第59話 最後の1年
おかしい。
常識的に考えて、日羽アリナがチョコをあげるわけがない。リンゴが地上に落下するという約束されし物理法則を捻じ曲げるような怪奇現象だ。
過去、アリナチョコ目撃件数は0である。やつが誰にもチョコをあげないことは世界常識だ。しかしご本人は榊木彗にチョコをあげるつもりらしい。空耳でも幻聴でもなかった。「あんたにチョコ作ってあげる」とはっきり聞こえた。てっきり久しぶりに飲んだコーラでラリったのかと思ったが、冷静に考えてみればコーラにそのような成分は含まれていない。
だからこそ何らかの意図があると俺は勘ぐった。
毒を盛るんじゃないか、睡眠薬で身包みはがされるのでは、とハイスペック帰宅部員の俺はあらゆる可能性を考え、その全てを計算した。脳漿が煮えてしまうほど頭は熱を帯びていった。
結果、毒盛り。
これに違いない。日常的にボールペンや拳でジリジリと俺のライフを削ってきた彼女にとって今回のバレンタインはいい機会なのだろう。これはハニートラップだ。甘いチョコで誘って無抵抗化、あるいは殺害。
だが俺は騙されんぞ。
「毒を盛る気だな?」
単刀直入に彼女に問う。
人間という生物は嘘をつくと必ず何らかの『反応』を見せるという。声色や仕草に浮き出てくるのだ。彼女は俺の問いを絶対に否定する。
しかし重大な問題がある。俺はその『反応』とやらを何1つ知らないのだ。だから嘘など最初から見抜けないのである。世紀の大失敗であった。
「盛らないわ。感謝の印としてよ」
「闇組織の匂いがする。お前って人間の心臓がどれくらいで取引されてるか知ってそうだよな」
「普通に作るわよ。手作りよ」
「ちょっと待て。その『チョコ』は何かの隠語か? ダイナマイトを本当は作りたいんだろ? そうか、この映画は俺が犠牲となって被害を防ぐというシナリオだったのか。参ったな、ちょっくら日本救いますか。英雄も悪くないな」
「病院行ったほうがいいわ」
「もしやチョコレートとカレーを勘違いしていないか? いいか、チョコは甘い、カレーは辛い。大抵チョコは固形だ。カレーはインドだ」
喋っていないと動揺を抑えきれない。
まさかこいつからチョコを貰えるだなんて夢にも思わなかったことだから、ここで言葉を切ったら全身が痙攣する。そんな醜態を公然の場で晒せば俺は社会的に抹殺されるだろう。帰宅部員は常に高貴でなければならない。
「あんたって本当に素直じゃない生き物ね。実を言うと私じゃなくてもう1人の提案よ」
「え?」
「ノートに何度も書かれてるのよ。『チョコ渡してあげて!』とか『礼儀として!』みたいにね」
「さすがは天使アリナ。どこかの毒舌少女とは違う」
「本当に毒盛るわよ。とにかくそういうこと。期待していなさい」
なるほどなぁ、もう1人のアリナからか。
確かにあの性格だと言いそうだなーとストローを咥えながら思った。アリナはコーヒーを啜りながらぷいっと明後日の方を向く。あいかわらず綺麗な横顔だった。
さらっとアリナは言ったが未だに人格交代がなされているらしい。だから話を聞きながらも少し彼女が心配だった。くだらない話を挟んでもそのことでモヤモヤして頭に入ってこない。席を立つまでの記憶がぼんやりだった。
「兄ちゃん。今年からチョコ要らないでしょ?」
「はあああああ!?」
帰宅して早々のことだった。
コーラで汚染された食道を清めるために冷蔵庫からトマトジュースを手に取り、蓋を開けた瞬間、背後にいた宇銀が絶望的な言葉を放った。毎年のように頂いていた宇銀チョコが今年から生産停止だという。迫り来るお年玉卒業より辛い宣告だった。
もうダメだ、太陽系は終わりだ。
俺は目頭を押さえてよろめいた。
「そうか、そうだよな。宇銀もそういう年頃だもんな。泣ける」
「どゆこと」
「愛する人ができてしまったんだろ? もう兄ちゃんを練習台にしてチョコを渡す必要性もなくなったわけか」
「面倒だからそういう設定でいいや。今年から兄ちゃんはナシね。いつまでも甘ったれてちゃダメだよ」
「その台詞、心に来る。いつまでも
「いいじゃん。どうせアリナさんから貰えるんでしょ」
「何故それを。もしやお前も突然変異体なのか? 心を読むタイプか? 千里眼か?」
「アレだけ仲良くしてたらチョコの1つや2つ渡すでしょ……普通」
「そんなものなのか。ちなみに宇銀くんは今年誰に渡すんだ?」
「渡さないけど」
「もしかして……もしかしてだけど宇銀って妹じゃなくて弟……?」
「うわー! 今の録音してたら一生涯使える武器になってたのに! 受験なのにチョコとかそういう雰囲気じゃないって理由だよ。もしそんな雰囲気じゃなくても私が渡すのは全部義理」
「だよな。宇銀も兄ちゃんと同じ、独身貴族を目指してるもんな」
「兄ちゃんだけだよ。調子乗るとお母さんにトマトジュース買うのやめてもらうからね」
「すみませんでした。もう言いません」
せめて最後に宇銀チョコを味わいたかった。
二度と食えないと分かっていたのならもっと宇銀に奉仕しておくべきだったと後悔した。写真も撮っておくべきだった。無形文化遺産になぜ登録されないのか不思議でならない。
今頃受験生たちは面接でも受けているのだろうか。もちろん俺も高校受験の時に面接を受けた。
当時『面接』と呼ばれる場を経験したことがなかったため、俺は極度に緊張していた。
面接官に訊かれた志望動機に対して「理念と思想に強く惹かれたため」と大変意味不明なことを口走って空気を凍らせた。苦笑いで面接官から「まるで思想家か革命家みたいだね」と返された時は自分の目玉を押し潰そうと思ったくらい恥ずかしかった。
思い出すだけで喉を切り裂いて死にたい衝動に襲われる。無事合格したからいいが、面接官を担当した教師とバッタリ遭遇した時は苦笑いしかできなかった。弁解は一応したから結果オーライ。
2月14日。
バレンタイン2日前となった。女子たちがいる前で男子たちはソワソワしだすようになり、気味の悪い空気になっている。俺はその様子をちびちびとトマトジュースを舐めながら傍観している。
この場で「チョコッ!」と叫んだら面白くなりそうだ。驚いて飛び跳ねた後にフルボッコされる未来が目に見える。
中でも真琴が特にそわそわしていた。服の中にムカデでも這っているかのようだ。近寄ってからかうことにした。
「チョコレート!」
「うわああああ!!」
「チョコチョコチョコ!」
「ヴァァァァ!!」
黒板を引っ掻いた時のような反応を彼は存分に見せてくれた。
「何をそわそわしてんだ」
「みんなと同じだよ……」
「お前は流歌から愛のこもったチョコを貰えるんだからそわそわする必要ないだろ。もしかしたら血液も溶け込んでるかもしれんぞ」
「ヤンデレってやつじゃんそれ……」
「大丈夫だ。貰えるって」
「貰えないかもしれないじゃん!」
「いや貰えるだろ。さすがに」
「100パーセントなんてこの世にはないんだ……」
本当に不安定だな、このカップルは。俺はもう知らん。結婚するなり、離婚するなり、子供作るなり、家を買うなりなんなりしてくれ。
頭を抱える真琴を無視して流歌の方を見ると彼女はこくんと頷いた。
大丈夫だ、真琴。ちゃんと貰える。
贅沢な悩みを抱える真琴から離れ、俺は空になった缶を捨てに教室を出た。
自販機に隣接するゴミ箱に投擲し、我が教室に帰ろうと来た道を振り返るとどこかで見たことあるような顔がいた。
相手は俺の存在に気づいたようで会釈した。俺もとりあえず何度か会釈を返してみたが正直誰かわからなかった。というか変な目で見られた。きっと俺がキツツキみたいに顔を前後に動かす、ふざけた会釈をしていたからだろう。
「先輩……大丈夫ですか……?」
君は誰だ。うっすらと記憶にあるような、無いような。後輩だということはわかったが、それ以外だと男だということぐらいか。
すまん、本当に覚えていない。
「至って大丈夫だ」
「そうですか……先輩、俺のこと覚えています?」
「おおお、覚えてるとも」
お前は誰だ。
「本当ですか?」
「もちろんだ、ウィンストン・チャーチル!」
「中谷拓です!」
「なかたに、なかたに……ああっ! アリナに告ろうとして玉砕した後輩! 久しぶりだな」
「そ、そうです……あの時はご迷惑かけました」
「気にすんなって。アリナはあーいうやつだから」
「ははは……」
苦い思い出となっているようだ。テニスコートでの1件は俺も見てて辛いものがあった。結果がわかっていたからこそ申し訳なかった。
アリナが二重人格だなんてとても言えるわけがない。
「まだアリナのこと好きなのか?」
「えっ……そりゃあまぁ……はい、そうです」
「いつか振り向いてくれると信じて頑張れ。手強いやつだがな」
「は、はい。性格はがらっと変わってしまったようですが、やっぱり未練たらたらなんですよね、俺」
「別に悪いことでも恥じることでも無いだろ。後悔の残らない思春期をみんな憧れてるかもしれんが、それじゃあ人間として何も面白くない」
「先輩とか失敗ばっかしてそうですもんね」
「よく言われる。でも失敗が成功に成り代わる時もある。ここ数ヶ月で俺はそう思ったよ」
拓は「わかる気がします」と当たり障りのない回答をした。
彼がまたアリナに話しかけれることを願おう。それはアリナが普通のコミュニケーションを取れたことの証明にもなる。
それがわかったら俺の任務は完遂だと思う。
いつかは俺とアリナの関係も終わる。
彼女との、最後の1年だ。
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