの閉じる音がした。見捨てられたのか、俺は。お願いだ、戻ってきてくれ。頼む。死にたくない。金ならあるんだ。お願いだよ、娘が故郷で待ってるんだ。ここでのたれ死んじまったら、おい、行くな!!
朝メシを食べながらテレビが発する光情報を脳味噌に送り続けていると宇銀が空気を震わせて俺の鼓膜を揺さぶった。つまり話しかけてきた。
「何があったの? なんか、とにかくすごかったよ」
「俺もよくわからない。起きたらあーなってた。肋骨が変形した。おかげで肋骨をガバッと外側に開けるようになったぞ。エイリアンみたいに」
「いつか保健所に行こうね」
普通に脱出できたからいいが、なぜあんな夢を見たのだろう。今日がバレンタイン当日ということが原因だろうがそこまで俺は固執していないから不思議でならない。それにアリナまで登場しやがって。まるでやつが好きみたいじゃないか! 勢いで言ってしまったこともあったがあくまで天使アリナだ! そして俺は赤草先生信者だ!
「兄ちゃん。これ」
宇銀は指で直方体の小さなプレゼント箱をピンっと弾いた。クルクルと回転したそれは俺の手元で停止した。
「おやおやおや、これは、おやおやおや?」
「今年で本当に最後だからね」
開けると中にはハート型の伝説の宇銀チョコが一つあった。
感激。
彼女はまるで、私の灰色の心を浄化してくれる天使のようでした。
私はその宝石のように光り輝くチョコを手に取り、まじまじと見つめました。ああ、なんて美しいんでしょう。この世のものとは思えません。食べるのがもったいないくらいです。
「早く食べて。いつまでも手に持ってたら溶けるし、遅刻しちゃうよ」
「ありがとう。兄ちゃんはアメリカのスタチューオブリバティのような女神像を日本に作るよ。モデルは榊木宇銀にしよう」
「恥ずかしくて外に出られなくなるからヤメテ」
一思いに齧る。ベリーグット。ライフ・イズ・ビューティフルだ。
そんなわけで今日は審判の日、バレンタインデーである。この日に限って男子たちは若干露骨すぎない程度にお洒落する。そう、求愛行動だ。
だがこれは間抜けでしかない。普通に考えて、女子たちは渡す相手を前から考えているのだから当日にお洒落してもほぼ意味がない。もしかしたら気が変わって渡してくれるかもしれないが望みは薄いだろう。小学生と違って高校生のバレンタインは重い。異性を明確に意識しているからな。
客観的見地として気取って語っている僕ですが、実は結構そわそわしています。
アリナの「チョコレート予告事件」のせいでいつチョコを渡されるのかドキドキしているのである。下駄箱かも、と気構えたが食べ物類を下駄箱に入れるということは衛生的にまずいだろうとすぐ冷静になった。案の定入っていない。
教室に向かっている最中、廊下で段ボール箱を持って立つ男子たちがいた。箱には『哀れな僕らにご慈悲を』と書かれた紙が貼り付けられており、男子らは口を揃えて「お恵みを!」と叫んでいる。あれは末期だ。救いようがない。彼らは人類が滅んでも求め続けるだろう。
教室に入るやいなや、真琴が飛んできた。
「貰った!!」
彼の机には可愛らしい紙袋が置いてあった。どうやら無事に流歌から貰えたようだ。
「良かったじゃねえか」
「彗の言った通りだったよ!」
「だろ。もっと彼女を信用しろって。信用とも違うか」
「いや〜ごめんねー彗! 貰えるといいね〜!」
彼の結婚式に招待されたら式場で盛大に小便を漏らしてやろうと俺はこのとき心に誓った。
脳内お花畑の彼とのコミュニケーションは腹が立つだけなので適当にはぐらかして離れた。席について息をつく。周りを見渡すとやはり男子たちにいつもと違う緊張感が漂っている。
自分が選ばれるかもしれないという博打的な高揚。彼らの心情が空気を介して伝わってくる。
「おはよー」
二渡鶴が挨拶してきた。普通のことだが今日に限ってはやはり何かがあると身構えてしまう。俺はリコピンを摂取して冷静になろうと思い、トマトジュースをドンッと机に立てた。やばい時はこれに限る。
「寒い日によく冷たいもの飲めるね」
「生命活動に必須だからな」
「もはや水じゃん」
「俺にとってトマトジュースは水とか酸素と同じだからな。不足したら死ぬ。精神的に」
「面倒な身体してるね。話変わるけど男子たちすっごい不自然だよ。やっぱ気にするもんなの?」
「見ての通りだな。教室に来る途中見たか? 箱持って立ってたやつらだ」
「見た見たー! 去年もやってたよね」
「アレ、男が入れたらどうなるんだろうな。絶対面白いことになると思う」
鶴はあははと萌え袖でパタパタと両手をはたきながら笑った。やべ、マジでやってみたくなってきた。入れた瞬間どよめいて、さらにウインクでもしたら彼らの絶叫で窓ガラスが全部割れるだろう。
缶に手を伸ばすと鶴に取り上げられた。その代わりにパンケーキの入った透明な袋が机に置かれた。虚をつかれて俺は固まった。
「これなーんだ」
鶴が意地悪な目で俺に問う。
あの大きさ、色合い。すぐにピンと来た。
「TNT爆薬」
「すごーい。真面目に化学の授業受けてるんだねー」
まさかニワトリがパンケーキを俺に?
思いもしなかった出来事に俺はビビった。
「ありがとう。素直に嬉しいっす」
「どういたしまして。念を押しておくけど友人として渡してるんだからね? 義理って言ったらさすがに可哀想だから言わないけど」
「わかっとるわい。家で美味しく食べさせていただきます」
「どうぞ〜」
俺は大事にバッグにしまった。
「ホワイトデーをお楽しみに」
「ちょー期待してるから」
「妹に教えを乞います」
んじゃーと鶴は席に戻っていった。
本当に嬉しかった。ただのニワトリギャルだと思っていて本当にすみませんでした。これからはビューティフル・クレインと呼ばせていただきます。
校内は敏感になっていて男子たちが活発的でない。なりを潜めてじっと時が来るのを待っているようだ。そしてそれを煽るかのように新聞部の仕業であろう、あるポスターがあちこちに貼られている。
I GIVE YOU MY CHOCOLATE.
角ばったゴシック体の英語。某国の陸軍ポスターを連想するデザインだ。被写体は新聞部部長だった。案の定右下に『新聞部員募集中!』と添えてあった。もはや彼は部員確保のためなら手段を選ばないらしい。
そんなポスターをじーっと眺めているといつのまにかアリナが隣に立っていた。
彼女もポスターを眺めているようだ。
「あいつ男が好きだったの?」
「単なる部員募集が目的だから気にしないでやってくれ」
アリナの急な出現で心臓が破裂したのかと思うくらいの強い鼓動が、全身に響きわたった。
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